そのオートバイは、いつも季節を映していたのに
別のサイトに公開中の作品です。誤字等を一部修正していますが、基本的にはそのまま掲載しています。カワサキの650からトライアンフに乗り換えたのは、私の実体験です(ただし、スクランブラーに乗り換えた訳ではありませんが)。
冷気が指の間に滑り込むように入ってきて、強く風を受け続ける部分、手の甲、外側のあたりの感覚がなくなってから久しかった。厚手のグローブをすれば寒さは和らぐけど、操作性がぐっと落ちる。厚手のグローブでは、低速での半クラッチや指二本で軽くかける前輪ブレーキを絶妙に操る、身体に染みついた経験が上手く機能しない。仕方なくインナーグローブと春秋用の革グローブを重ねて着用しても、進行方向から壁のように押し寄せてくる冷酷で非常な空気に、僕の全身は細かく痙攣し続けた。冬のオートバイは、寒さとの格闘だった。
運転しながら、僕は何度も顎の下にある英国のタンクに目をやり、そこに映るはずの景色を必死に探した。何度見直しても、信号で停まる度に顔を前後左右に動かしながら角度を変えて凝視してみても、英国のタンクには自分自身のヘルメットの顎の先しか映らなかった。
「南美子」
僕は無意識につぶやいていた。その言葉に答える声は、決して返ってはこないと分かっていながら。
* * *
英国の九〇〇と出会った頃、桜の枝先がほんの少しだけ膨らんでいるのが気のせいかどうか分からないくらい、春はやっと顔を覗かせたばかりだった。冬が長く雪が異常に多い年で、趣味といえばオートバイしかなかった僕は、冬眠中だった当時の愛車、カワサキの六五〇に無意味にワックスをかけながら、週末の度に天気と気温をチェックして本格的な春の到来を待ちわびていた。
インナーグローブと春秋用の革グローブだけで手がかじかまない程度に気温が温まった週末、その年のカワサキ初乗りを決めた。二ヶ月以上ぶりにエンジンに火を入れられたカワサキは、長らく構ってあげずに機嫌を損ねた女の子のように、しっかりチョークをひいて暖気をしないとすぐにエンストしてしまう頼りなさだった。
オートバイはこまめにエンジンをかけて走らせてあげないと調子が悪くなる。その日もエンジンをかけることが目的で、行先は特に決めていなかった。近所を適当に回りながらいつの間にか、僕は初めて訪れる、家から十分程度の外車ディーラーに着いていた。三十分ほど走らせていたので、カワサキも上機嫌に大きな鼻歌を歌うように排気音を高鳴らせていた。
「Triumph」という英国の二輪ディーラーを訪れたのは深い理由があったわけじゃない。ただ、僕のカワサキは元々、トライアンフの「ボンネビル」というオートバイをモデルに造られたので、モデルとなったボンネビルを実際に見てみたかったという、ただそれだけの理由だった。
ディーラーの店員は、所在無げに立ち尽くす僕ににこやかに挨拶を投げかけてくれ、僕が目を止めていたボンネビルを熱心に解説してくれた。カワサキを買ったお店の店長のように、「バイクを扱う時は、女の子を扱う時のように、バイクにまたがる時は、ちょうど女の子に……」なんて、苦笑しか返せないような下品な台詞は絶対聞こえてこないような洗練された雰囲気に、外車ディーラーは包まれていた。
僕はボンネビルに対する店員の親切な解説の言葉に耳を傾けながら、しかしボンネビルの奥に静かに置かれているオートバイが気になっていた。遠目にはボンネビルとほとんど見分けがつかないそれは、理由は分からないが僕の両目をボンドでくっつけたように離さなかった。
「さすがお客様。お目が高い。スクランブラ―に目がいく方は中々おりません」
「スクランブラ―?」
店員が、ボンネビルの奥に向けられた僕の視線に気づいて声をかけたので、僕はすかさず聞き返した。
「ええ。ボンネビルをベースに、クラシックオフロードの要素を取り入れたモデルです。ブロックパターンの大口径タイヤと、右二本出しのアップマフラーが個性を際立たせています。九〇〇CC近い排気量でこういったスタイルのバイクは世界でこれしかないので、オーナーになられると注目されること間違いなしですよ」
店員は人懐っこい笑顔で、ゆっくりと聞き取りやすく話してくれた。スクランブラ―のシート高は、ボンネビルのそれよりも随分高く思えたので、僕は乗りこなせるかどうか躊躇している旨を告げた。
「お客様くらい身長がある方なら何の問題もありません。当店のお客様で、一六〇センチ程度の女性の方も乗られています。私も試乗でたまに乗りますが、片足はしっかり着くので不安はないですよ」
そう話す店員も一六〇センチくらいしかないように思えた。一六〇センチの女性が乗れて、一六八センチの僕が乗れないことはないだろう。
「お客様。『大脱走』という映画をご存知ですか?」
「ええ。子どもの頃にテレビで何度も観ました。オートバイに乗るスティーブ・マックィーンが格好良くて憧れました」
店員は口の端をゆっくりと持ち上げるように笑みを浮かべ、喋るのが勿体なさそうに静かに口を開いた。
「そのマックィーンが乗っていたバイクが、このスクランブラ―なんです」
「えっ」
僕は思わず声に出した。
「厳密には、五十年前のバイクと全く同じということはないのですが。映画の撮影の時、用意されたBMW製のバイクが、マックィーンのお気に召さなかったんです。当時のBMWは使い物にならないポンコツでした。今となっては想像もできないですけどね」
店員は環状八号線の斜め向かいに店を構える、BMWの二輪ディーラーを、目を細めて眺めながら続けた。
「それで、マックィーンは自らの愛車、トライアンフを持ち込んで撮影に臨みました。そのバイクを現在に再現したと言えるのが、このスクランブラ―なんです」
「あの、ハンコ持ってきていないんですけど」
店員はより口角を上げ、余裕を持った口調で言った。
「印鑑は後ほどで結構です。まずはお掛けください」
契約書等の書類を準備する店員を眺めながら、僕は小奇麗な銀色の椅子に腰を下ろした。オートバイを売る気も、乗りかえる気も更々なかったはずなのに、スクランブラ―の圧倒的な存在感と、スティーブ・マックィーンの憎らしいまでの格好良さが、優柔不断な僕をいつになく勇敢にさせた。だけど、改めてスクランブラ―の値札を確認して、それが軽自動車どころか小型のセダンくらいは買えてしまう額だとやっと認識して、少しだけ現実に引き戻された僕の顔は引きつっていただろう。僕は無理やりスティーブ・マックィーンの顔真似をしながら、ローンの支払いをあれこれ何通りもシミュレーションすることで、少しでも気を紛らわすことに苦心していた。
英国の九〇〇が納車になる頃、南美子に出会った。出会ったといっても、同じ会社に籍を置いていたので、お互い名前と顔くらいは知っていた。敢えて出会ったという言い方をしたのは、仕事以外で初めて言葉を交わしたからだ。
僕と南美子が勤める会社は、高校生向けの進学情報誌を作る小さな広告代理店だった。大学・短大・専門学校を分野別に紹介する進学情報誌は、ほとんどのページがスポンサーの広告になっていて、その収入があるために無料で高校生に配布することができる。
僕は営業第四部で、主に都内東部・南部の学校を担当していた。南美子は企画調整課で通称「マルチ」と呼ばれる営業のアシスタント、つまるところ何でも屋だ。出会った頃、僕が二十六で、南美子は二十五だった。
僕は港区や文京区にある超一流大学の営業に良く行かされた。それらの大学は広告など出さなくたって学生がいくらでも集まるから、大学としては進学情報誌に全く興味を持っていない。だけど、それらの大学が載っているだけで、僕らの進学情報誌の格式が上がり、より多くの生徒の手に取ってもらえるようになり、スポンサーの利益につながる。だから、ただで広告を載せてもらうためだけに僕は営業を行わされた。年間数千万円以上を出してくれている大スポンサーに接する以上に媚びへつらって、僕は超一流大学の事務方に頭を下げながら、広告のレイアウトを決めていった。本来なら、一ページ百万円以上する広告枠をただで献上することに虚しい気持ちを抱いたけど、これが仕事というものかと、いつしか諦観さえするようになっていった。
ある時、僕が珍しく自分の机で仕事をしていたら、一つ上のフロアの企画調整課から、南美子が駆け込んできた。汗をかき、息を切らして飛び込んできた彼女を見て、何と声をかければいいかすごく迷ったけど、僕よりも先に彼女が口を開いた。
「すみません。福田さん。わたし、失敗しちゃいました」
長く喋ることができないかのように、南美子は途切れ途切れにやっとのことで言葉をつないだ。元々色白の彼女の顔は、色が全くなくなったかのように真っ白だった。
「落ち着いて。状況を説明してよ」
「W大学の広告の、フォントを、編集部に間違って伝えてしまったんです。先方は、ゴシックと指定していたのに、私は編集部に、明朝と伝えてしまいました。明朝で刷り上がった試し刷りを見て、先方が怒っているんです」
南美子は目を淡く光らせて、今にも泣きそうになりながら事の顛末を説明した。僕は黙って彼女の言うことに耳を傾け、その足ですぐさま営業車駐車場に向かった。
「福田さん。私も行きます」
「いいよ。俺だけで。俺が営業だから」
僕は南美子にそう告げると、営業車のカローラスパシオを走らせた。会社のある渋谷区初台から、営業先の新宿区西早稲田までは十五分くらいだ。大学に着くと近くのコインパーキングに車を停め、僕は事務棟に走った。まだ肌寒い三月だったけど、大粒の汗が次から次に流れた。
「この度は、不手際申し訳ありませんでした」
広報担当の事務員に対し、額がテーブルに擦りつくほど頭を下げて謝罪した。この大学は学生数が多い人気大学なので、広告を外されると我が社は数字では計れないほどひどい損害を被ることになる。
「全て、私の責任です。私の確認ミスが原因です。広告は指定通りにゴシックに訂正しました」
責任を取って、首を切られても仕方ないと思っていた。それくらい重大なミスだった。しかしW大の事務員は言った。
「次、こういうことがあったら、あなたのところとはもうお付き合いできません。でも私は、あなたを信じていますよ」
僕は大きく三回、顔を縦に振り、事務員の顔を見上げた。事務員は分厚い眼鏡の奥で細い目をより一層細めながら、はにかむような微笑を浮かべていた。
社に戻り、課長に報告した。課長は大きく頷きながら言った。
「良くやった。W大は影の大スポンサーだからな」
一円にもならないけど、広告枠に入っているだけで価値があるW大は、「影の大スポンサー」と呼ばれていた。
「福田さん」
その日の定時が過ぎた頃、南美子に声をかけられた。
「あの、今日は本当にありがとうございました」
彼女は深々と頭を下げて、申し訳なさそうに唇を強く結んでいた。肩が小刻みに震えているように見えたのは、気のせいではないだろう。
「気にしないでよ。これも営業の役目だから」
素っ気なく答えると、彼女は俯いていた顔を上げて僕の顔を見て言った。
「金曜日、空いていますか?」
「え? 特に予定はないけど……」
「お詫びにおごらせてください」
強引に押し切られる形で、僕は南美子の誘いに従った。
金曜日、定時を一時間ほど過ぎた午後六時から、会社から徒歩十分ほどの新宿に出て南美子と飲んだ。彼女のお薦めの、焼酎が豊富なおしゃれなお店だった。カウンターに二人で座りながら、僕は目の前に几帳面に並べられた焼酎の一升瓶や四合瓶を眺めていた。南美子は僕の右隣に座りながら、熱心に何度も何度も、W大の件でお礼を口ずさんだ。
「もういいよその件は。小林さんのせいだけじゃなくて、営業担当の俺のせいでもあるんだから」
「福田さん、格好良すぎますよ」
「え?」
「責任を一身にかぶって、わたしをかばってくれて格好良すぎです。企画調整の女の子たちは、みんな福田さんを見直したって言ってますよ。福田さん、企画調整課ではヒーローです」
今まで目立つことが一切なかった僕が「格好良い」「ヒーロー」なんて言われると、勘違いに近い気持ちの昂ぶりを覚えてしまう。
「からかわないでよ」
「からかってなんかいないですよ。少なくともわたしは、福田さんのこと格好良いって本気で思います」
南美子はそう言うと、急に恥ずかしくなったのか、顔を下に向けて急いでグラスを口に持っていった。焼酎の透明な流れが、彼女のふくよかな唇に流し込まれるのを見ていると、今まで意識して見ていなかった彼女が、一人の魅力的な女であるという意識が急激に押し寄せてきて、僕は狼狽した。
「福田さん、お酒強いんですね」
「まあ、そこそこね」
そう言いつつ、南美子の方が量を飲んでいた。彼女はあっという間にボトルを一本空けてしまって、僕らはもう一本ボトルを頼んだ。
「わたし、お酒が強い男の人、大好きです」
南美子はほとんど僕にもたれかかるように身体を寄せながら、二本目のボトルをぐいぐい飲んだ。勿論、僕も飲んだけど、彼女の飲みっぷりはすさまじかった。たまりにたまった鬱憤とストレスの塊を全てぶつけてくるような飲み方だった。
「小林さん、もう帰ろうよ。電車なくなっちゃうよ」
そう告げても、彼女は焼酎を飲むことをやめなかった。仕方なく付き合って深夜一時過ぎ、彼女がカウンターに肘をついてほとんど寝始めた時、僕は彼女の身体を抱えるように店を出た。おごってもらうはずが、僕の方がおごっていた。
「小林さん、家はどこ?」
「……」
「タクシーに乗せてあげるから、家を教えてよ」
「……」
全く反応がない。南美子は僕が支えていないとまともに立っていられないほど泥酔していた。僕は酔いがすっかり冷めてしまって、彼女の柔らかい身体に強く触れていることにドキドキしていた。
「横に、なりたい……」
「え?」
「横……なりたい」
南美子が指さした先に目を向けると、「HOTEL CHERRY」という、ピンクに光る下品な看板が見えた。
「あそこでいいの?」
僕が呆れたように確かめると、南美子は「うんうん」と僕の腕の中で頷いた。僕はほとんど引きずるように南美子をホテルに連れて行った。ラブホテルに入るのは、初めてだった。
入口で適当に空いている部屋から宿泊場所を決め、部屋に入ると、取り敢えず南美子をベッドに寝かせた。ガラス張りのバスルームにハート型のダブルベッド。見たこともない光景におろおろしている僕に、うつぶせに転がったままの彼女が声をかけた。
「まず、女の子の上着を脱がせて、ハンガーにかけてあげるの。次に湯船にお湯をためるの。福田さん、それくらい当たり前にしてあげないと、せっかくホテルに連れ込んでも女の子に逃げられちゃいますよ」
南美子がケラケラ笑うのを見ながら、傍若無人さに腹が立ったけど、ベッドにうつぶせに寝転がる彼女の上着を脱がせた。ひん剥くようにちょっと強引に脱がせたから、白いブラウスも途中まで一緒に脱げてしまって、少しだけ覗いた白い肩をしっかりと盗み見た。布団をかけてあげ、湯船に湯を張ったけど、彼女はぐっすりと眠っていて起きる気配はなかった。僕はソファに深く腰を掛けて眠った。
翌朝、僕は朝早く起こされた。揺すられている肩が、気持ち悪いほどに規則的な揺れを受けていた。
「ごめんさない。福田さん」
南美子はW大で失敗した時のように、顔を真っ白にしながら、ソファに横たわる僕の肩を揺すっていた。
「覚えていない?」
僕の問いに、彼女は首を縦に振った。
「小林さんが眠いっていうから、とりあえず寝せるためにここに来たんだ。ごめんね。誓って言うけど何もしてないからね」
南美子は更に二回首を縦に振って、僕の肩から手を離した。せっかく張った湯船に浸かることもなく、僕らはホテルを後にした。
それから、僕と南美子は急速に親しくなった。会社で顔を合わせる度に声をかけ合い、週末の度に飲みに行った。英国の九〇〇の納車日が近づくと、南美子は後ろに乗せてくれとせがんだ。
「あのさ、もしものことがあったらいけないから、俺は中途半端な気持ちでは後ろに乗せたくないんだ」
南美子と初めて二人で飲んだお店のカウンターで、グラスを揺らしながら僕が大真面目に言うと、南美子が間髪入れずに答えた。
「じゃあ、付き合ってください。彼女なら、いいでしょう?」
酒が入った南美子は、普段からは想像できない程大胆になる。僕ははにかみながら、彼女の申出を受け入れた。彼女は僕の腕を、お互いの頬と頬がくっつくくらい思いっきり引き寄せて、熱くて酒臭い吐息を僕の顔に吹きかけながら笑った。
南美子との最初のデートは、英国の九〇〇の納車日だった。ちょうど満開の桜を、タンデムで見に行った。空一杯に広がった桜が輪を作るように咲いた道を通る時、英国のタンクは桃色の花びらを映した。僕は運転しながら、目の前に広がる桜と、目の下、タンクに映る桜を両方楽しんだ。南美子は僕にしがみつきながら、左右に顔を振って桜を堪能していた。彼女が顔を振る度にお互いのヘルメットが当たって鈍い衝撃が加わったけど、指摘はしなかった。
桜が一番きれいな場所に停めて、お茶で乾杯した。南美子の肩を抱きながら桜を見上げていると、通行人が僕のスクランブラ―を見て、「かっこいい」とか「すげえ」とか言う声が聞こえる。僕は得意げになって、南美子の長い髪をなでながら、突っ張るように花びらを広げる桜を見た。彼女は少しだけ僕の方に視線を向け、顔一杯に笑顔を見せた。
「へー。トリンプってバイクも造っているんだー」
英国のタンクに刻印された「Triumph」という文字を見ながら南美子がつぶやいた。
夏、福島の奥会津、檜枝岐に行った。僕が毎年必ず行く秘境だ。東北自動車道西那須塩原インターチェンジを下りると、盛夏の灼熱の空気がぐっと勢いを失っていく。山間を抜ける高速ワインディングは信号のない幅広の快適な道で、ひんやりと涼しい空気が心地良い。英国のタンクには、濃い緑色の木々が映っては流れていった。
キャンプ場に泊まって、夜、南美子を連れ出す。空一面の星空に彼女は声も出ない。南美子の丸い瞳に星が映って淡く光るように輝いていた。時折、尾瀬に向かう自動車の音だけが、真夜中の奥会津に静かにこだました。
秋、渋滞を避けるために平日に休みを取って、日光に行った。いろは坂ではステップを擦る手前まで英国をバンクさせ、エンジンブレーキを引きずりながらヘアピンカーブを攻略していく。南美子が必死にしがみつくので、僕らは一塊になったかのように一体感で結ばれていた。英国のタンクに映る赤や黄色の葉を見ながら、次から次に四輪車を追い抜いていった。
「巡洋艦撃沈、空母撃沈、次はでかいぞ、戦艦だ」
僕は追い抜く四輪車を敵の艦船に例えて、爆撃機のパイロットになった気分でスロットルをあおった。
DVDを借りてきて『大脱走』も一緒に観た。捕虜収容所から脱出して、トライアンフで逃げるスティーブ・マックィーンはやっぱり格好良くて、じっと食い入るように見つめてしまった。彼がつかまってしまうシーンでは、南美子は目を覆った。小さい頃はマックィーンの格好良さしか目につかなかったけど、彼が脱走できずに拘束されるシーンの方が、大人の僕には強烈に印象に残った。
交際して一年が経った頃から、南美子は本屋や電車の広告、テレビCM等で、結婚に関する情報に敏感に反応するようになった。南美子はもうすぐ二十七になる歳で、友人から結婚式に招待される機会も増えた。友人の結婚式が終わる度に、必要以上に撮影された画像を僕に見せては、このドレスがいいとかこの演出がいいとか独り言のように解説した。
「今度うちに遊びに来てよ。軽い気持ちでいいからさ」
ちょくちょくそんな言葉をかけてくるようにもなった。彼女は実家住まいだったので、彼女の家を訪問すると必然的にご両親に挨拶することになる。僕は言葉として表れていない圧力に押しつぶされそうになりながら、南美子の意志表示を正面から受け止めることをせずに逃避を繰り返した。
休日に二人で会っている時、普段は仕事の話はしなかった。だけどその時だけは、僕は我慢ならずについ仕事の話を持ち出した。僕が担当するスポンサーとの連絡調整を、南美子が怠っていたのだ。先方の担当者は温厚な方だったから大きな問題にはならなかったけど、一歩間違えれば取り返しのつかない事態になりかねなかったミスを、僕は責めた。
「連絡はこまめにしてくれないと困るよ。大切なスポンサーなんだから」
休日に仕事の話をされて、南美子はうんざりした表情を隠すこともしなかった。
「仕事なんだからさ。手は抜かないでよ。こういうのって逃げてるって言うんじゃない?」
僕が更にたたみかけると、南美子は、堪えていたものを爆発させる勢いでまくしたてた。
「どっちが逃げてるのよ。逃げてるのは自分でしょう。わたしが折角お膳立てしてるのに、何にも言ってくれないし、行動してくれないし。わたしももう二十七なんだよ? 将来のこと真剣に考えてくれたっていいでしょう? ウェディングドレスだって、少しでも若いうちに着ないときれいに見えないんだよ?」
いつか来るだろうとは思っていたものが一気に押し寄せてきて、僕はただうろたえることしかできなかった。
「少し、待ってよ」
「待ってって、いつまで待てばいいのよ。逃げてばかりいないではっきりしてよ」
南美子は両目から涙をこぼしながら、涙声で正面から訴えてきた。僕だって彼女との結婚を考えていないわけじゃない。だけど、心残りは何もない状態でプロポーズできる心理状態ではなかった。もう少し、もう少しだけ待ってほしい。彼女を決して納得させることができない言葉しか出てこなかった。
「バイクなんて下りてよ。お父さんはバイク乗りなんかとは結婚させられないって言っているのよ。車に乗り換えてよ」
オートバイを否定されると自分自身を否定されたような気がする。僕は両手の拳に力を入れて身体の震えを止めようとした。
「バイクに乗る時の服にだけお金使って、普段はろくな服着てないじゃない。たまにはおしゃれなレストランにも連れていってほしいのに、着ていく服もないでしょう?」
売り言葉に買い言葉とはこういうことを言うのだろうか。僕は醜い一言を南美子に投げつけるのに、全然躊躇しなかった。
「俺と結婚したいんじゃなくて、ただ結婚がしたいんだろう? 相手は誰でもいいんだろう?」
そう言い終わるか終わらないか、左頬を激しい痺れのような鈍痛が襲った。振り下ろした南美子の右手が、小刻みに振動するように虚空に揺れていた。彼女は小さなハンドバッグをひったくるように手に取って、僕のアパートを飛び出していった。左頬に触れてみると、かすかに熱を持ったように少しだけ膨らんでいるような気がした。
それから自然消滅するように僕らの関係は終わった。交際期間はわずかに二年に届かなかった。真冬の色をなくした空に震えるような寂しさを感じた。青と桃色の歯ブラシはずっと二本並んだままで、捨てる勇気さえなかった。
一ヶ月後、南美子が退職するという情報が耳に入った。同時に「寿退社」という文言も無条件に耳を貫いた。二十代半ば以降の独身の女性職員たちは、嫉妬と羨望の入り混じった感想を身勝手につぶやいていた。南美子が退職する日、営業第四部に挨拶に来た彼女と目が合った際、侮蔑するような、勝ち誇ったような彼女の眼差しを僕は忘れることができない。
* * *
寒さの谷が一番深い一月下旬、僕は英国の九〇〇に乗ることを決めた。ユニクロのヒートテック、フリース、冬用の厚手のジャケット、ネックフォーマー、タイツと厚手の革パンツ……完全防備でのラインディングだったけど、表情一つない沈黙した冷気は、裾や襟や上衣と下衣の分かれ目から容赦なく侵入し、身体の表面の体温を残酷に奪っていった。
どこに向かうということもない。何か目的があるわけでもない。ただ、僕は何度も何度も、無意識にサイドミラーを確認していた。英国のタンクを覗いてみても、そこには何も映っていない。顔を上げると、灰色の冬空が無意味に広がっているだけだった。せめて流れる雲でも映っていてくれといくらタンクを見てみても、何一つそこには存在していなかった。僕は色を失った非情な季節の中を、英国の排気音に腹の底を不快に刺激されながら闇雲に走った。
タンクを覗きこむ僕の目に、水滴が映った。水滴は次から次に視界に飛び込んできて、いつの間にかタンク一杯に広がっていった。我に返ると冬の雨が突き刺さるように打ちつけてきていて、僕の全身は一瞬で雨水に包まれた。雨が降り出しても極寒の風は休むことはなく、濡れた身体を凍結させるように強力に叩きつけてきた。
英国のタンクはあっという間に水浸しになった。水は川のように勢いよく流れて、そこに存在していた全てのものを道ずれにするかのように、音もなく冬の空気に消えていった。
結婚を中々決断できずにふられたらこうなるだろうな、と想像して書きました。幸いそこは実体験ではないですが……




