第3話|契約――矢印の向き
港町の朝は、光が速い。
夜の濃さを一息で切り裂くように、窓辺の白が増え、路地の影が薄くなる。潮の匂いは同じでも、昼の潮は「生活」の匂いで、夜の潮は「終わり」に近い匂いだった。ユウリはまだ、その違いに敏感だった。前世の白い天井が、影として視界の端に浮くからだ。
だが今は、影の白を追い払う手順がある。
息を吸って吐く。
香木の匂いを吸う。
□を思い出す。
|で呼吸を整える。
…で余計な言葉を止める。
△で段を下げる。
昨日より、今日。
今日より、明日。
その積み重ねが“席”を育てる。
ヨルンの言葉は、まだ喉の奥で熱いが、熱いまま燃えない形に変わり始めていた。
孤児院の朝はいつもと同じだった。板が軋み、薄い粥が湯気を立て、子どもたちの眠い声が飛び交う。けれどユウリの中だけが違った。世界が二重に見える。現実の孤児院と、前世の病室。粥の匂いの奥に消毒の匂いが混ざり、子どもの笑い声の奥に機械音が混ざる。
混ざった瞬間、喉がひりつく。
ひりつきは焦げを呼ぶ。
焦げは寄る。
ユウリは薪を割りながら、呼吸を一定に保った。
力むと息が乱れる。
乱れると喉が焼ける。
「ユウリ、今日は港の手伝いだ」
院長マルタが言った。声はいつも通り乾いている。正しさの檻の声。だが、その乾きが今日に限ってはありがたい。感情がない言葉は形が強くならない。強くならなければ、寄られにくい。
「はい」
ユウリは二段目で返事をし、外へ出た。
港は忙しい。荷車が行き交い、魚の匂いが濃く、男たちの声が飛ぶ。そこには孤児の居場所がある。居場所というより、使い道だ。だが使い道があるだけ、孤児院の中より楽な面もある。
ユウリは木箱を運び、縄を締め、荷を積み替えた。単純作業は好きだ。単純作業は心が内側へ落ちにくい。身体が現実を掴む。現実を掴めば、影は入りにくい。
そのはずだった。
昼前、港の端で、白い布が揺れているのが見えた。
巡礼団。
白い外套、白い布、白い杖。人の集まりがゆっくりと港へ入ってくる。潮風に布が翻り、太陽の光が白を反射して眩しい。
その白が、ユウリの胸の奥の白を叩いた。
白い天井。
白いシーツ。
白い壁。
白い医師の服。
喉がひりつく。
焦げが鼻の奥で疼く。
ユウリは香木の袋を握りしめ、息を吸って吐いた。
海の白は動く。
病室の白は動かない。
動く白は生。
動かない白は終わり。
そう上書きする。
巡礼団の中心に、ひときわ背筋の通った男がいた。三十代半ば。短く整えた髭。質素だが清潔な服。目が鋭いが荒くない。人を守る目。
昨日、ギルドで見た顔ではない。
だが「現場の匂い」がする。
その男が港の荷を確認しながら、周囲に短い指示を出している。声は低く、怒鳴らない。必要なことだけを言い、余計な言葉を増やさない。――まるで、言葉の段を知っているかのように。
ユウリはその姿に引かれ、同時に怖くなった。
関わりたくない。
でも関わらなければ、旅が始まらない。
ヨルンは言った。
「次は外へ出る。巡礼路の護衛だ」
この巡礼団が、その「外」へ繋がる線なのだと、ユウリは直感した。直感はしばしば危険だ。だが、直感を手順に落とせば盾になる。
ユウリは息を整え、木箱を抱えたまま巡礼団に近づいた。
男がこちらに気づき、目を向ける。
「荷運びか。……孤児院の子か?」
ユウリは頷き、二段目で短く答えた。
「はい」
男は一瞬だけユウリの喉元を見る。
喉元。
そこを見られると、ひりつきが増す気がする。
ユウリは香木を握り、息を吸って吐いた。
男は言った。
「具合が悪いなら休め。だが、手を止めると危ない」
手を止めると危ない。
その言葉に、ユウリの胸が冷える。
この男は知っている。
現象を。
言葉が燃えることを。
匂いが寄ることを。
「……危ない?」
ユウリが問うと、喉がひりついた。
二段目から三段目へ上がりかける。
ユウリは息を吸って吐き、言葉を区切る。
男は断言しない。
「噂だ。……巡礼路で妙なことがある。荷が燃える。言葉が噛み合わない。焦るな、怒鳴るな、が一番効く」
昨日ギルドで聞いた言葉と同じだ。
効く――という表現。
これは経験者の言い方だ。
ユウリの胸の奥がざわつく。
この男は、ヨルンが言った「外」へ繋がる人物だ。
ユウリは短く言った。
「……怒鳴らない」
言った瞬間、喉がひりつく。
でも焦げは濃くならない。
外なのに、少しだけ席が育っている。
男は頷いた。
「そうだ。……その顔なら、護衛に向いている」
護衛。
言葉が刺さる。
自分が護衛? 十六の孤児が?
前世の自分は、守られる側だった。守られるどころか、守られきれない側だった。誰も自分を守りきれず、最後に終わった。
なのに今、護衛。
その矛盾が胸を叩き、喉がひりつく。
焦げが少し疼く。
男は、名を告げた。
「カイナンだ。巡礼団の責任者」
カイナン。
名は固定。
固定は引力。
だが、ここで名を知ることは必要だ。必要な固定は、盾にもなる。
ユウリは頷きだけ返した。言葉を増やさない。
カイナンはその反応を見て、少しだけ目を細めた。評価の目。
「護衛は二人必要だ。……一人は、銀髪の女だと聞いている」
銀髪。
リア。
ユウリの胸が熱くなる。
熱が喉へ上がり、ひりつきに変わりかける。
ユウリは息を吐き、熱を下げた。
「……リア」
それだけを言う。
カイナンは頷く。
「もう一人は――お前だ」
言い切り。
固定。
形が強い。
ユウリの喉が焼けた。
焦げが鼻の奥で濃くなる。
いきなり四段目へ引き上げられたような圧。
ユウリは香木を握りしめ、息を吸って吐いた。
ここで「違う」と言い返せば刃になる。
刃になれば燃える。
燃えれば寄る。
だからユウリは、二段目の事実だけを返した。
「……俺、弱い」
前世の事実。
今の不安。
短い言葉。
カイナンは否定しない。断言しない。固定しない。
「弱い者が護衛をする時代になった。……そうじゃないと、守れないものが増えた」
守れないもの。
言葉。
魂。
後悔。
礼。
ユウリは喉がひりつくのを感じ、息を整えた。
守れないものを守る。
それが旅の意味になる。
その時、背後から微かな気配が近づいた。
ふっと潮の匂いが変わる。
焦げが薄まる。
木と草の匂いが混ざる。
香木の匂いと同じ段。
ユウリは振り返る前に分かった。
リアだ。
銀白の髪が風に流れ、青いリボンが揺れる。白と淡い青の外套が陽光を受け、金縁が光る。青緑の瞳が、ユウリの横顔を一瞬だけ見て、次にカイナンを見た。儚い表情の奥に、切れない刃のような決意。
リアは言葉を短くした。
「話、聞いた」
それだけで、ユウリの喉のひりつきが少し引く。
リアの言葉は手順だ。
余計な固定をしない。
カイナンは頷いた。
「護衛を頼みたい。白の修道院まで三日。途中の宿は一つ。森の宿場」
森。宿場。
ヨルンが言っていた「次は宿で」が、未来の影として重なる。
リアは短く答えた。
「受ける」
言い切り。
だがリアの言い切りは刃ではない。
意味を固定するためではなく、手順を進めるための断定。
ユウリは、その横で息を吸って吐いた。
喉がひりつく。
焦げが薄く疼く。
リアが、ユウリの襟元を整えた。
指先が「今ここ」を置く。
それだけで、ユウリは言葉にせず頷けた。
カイナンはユウリを見て言った。
「お前も来る。……嫌なら断れ。だが、断るなら今だ」
断れ。
その言葉がユウリの胸に刺さる。
断る自由。
前世の自分にはなかった。
選べない人生だった。
今は選べる。
選ぶということは、責任を持つということだ。
責任は重い。重い言葉を呼ぶ。
重い言葉は燃える。
ユウリは、言葉の段を意識した。
今ここで必要なのは、四段目の核ではない。
核を叫ぶ必要はない。
必要なのは行動――矢印。
ヨルンは言った。
核は行動で返せ。
守れ。支えろ。選べ。
ユウリは息を吸って吐き、言った。
「……行く」
短い。
しかし、選んだ言葉だ。
言った瞬間、喉が焼けた。
焦げが一瞬濃くなる。
だがリアがすぐ、指で□を描いた。
席。戻れ。
ユウリは意識の中で□の中へ戻り、息を吐き、焦げを薄めた。
カイナンは頷いた。
「よし。出発は明朝。ギルドで契約を交わす。……今日中に必要なものを揃えろ」
明朝。
旅が始まる。
やり残しの旅が、現実になる。
その現実が眩しくて、怖い。
眩しさは熱になる。
熱は燃えやすい。
ユウリは息を吸って吐き、眩しさを胸に落とした。
胸に落とせば、まだ言葉にならない。
言葉にならなければ、燃えない。
⸻
港を離れ、リアと並んで歩く。
並ぶ。
並ぶこと自体が矢印だ。
前世の自分には、並んで歩く誰かがいなかった。
病室の廊下は、歩く前に終わっていた。
リアは歩幅を合わせるのが上手い。
合わせるというより、相手の呼吸に合わせて速度を微調整する。逃げることを知っている者の歩幅。守るための歩幅。
ユウリは言葉を探しそうになり、口を閉じた。
礼を言いたい。
でも今は言えない。
核は燃える。
リアは、ユウリの沈黙を責めない。
責めないことが、ユウリを救う。
しばらく歩いたところで、リアが言った。
「準備、する。……孤児院、抜け方も」
抜け方。
それは、現実的な支援であり、矢印の返礼でもある。
ユウリは頷き、短く答える。
「……抜ける」
リアは頷いた。
「言葉、増やさない。……院長、形が強い」
形が強い。
院長の正しさは固定だ。
固定は燃える。
燃えれば寄る。
ユウリは喉がひりつくのを感じ、息を吸って吐いた。
リアと話すとき、呼吸が手順になる。
呼吸が盾になる。
リアが急に立ち止まった。
ユウリも止まる。
止まると、世界の音が増える。
音が増えると、気配が見える。
リアは指で△を描いた。
危険。
段を下げろ。
ユウリは息を吸って吐き、指で…を作った。
黙る。
言葉を止める。
二人の前に、細い路地がある。
影が濃い。
路地の奥が見えない。
昼なのに、薄暗い。
ユウリの喉がひりついた。
昨日、迷子になった路地の影が重なる。
リアは首を振り、別の道を選んだ。
光のある方へ。
風のある方へ。
その選択が、ユウリの胸を少しだけ温めた。
守られている。
だが守られているだけでは、礼が返せない。
ユウリは歩きながら、行動で返せることを探した。
荷を持つ。
道を選ぶ。
呼吸を整える。
リアの背中の危険を拾う。
礼を言えないなら、礼を“矢印”で返す。
リアがふと言った。
「ユウリ、昨日……祠で□作った」
ユウリの喉がひりつく。
昨日の夜道。
囁き。
言わせる。
ありがとう。
核が暴れる。
だがここは昼。
風が匂いを散らす。
段を守れば話せる。
ユウリは息を吸って吐き、二段目の事実だけを言った。
「……効いた」
リアが頷いた。
「効いた。……でも次は、もっと来る」
もっと来る。
宿。
巡礼路。
森。
ユウリの喉がひりついた。
怖い。
でも、怖いと言えば燃える。
リアが続ける。
「だから、今……矢印、決める」
矢印。
ヨルンが言った矢印。
リアは指で、二本の線を描いた。
ユウリ→リア
リア→ユウリ
そしてその間に、□。
「席の中で、矢印を通す。……外で通すと燃える」
ユウリは理解した。
ありがとうを言いたい衝動は矢印だ。
矢印を外で通すと燃える。
だから席の中で通す。
言葉ではなく、行動で。
リアが言った。
「私が先に守る。……あなたは後ろを守る」
配置。
戦術。
それは矢印の設計でもある。
リアが前に出る。ユウリが後ろを守る。
それが、いまの二人の力の差に合っている。
ユウリの胸が熱くなる。
守る側になれる。
前世ではなれなかった。
喉がひりつく。
焦げが少し疼く。
ユウリは息を吐き、言葉を短くする。
「……守る」
リアが、ほんの僅かに口角を上げた。
笑いではない。
受領の表情。
その表情が、ユウリの胸を刺した。
刺さり方が痛いのに、心地いい。
前世の痛みとは違う。
生きている痛み。
⸻
ギルドで契約を交わすのは夕方だ。
それまでに必要なものを揃える。
だがユウリには金がない。
孤児の蓄えはない。
旅装など持てるはずがない。
ユウリがその現実に思考を落とした瞬間、喉がひりついた。
現実の重さは、形が強い。
強い形は燃えやすい。
リアが言った。
「ヨルン、いる。……借りる」
借りる。
借りるという言葉は、ユウリの胸を痛めた。
借りることは弱さの証明だと、孤児院で植え付けられている。
だが旅は弱さを隠す場所ではない。
弱さを手順に変える場所だ。
ユウリは頷いた。
言葉は増やさない。
ギルドの裏手の倉庫――ヨルンの工房へ向かう。
そこは木と鉄と油の匂いがする。
匂いが現実を強くする。
現実が強いほど、影は入りにくい。
ヨルンは工具を拭きながら、二人を迎えた。
その目は、窓際の席と同じ目だった。
基点を保ったまま観察する目。
「巡礼路か」
ヨルンの声は短い。
リアが頷く。
「明朝」
ユウリも頷く。
言葉は少なく。
ヨルンは棚を開け、古いが丈夫な旅装の束を出した。
革の胴当て。
水袋。
簡易の外套。
そして、小さな布袋。
「塩。……持っていけ。宿で効く」
宿。
その単語が、ユウリの喉をひりつかせた。
だが同時に、具体が盾になる。
宿で効く。
つまり、宿で危険が来る。
ユウリは息を吸って吐き、布袋を受け取った。
塩のざらりとした感触が、現実を掴ませる。
現実は盾だ。
ヨルンは次に香木の袋を二つ出した。
一つはユウリへ、もう一つはリアへ。
「匂いの段。……切り替えろ」
リアは受け取り、頷いた。
ユウリも頷く。
ヨルンは最後に、薄い木札の束を渡した。
木札には何も書いていない。
紙ではなく木。
燃えにくい。
「書くな。……書くと燃える。だが、刻め」
刻め。
言葉を文字にしない。
形にする。
盾にする。
ヨルンは一本の木札に、ナイフで小さく□を刻んで見せた。
次に|。
…(点を三つ)。
△。
「符号だ。……言葉を短絡させるな。形で戻れ」
ユウリの胸が熱くなる。
符号が“自分のもの”になっていく。
手順が身体に入る。
ヨルンは、ユウリの目を見て言った。
「言いたい言葉は、増える。……旅に出ると、なお増える。増えるほど燃える」
ユウリの喉がひりつく。
ありがとうが喉元に押し寄せる。
ヨルンは、そこで一段落とす言い方に変えた。
「だから、言葉を減らすんじゃない。……言葉の“出口”を変えろ」
出口。
矢印。
行動。
守る。
支える。
ユウリは頷いた。
言葉の代わりに、木札を握る。
握ることが返事になる。
リアが、ヨルンに深く頭を下げた。
言葉ではなく形で礼を返す。
ユウリも同じように頭を下げた。
未完了の礼が、少しずつ「燃えない形」に移っていく。
それだけで、胸の痛みがほんの少し軽くなる。
⸻
夕方。ギルドで契約を交わす時間が近づく。
ユウリは一度、孤児院へ戻らなければならなかった。
旅装を持って出るには口実がいる。
院長の目がある。
言葉が増える。
リアが言った。
「私、外で待つ。……院長の前は、段を下げる」
段を下げる。
孤児院では一段目か二段目。
事実だけ。
必要最小限。
核は言わない。
ありがとうも言わない。
旅の理由も言わない。
ユウリは頷き、孤児院へ入った。
院長は台所で粥をかき混ぜていた。
背中が、いつもより硬い。
機嫌が悪い。
その硬さが空気に「形」を作っている。
形が強いと息が詰まる。
ユウリは息を吸って吐き、…を心の中で作る。
黙る。
余計な言葉を止める。
「どこへ行く」
院長が言った。
短い。
短いのに形が強い。
命令の形。
ユウリは二段目で答えた。
「港。……荷運び」
事実。
嘘ではない。
今までやってきたことだ。
院長は目を細める。
「その荷は」
旅装の束。
外套。
水袋。
塩。
香木。
木札。
言い訳を作る。
言い訳は言葉を増やす。
増えると燃える。
ユウリは息を吸って吐き、最小の事実だけを選んだ。
「……借りた。……仕事のため」
院長は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「借り物で格好をつけるな。お前は孤児だ。分を知れ」
分を知れ。
その言葉が刃になる。
ユウリの喉がひりつく。
焦げが鼻の奥で疼く。
怒りが湧く。
怒りは刃。
刃は燃える。
燃えれば寄る。
ユウリは息を吸って吐き、怒りを息に落とした。
言い返さない。
言い返すほど形が強くなる。
強い形は影の餌になる。
ユウリは頭を下げた。
礼ではない。
形の退避。
核を漏らさないための姿勢。
院長はそれ以上追及しなかった。
追及しないのではない。
追及する価値がないと思っているのだ。
その侮りが、ユウリを逆に自由にした。
ユウリは孤児院を出た。
外の空気は冷たく、潮の匂いが現実を戻す。
息が深くなる。
門の外でリアが待っていた。
銀白の髪が夕方の光で淡く染まり、青いリボンが揺れる。
その姿を見るだけで、ユウリの喉の焼けが引いた。
リアが、ユウリの襟元を整える。
息。
今。
ここ。
ユウリは頷き、言葉を増やさずに歩き出した。
ギルドへ。
契約へ。
旅へ。
————————
夕方のギルドは、昼と夜の境目の匂いがする。
昼の乾いた紙と鉄の匂いの上に、夜の酒と汗が薄く重なる。灯りがつき始め、窓の外の空が藍に沈み、床に落ちる光の帯がわずかに角度を変える。その変化だけで、ユウリは「時間」が進んでいることを強く感じた。
前世では、時間は進んでも、自分は進めなかった。
病室の窓の外だけが季節を進め、ベッドの上の自分は置き去りだった。
今は違う。
今日の夕方は、明日の朝へ繋がっている。
明日の朝は、外へ繋がっている。
外は、旅へ繋がっている。
ユウリは息を吸って吐いた。
胸の奥で熱が生まれる。
熱を言葉にしない。
形に落とす。
ギルドの受付は忙しそうだったが、ヨルンの顔を見せると空気が変わった。ヨルンは権威で空気を変えるのではなく、手順で空気を変える。受付の女は短く頷き、余計な説明をしないまま、奥の小部屋へ案内した。
小部屋は窓が小さい。だが、灯りが一つあり、机の上が明るい。
席の条件が整っている。
リアが先に□を描く仕草をした。
言葉ではなく形で「ここ」を定める。
ユウリも頷き、息を整えた。
ほどなくしてカイナンが入ってきた。
昼間よりも顔つきが硬い。責任者の顔だ。
その後ろから、巡礼団の人々が続く。
老いた修道士が一人。白い杖をつき、背を曲げているが、目は澄んでいる。
若い修道士が二人。静かな目で周囲を観察している。
それから――子どもが一人。十歳くらい。外套の裾が少し長く、手には小さな包みを抱えている。
子どもがユウリを見る。
ユウリも見る。
その瞬間、ユウリの胸がきゅっと縮んだ。
前世の自分が、教室の窓から校庭の子どもたちを眺めていた感覚に似ていた。
自分は外にいない。
外は遠い。
外は眩しい。
だが今、ユウリは外に近い場所にいる。
護衛として、ここにいる。
矢印の向きが変わる。
カイナンが言った。
「契約を交わす。護衛は二名。リアとユウリ。目的地は白の修道院。道中の危険は“現象”が中心だ」
現象。
言葉が燃える。
言葉が噛み合わない。
焦げの匂い。
ユウリの喉がひりついた。
焦げが鼻の奥で薄く疼く。
リアが机の上で小さく|を描いた。
呼吸。
今。
ここ。
ユウリは息を吸って吐き、疼きを押し下げた。
老修道士が、ゆっくりと口を開いた。
「護衛の方々に感謝を。……この巡礼は、ただの祈りではありません。持ち運ぶものがあります」
持ち運ぶもの。
言葉ではないだろう。
だが“形”として持つもの。
老修道士は続けた。
「言葉にする必要はありません。……ただ、守っていただきたい」
言葉にする必要はありません――その一言に、ユウリの胸が少しだけ救われた。
この人は分かっている。
言葉が刃になる世界で、言葉を減らす手順を知っている。
カイナンが頷き、机の上に契約書を置いた。
紙。
紙は燃える。
焦げの匂いが一瞬だけ立つ。
ユウリの喉がひりつく。
だが、契約書の紙は厚く、表面に蝋が薄く塗られていた。
燃えにくい加工。
対策だ。
カイナンは言った。
「契約は簡素に。余計な文言は削った。……署名だけでいい」
余計な文言を削る。
言葉の段を守る。
この世界では契約すら“燃えない形”に調整されている。
リアが先に署名した。
迷いがない。
筆跡は細いが強い。
それを見た瞬間、ユウリの胸が熱くなる。
熱が喉へ上がる。
ひりつく。
ユウリは香木の袋を握り、息を吐き、熱を落とした。
そして署名をする。
ペンを持つ指が少し震える。
震えは恐怖ではない。
選んだことの重みだ。
署名を終えた瞬間、喉のひりつきがほんの少し強くなった。
固定された。
護衛として固定された。
形が強い。
その強さを盾に変える。
ヨルンの言葉が響く。
――核を盾に変える。
――礼は手順で返せ。
契約が終わると、小部屋の空気が少しだけ緩んだ。
緩んだ瞬間が危ない。
緩むと余計な言葉が出る。
余計な言葉が出ると燃える。
ユウリは息を一定に保ち、視線を上げすぎないようにした。
そのとき、子どもがユウリの方へ一歩近づいた。
「ねえ、お兄ちゃん」
その呼びかけは無邪気で、しかしこの世界では無邪気が刃になることもある。
ユウリの喉がひりつく。
リアが机の上で…を描いた。
黙れ、ではない。
短くしろ、だ。
ユウリは息を吸って吐き、二段目で返した。
「なに」
子どもは包みを抱えたまま、目を輝かせた。
「護衛って、剣で戦うの? すごい? ぼくも――」
「戦うな」
ユウリは反射で言ってしまった。
言い切り。
固定。
形が強い。
喉が焼けた。
焦げが鼻の奥で濃くなる。
(しまった)
ユウリは息を吸って吐き、段を下げようとする。
だが一度出た言葉は、形として残る。
子どもの目が一瞬だけ曇った。
その曇りが、ユウリの胸を刺した。
前世の自分も、誰かに「やるな」と言われ続けた。
走るな。
無理するな。
出るな。
危ない。
やるな。
それは愛でもある。
でも同時に、未来を削る言葉でもある。
ユウリは焦げの疼きの中で、矢印の向きを変えようとした。
言葉を取り消すことはできない。
なら、形で返す。
ユウリは視線を落とし、子どもの包みを見た。
包みの結び目が緩い。
道中で解ければ、落ちる。
落ちれば、巡礼の中身が露出する。
露出すれば、匂いが寄る。
ユウリは黙って手を伸ばし、結び目を結び直した。
手つきは丁寧に。
言葉は出さない。
子どもがぽかんとする。
ユウリは二段目で短く言った。
「落ちる。……危ない」
さっきの「戦うな」より、ずっと燃えにくい。
事実。
手順。
子どもは包みを抱え直し、こくこく頷いた。
「うん……! ありがとう」
その「ありがとう」が、ユウリの喉を焼いた。
自分の核を、相手に言われた。
核が揺れる。
漏れそうになる。
影が、遠くで笑う気配がした。
――言わせる。
――言わせる。
ユウリは息を吸って吐き、香木を握り、□を心の中に描く。
席。
段を守れ。
核は今言うな。
リアが静かに子どもへ言った。
「ありがとうは、少し小さく。……あとでね」
子どもは意味を完全には理解していないが、雰囲気で頷いた。
リアの言葉は刃にならない。
固定せず、段を下げる言い方だ。
老修道士が微かに笑った。
「……お二人とも、よくご存じだ」
リアが短く返す。
「慣れ」
慣れ。
その一言の重さに、ユウリは胸の奥でだけ震えた。
リアは何に慣れたのか。
どれほどの現象を見たのか。
どれほどの言葉を燃やしたのか。
ヨルンが言っていた。
リアは昔「呼んだ」と。
呼んだ名前。
名前を持つと呼べる。
呼べると寄る。
リアが呼んだ“何か”は、今も追っているのかもしれない。
それが、妻へ繋がる伏線の匂いを帯び始める。
⸻
契約後、巡礼団はギルドの宿泊室へ移った。
護衛も同じ建物に泊まる。
出発前夜は、最も油断しやすい。
緊張が緩み、言葉が増える。
ヨルンは小部屋の外で、ユウリとリアを呼び止めた。
窓際ではない。
だが、廊下の端に小さな灯りがあり、壁際に立つと背中を預けられる。
即席の席の条件が整う。
ヨルンは言った。
「今夜は、宿だ。……影は“祝う”形で来る」
祝う。
出発前夜。
門出。
契約。
未来。
祝う言葉は甘い。
甘い言葉は核に触れる。
核に触れれば燃える。
ヨルンは続けた。
「祝われたら、礼を言いたくなる。……礼は核だ。言うな。返せ」
返せ。
行動で。
矢印で。
ユウリは頷いた。
リアも頷く。
ヨルンは最後に、木札を二枚取り出し、ユウリに渡した。
一枚には□。
もう一枚には、細い矢印が刻まれている。
→
「矢印を持て。……迷ったら、矢印を見ろ。お前が向ける先を決めろ」
向ける先。
リアへ。
巡礼団へ。
守る先へ。
ユウリは木札を握りしめ、息を吸って吐いた。
矢印の形が、胸の奥を落ち着かせる。
ヨルンは去り際に、低い声で付け足した。
「……それと、最初の一言を守れ」
最初の一言。
迷子?――こっちだよ。
守る。
守るとは、言葉を保つということだ。
燃えない形で保つということだ。
ユウリは頷いた。
言葉では返さない。
形で返す。
⸻
夜。ギルドの宿泊室。
巡礼団の部屋は簡素だが清潔だ。白い布が多い。
白が多いと、ユウリの喉がひりつきやすい。
病室の白が重なるからだ。
ユウリは香木を枕元に置き、塩を袋のまま握れる位置に置いた。
木札も。
□|…△→。
手順の道具。
盾。
部屋の灯りが落とされ、静かになる。
静かになると、内側が騒ぐ。
内側が騒ぐと、核が暴れる。
ありがとう。
言いたい。
言えない。
その矛盾が胸を刺す。
刺し続ける。
ユウリは息を吸って吐き、木札の→を指でなぞった。
矢印を外へ向ける。
自分の核を外へ漏らすのではなく、自分の行動を外へ向ける。
そのとき、廊下の向こうから小さな笑い声が聞こえた。
誰かが祝っている。
出発前夜を。
旅を。
祝う声は甘い。
甘い声は核に触れる。
ユウリの喉がひりついた。
焦げの匂いが、ほんのわずかに戻る。
リアが、同じ部屋の隅から小さく言った。
「……来る」
ユウリは息を吸って吐き、△を心の中に描いた。
危険。
段を下げろ。
廊下の笑い声が、いつの間にか「囁き」に変わっていた。
笑いの形を借りた囁き。
「……おめでとう」
「……旅だね」
「……ありがとうって言えば、もっと祝ってあげる」
ユウリの喉が焼けた。
核を叩く。
祝う形で核を叩く。
ヨルンの言葉通りだ。
ユウリは口を開けそうになり、噛みしめた。
言えば燃える。
燃えれば寄る。
寄れば削られる。
リアが、ゆっくりと部屋の中央へ歩き、床に指で□を描いた。
席。
戻れ。
ユウリはその□の中へ移動し、息を吸って吐いた。
香木の匂いを吸い、塩の袋を握った。
囁きが部屋の外で笑う。
「……二人でいる」
「……いいね」
「……言えば、もっといい」
恋を煽る。
絆を煽る。
甘さを煽る。
ユウリの胸が熱くなる。
熱が喉へ上がる。
ひりつきが増す。
ユウリは矢印の木札を握り、心の中で矢印の先を定めた。
→ 守る
→ 支える
→ 選ぶ
リアが低く言った。
「ユウリ。……返して」
返す。
行動で。
ユウリは黙って立ち上がり、部屋の入口へ向かった。
囁きの“口”を探すのではない。
囁きが通る“隙間”を塞ぐ。
ドアの隙間。
窓の隙間。
床板の隙間。
ユウリは塩の袋を開け、ドアの下へ薄く撒いた。
次に窓際へ撒いた。
匂いの輪郭を崩す。
焦げが薄まる。
囁きが途切れる。
リアが香木の袋を開き、部屋の中央へ置いた。
匂いを切り替える。
段を下げる。
囁きが苛立ったように震えた。
「……言わせる」
「……ありがとう」
「……最初の一言」
最初の一言。
その語が出た瞬間、ユウリの喉が激しく焼けた。
焦げが濃くなる。
影が“鍵”を知っている。
迷子?――こっちだよ。
鍵を奪われたら、物語の扉が歪む。
妻との出会いの鍵が歪む。
二度目の転生の鍵が歪む。
ユウリは息を吸って吐き、…を心の中で作り、言葉を止めた。
叫びたい衝動を止める。
核を止める。
鍵を守る。
リアが、ユウリの手を握った。
握りは短い。
しかし確かだ。
「迷子?――こっちだよ」
リアが、声に出さずに口だけ動かした。
言葉を燃やさない形で、鍵を共有する。
鍵を“二人の手順”に変える。
ユウリは頷いた。
鍵は一人のものではない。
二人の矢印で守るものだ。
囁きが、急に小さくなった。
塩と香木と席が効いている。
そして何より、鍵を言葉にせず保持したことが効いている。
囁きは最後に、低く笑った。
「……明日、外で」
「……巡礼路で」
「……言わせる」
それを残して、消えた。
消えたのではない。
次の舞台へ移った。
ユウリは息を吸って吐き、膝の力が抜けそうになるのを堪えた。
怖かった。
けれど、守れた。
鍵を守れた。
核を言わずに返せた。
初めて、護衛として守った。
それは矢印の返礼だ。
リアに守られ続けるだけではない。
自分も守れる。
リアが小さく言った。
「明日、出る。……森の宿場、危険」
ユウリは頷き、短く返す。
「……守る」
リアがほんの僅かに笑った。
儚いまま、折れない笑み。
その笑みが、ユウリの胸を刺した。
刺さり方が、また前世とは違う。
生きている痛み。
未来へ向かう痛み。
ユウリは思った。
この痛みを、いつか「ありがとう」に変えたい。
でも今は言えない。
言えないから、返す。
守って返す。
支えて返す。
選んで返す。
矢印の向きが定まった夜だった。
そして同時に、鍵が“二人のもの”になった夜でもあった。
迷子?――こっちだよ。
その言葉が燃えないように。
燃えない形で、未来へ持っていくために。
[つづく]




