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かくして回起の時が来た。  作者: 松林英助
第1章ー追憶の旅編ー
3/3

第3話|契約――矢印の向き

港町の朝は、光が速い。


 夜の濃さを一息で切り裂くように、窓辺の白が増え、路地の影が薄くなる。潮の匂いは同じでも、昼の潮は「生活」の匂いで、夜の潮は「終わり」に近い匂いだった。ユウリはまだ、その違いに敏感だった。前世の白い天井が、影として視界の端に浮くからだ。


 だが今は、影の白を追い払う手順がある。


 息を吸って吐く。

 香木の匂いを吸う。

 □を思い出す。

 |で呼吸を整える。

 …で余計な言葉を止める。

 △で段を下げる。


 昨日より、今日。

 今日より、明日。


 その積み重ねが“席”を育てる。

 ヨルンの言葉は、まだ喉の奥で熱いが、熱いまま燃えない形に変わり始めていた。


 孤児院の朝はいつもと同じだった。板が軋み、薄い粥が湯気を立て、子どもたちの眠い声が飛び交う。けれどユウリの中だけが違った。世界が二重に見える。現実の孤児院と、前世の病室。粥の匂いの奥に消毒の匂いが混ざり、子どもの笑い声の奥に機械音が混ざる。


 混ざった瞬間、喉がひりつく。

 ひりつきは焦げを呼ぶ。

 焦げは寄る。


 ユウリは薪を割りながら、呼吸を一定に保った。

 力むと息が乱れる。

 乱れると喉が焼ける。


「ユウリ、今日は港の手伝いだ」


 院長マルタが言った。声はいつも通り乾いている。正しさの檻の声。だが、その乾きが今日に限ってはありがたい。感情がない言葉は形が強くならない。強くならなければ、寄られにくい。


「はい」


 ユウリは二段目で返事をし、外へ出た。


 港は忙しい。荷車が行き交い、魚の匂いが濃く、男たちの声が飛ぶ。そこには孤児の居場所がある。居場所というより、使い道だ。だが使い道があるだけ、孤児院の中より楽な面もある。


 ユウリは木箱を運び、縄を締め、荷を積み替えた。単純作業は好きだ。単純作業は心が内側へ落ちにくい。身体が現実を掴む。現実を掴めば、影は入りにくい。


 そのはずだった。


 昼前、港の端で、白い布が揺れているのが見えた。


 巡礼団。


 白い外套、白い布、白い杖。人の集まりがゆっくりと港へ入ってくる。潮風に布が翻り、太陽の光が白を反射して眩しい。


 その白が、ユウリの胸の奥の白を叩いた。


 白い天井。

 白いシーツ。

 白い壁。

 白い医師の服。


 喉がひりつく。

 焦げが鼻の奥で疼く。


 ユウリは香木の袋を握りしめ、息を吸って吐いた。

 海の白は動く。

 病室の白は動かない。

 動く白は生。

 動かない白は終わり。


 そう上書きする。


 巡礼団の中心に、ひときわ背筋の通った男がいた。三十代半ば。短く整えた髭。質素だが清潔な服。目が鋭いが荒くない。人を守る目。


 昨日、ギルドで見た顔ではない。

 だが「現場の匂い」がする。


 その男が港の荷を確認しながら、周囲に短い指示を出している。声は低く、怒鳴らない。必要なことだけを言い、余計な言葉を増やさない。――まるで、言葉の段を知っているかのように。


 ユウリはその姿に引かれ、同時に怖くなった。


 関わりたくない。

 でも関わらなければ、旅が始まらない。


 ヨルンは言った。

 「次は外へ出る。巡礼路の護衛だ」


 この巡礼団が、その「外」へ繋がる線なのだと、ユウリは直感した。直感はしばしば危険だ。だが、直感を手順に落とせば盾になる。


 ユウリは息を整え、木箱を抱えたまま巡礼団に近づいた。


 男がこちらに気づき、目を向ける。


「荷運びか。……孤児院の子か?」


 ユウリは頷き、二段目で短く答えた。


「はい」


 男は一瞬だけユウリの喉元を見る。

 喉元。

 そこを見られると、ひりつきが増す気がする。


 ユウリは香木を握り、息を吸って吐いた。


 男は言った。


「具合が悪いなら休め。だが、手を止めると危ない」


 手を止めると危ない。

 その言葉に、ユウリの胸が冷える。


 この男は知っている。

 現象を。

 言葉が燃えることを。

 匂いが寄ることを。


「……危ない?」


 ユウリが問うと、喉がひりついた。

 二段目から三段目へ上がりかける。

 ユウリは息を吸って吐き、言葉を区切る。


 男は断言しない。


「噂だ。……巡礼路で妙なことがある。荷が燃える。言葉が噛み合わない。焦るな、怒鳴るな、が一番効く」


 昨日ギルドで聞いた言葉と同じだ。

 効く――という表現。

 これは経験者の言い方だ。


 ユウリの胸の奥がざわつく。

 この男は、ヨルンが言った「外」へ繋がる人物だ。


 ユウリは短く言った。


「……怒鳴らない」


 言った瞬間、喉がひりつく。

 でも焦げは濃くならない。

 外なのに、少しだけ席が育っている。


 男は頷いた。


「そうだ。……その顔なら、護衛に向いている」


 護衛。

 言葉が刺さる。

 自分が護衛? 十六の孤児が?


 前世の自分は、守られる側だった。守られるどころか、守られきれない側だった。誰も自分を守りきれず、最後に終わった。

 なのに今、護衛。


 その矛盾が胸を叩き、喉がひりつく。

 焦げが少し疼く。


 男は、名を告げた。


「カイナンだ。巡礼団の責任者」


 カイナン。

 名は固定。

 固定は引力。

 だが、ここで名を知ることは必要だ。必要な固定は、盾にもなる。


 ユウリは頷きだけ返した。言葉を増やさない。

 カイナンはその反応を見て、少しだけ目を細めた。評価の目。


「護衛は二人必要だ。……一人は、銀髪の女だと聞いている」


 銀髪。

 リア。


 ユウリの胸が熱くなる。

 熱が喉へ上がり、ひりつきに変わりかける。


 ユウリは息を吐き、熱を下げた。


「……リア」


 それだけを言う。


 カイナンは頷く。


「もう一人は――お前だ」


 言い切り。

 固定。

 形が強い。


 ユウリの喉が焼けた。

 焦げが鼻の奥で濃くなる。

 いきなり四段目へ引き上げられたような圧。


 ユウリは香木を握りしめ、息を吸って吐いた。

 ここで「違う」と言い返せば刃になる。

 刃になれば燃える。

 燃えれば寄る。


 だからユウリは、二段目の事実だけを返した。


「……俺、弱い」


 前世の事実。

 今の不安。

 短い言葉。


 カイナンは否定しない。断言しない。固定しない。


「弱い者が護衛をする時代になった。……そうじゃないと、守れないものが増えた」


 守れないもの。

 言葉。

 魂。

 後悔。

 礼。


 ユウリは喉がひりつくのを感じ、息を整えた。

 守れないものを守る。

 それが旅の意味になる。


 その時、背後から微かな気配が近づいた。


 ふっと潮の匂いが変わる。

 焦げが薄まる。

 木と草の匂いが混ざる。


 香木の匂いと同じ段。


 ユウリは振り返る前に分かった。


 リアだ。


 銀白の髪が風に流れ、青いリボンが揺れる。白と淡い青の外套が陽光を受け、金縁が光る。青緑の瞳が、ユウリの横顔を一瞬だけ見て、次にカイナンを見た。儚い表情の奥に、切れない刃のような決意。


 リアは言葉を短くした。


「話、聞いた」


 それだけで、ユウリの喉のひりつきが少し引く。

 リアの言葉は手順だ。

 余計な固定をしない。


 カイナンは頷いた。


「護衛を頼みたい。白の修道院まで三日。途中の宿は一つ。森の宿場」


 森。宿場。

 ヨルンが言っていた「次は宿で」が、未来の影として重なる。


 リアは短く答えた。


「受ける」


 言い切り。

 だがリアの言い切りは刃ではない。

 意味を固定するためではなく、手順を進めるための断定。


 ユウリは、その横で息を吸って吐いた。

 喉がひりつく。

 焦げが薄く疼く。


 リアが、ユウリの襟元を整えた。

 指先が「今ここ」を置く。

 それだけで、ユウリは言葉にせず頷けた。


 カイナンはユウリを見て言った。


「お前も来る。……嫌なら断れ。だが、断るなら今だ」


 断れ。

 その言葉がユウリの胸に刺さる。


 断る自由。

 前世の自分にはなかった。

 選べない人生だった。

 今は選べる。

 選ぶということは、責任を持つということだ。

 責任は重い。重い言葉を呼ぶ。

 重い言葉は燃える。


 ユウリは、言葉の段を意識した。


 今ここで必要なのは、四段目の核ではない。

 核を叫ぶ必要はない。

 必要なのは行動――矢印。


 ヨルンは言った。

 核は行動で返せ。

 守れ。支えろ。選べ。


 ユウリは息を吸って吐き、言った。


「……行く」


 短い。

 しかし、選んだ言葉だ。


 言った瞬間、喉が焼けた。

 焦げが一瞬濃くなる。

 だがリアがすぐ、指で□を描いた。

 席。戻れ。


 ユウリは意識の中で□の中へ戻り、息を吐き、焦げを薄めた。


 カイナンは頷いた。


「よし。出発は明朝。ギルドで契約を交わす。……今日中に必要なものを揃えろ」


 明朝。

 旅が始まる。

 やり残しの旅が、現実になる。


 その現実が眩しくて、怖い。

 眩しさは熱になる。

 熱は燃えやすい。


 ユウリは息を吸って吐き、眩しさを胸に落とした。

 胸に落とせば、まだ言葉にならない。

 言葉にならなければ、燃えない。


 ⸻


 港を離れ、リアと並んで歩く。


 並ぶ。

 並ぶこと自体が矢印だ。

 前世の自分には、並んで歩く誰かがいなかった。

 病室の廊下は、歩く前に終わっていた。


 リアは歩幅を合わせるのが上手い。

 合わせるというより、相手の呼吸に合わせて速度を微調整する。逃げることを知っている者の歩幅。守るための歩幅。


 ユウリは言葉を探しそうになり、口を閉じた。

 礼を言いたい。

 でも今は言えない。

 核は燃える。


 リアは、ユウリの沈黙を責めない。

 責めないことが、ユウリを救う。


 しばらく歩いたところで、リアが言った。


「準備、する。……孤児院、抜け方も」


 抜け方。

 それは、現実的な支援であり、矢印の返礼でもある。


 ユウリは頷き、短く答える。


「……抜ける」


 リアは頷いた。


「言葉、増やさない。……院長、形が強い」


 形が強い。

 院長の正しさは固定だ。

 固定は燃える。

 燃えれば寄る。


 ユウリは喉がひりつくのを感じ、息を吸って吐いた。

 リアと話すとき、呼吸が手順になる。

 呼吸が盾になる。


 リアが急に立ち止まった。


 ユウリも止まる。

 止まると、世界の音が増える。

 音が増えると、気配が見える。


 リアは指で△を描いた。

 危険。

 段を下げろ。


 ユウリは息を吸って吐き、指で…を作った。

 黙る。

 言葉を止める。


 二人の前に、細い路地がある。

 影が濃い。

 路地の奥が見えない。

 昼なのに、薄暗い。


 ユウリの喉がひりついた。

 昨日、迷子になった路地の影が重なる。


 リアは首を振り、別の道を選んだ。

 光のある方へ。

 風のある方へ。


 その選択が、ユウリの胸を少しだけ温めた。

 守られている。

 だが守られているだけでは、礼が返せない。


 ユウリは歩きながら、行動で返せることを探した。

 荷を持つ。

 道を選ぶ。

 呼吸を整える。

 リアの背中の危険を拾う。


 礼を言えないなら、礼を“矢印”で返す。


 リアがふと言った。


「ユウリ、昨日……祠で□作った」


 ユウリの喉がひりつく。

 昨日の夜道。

 囁き。

 言わせる。

 ありがとう。


 核が暴れる。

 だがここは昼。

 風が匂いを散らす。

 段を守れば話せる。


 ユウリは息を吸って吐き、二段目の事実だけを言った。


「……効いた」


 リアが頷いた。


「効いた。……でも次は、もっと来る」


 もっと来る。

 宿。

 巡礼路。

 森。


 ユウリの喉がひりついた。

 怖い。

 でも、怖いと言えば燃える。


 リアが続ける。


「だから、今……矢印、決める」


 矢印。

 ヨルンが言った矢印。


 リアは指で、二本の線を描いた。

 ユウリ→リア

 リア→ユウリ

 そしてその間に、□。


「席の中で、矢印を通す。……外で通すと燃える」


 ユウリは理解した。

 ありがとうを言いたい衝動は矢印だ。

 矢印を外で通すと燃える。

 だから席の中で通す。

 言葉ではなく、行動で。


 リアが言った。


「私が先に守る。……あなたは後ろを守る」


 配置。

 戦術。

 それは矢印の設計でもある。

 リアが前に出る。ユウリが後ろを守る。

 それが、いまの二人の力の差に合っている。


 ユウリの胸が熱くなる。

 守る側になれる。

 前世ではなれなかった。


 喉がひりつく。

 焦げが少し疼く。


 ユウリは息を吐き、言葉を短くする。


「……守る」


 リアが、ほんの僅かに口角を上げた。

 笑いではない。

 受領の表情。


 その表情が、ユウリの胸を刺した。

 刺さり方が痛いのに、心地いい。

 前世の痛みとは違う。

 生きている痛み。


 ⸻


 ギルドで契約を交わすのは夕方だ。

 それまでに必要なものを揃える。


 だがユウリには金がない。

 孤児の蓄えはない。

 旅装など持てるはずがない。


 ユウリがその現実に思考を落とした瞬間、喉がひりついた。

 現実の重さは、形が強い。

 強い形は燃えやすい。


 リアが言った。


「ヨルン、いる。……借りる」


 借りる。

 借りるという言葉は、ユウリの胸を痛めた。

 借りることは弱さの証明だと、孤児院で植え付けられている。

 だが旅は弱さを隠す場所ではない。

 弱さを手順に変える場所だ。


 ユウリは頷いた。

 言葉は増やさない。


 ギルドの裏手の倉庫――ヨルンの工房へ向かう。

 そこは木と鉄と油の匂いがする。

 匂いが現実を強くする。

 現実が強いほど、影は入りにくい。


 ヨルンは工具を拭きながら、二人を迎えた。

 その目は、窓際の席と同じ目だった。

 基点を保ったまま観察する目。


「巡礼路か」


 ヨルンの声は短い。


 リアが頷く。


「明朝」


 ユウリも頷く。

 言葉は少なく。


 ヨルンは棚を開け、古いが丈夫な旅装の束を出した。

 革の胴当て。

 水袋。

 簡易の外套。

 そして、小さな布袋。


「塩。……持っていけ。宿で効く」


 宿。

 その単語が、ユウリの喉をひりつかせた。

 だが同時に、具体が盾になる。

 宿で効く。

 つまり、宿で危険が来る。


 ユウリは息を吸って吐き、布袋を受け取った。

 塩のざらりとした感触が、現実を掴ませる。

 現実は盾だ。


 ヨルンは次に香木の袋を二つ出した。

 一つはユウリへ、もう一つはリアへ。


「匂いの段。……切り替えろ」


 リアは受け取り、頷いた。

 ユウリも頷く。


 ヨルンは最後に、薄い木札の束を渡した。

 木札には何も書いていない。

 紙ではなく木。

 燃えにくい。


「書くな。……書くと燃える。だが、刻め」


 刻め。

 言葉を文字にしない。

 形にする。

 盾にする。


 ヨルンは一本の木札に、ナイフで小さく□を刻んで見せた。

 次に|。

 …(点を三つ)。

 △。


「符号だ。……言葉を短絡させるな。形で戻れ」


 ユウリの胸が熱くなる。

 符号が“自分のもの”になっていく。

 手順が身体に入る。


 ヨルンは、ユウリの目を見て言った。


「言いたい言葉は、増える。……旅に出ると、なお増える。増えるほど燃える」


 ユウリの喉がひりつく。

 ありがとうが喉元に押し寄せる。


 ヨルンは、そこで一段落とす言い方に変えた。


「だから、言葉を減らすんじゃない。……言葉の“出口”を変えろ」


 出口。

 矢印。

 行動。

 守る。

 支える。


 ユウリは頷いた。

 言葉の代わりに、木札を握る。

 握ることが返事になる。


 リアが、ヨルンに深く頭を下げた。

 言葉ではなく形で礼を返す。

 ユウリも同じように頭を下げた。


 未完了の礼が、少しずつ「燃えない形」に移っていく。

 それだけで、胸の痛みがほんの少し軽くなる。



 ⸻


 夕方。ギルドで契約を交わす時間が近づく。


 ユウリは一度、孤児院へ戻らなければならなかった。

 旅装を持って出るには口実がいる。

 院長の目がある。

 言葉が増える。


 リアが言った。


「私、外で待つ。……院長の前は、段を下げる」


 段を下げる。

 孤児院では一段目か二段目。

 事実だけ。

 必要最小限。

 核は言わない。

 ありがとうも言わない。

 旅の理由も言わない。


 ユウリは頷き、孤児院へ入った。


 院長は台所で粥をかき混ぜていた。

 背中が、いつもより硬い。

 機嫌が悪い。

 その硬さが空気に「形」を作っている。

 形が強いと息が詰まる。


 ユウリは息を吸って吐き、…を心の中で作る。

 黙る。

 余計な言葉を止める。


「どこへ行く」


 院長が言った。

 短い。

 短いのに形が強い。

 命令の形。


 ユウリは二段目で答えた。


「港。……荷運び」


 事実。

 嘘ではない。

 今までやってきたことだ。


 院長は目を細める。


「その荷は」


 旅装の束。

 外套。

 水袋。

 塩。

 香木。

 木札。


 言い訳を作る。

 言い訳は言葉を増やす。

 増えると燃える。


 ユウリは息を吸って吐き、最小の事実だけを選んだ。


「……借りた。……仕事のため」


 院長は不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「借り物で格好をつけるな。お前は孤児だ。分を知れ」


 分を知れ。

 その言葉が刃になる。

 ユウリの喉がひりつく。

 焦げが鼻の奥で疼く。


 怒りが湧く。

 怒りは刃。

 刃は燃える。

 燃えれば寄る。


 ユウリは息を吸って吐き、怒りを息に落とした。

 言い返さない。

 言い返すほど形が強くなる。

 強い形は影の餌になる。


 ユウリは頭を下げた。

 礼ではない。

 形の退避。

 核を漏らさないための姿勢。


 院長はそれ以上追及しなかった。

 追及しないのではない。

 追及する価値がないと思っているのだ。

 その侮りが、ユウリを逆に自由にした。


 ユウリは孤児院を出た。

 外の空気は冷たく、潮の匂いが現実を戻す。

 息が深くなる。


 門の外でリアが待っていた。

 銀白の髪が夕方の光で淡く染まり、青いリボンが揺れる。

 その姿を見るだけで、ユウリの喉の焼けが引いた。


 リアが、ユウリの襟元を整える。

 息。

 今。

 ここ。


 ユウリは頷き、言葉を増やさずに歩き出した。

 ギルドへ。

 契約へ。

 旅へ。


————————


 夕方のギルドは、昼と夜の境目の匂いがする。


 昼の乾いた紙と鉄の匂いの上に、夜の酒と汗が薄く重なる。灯りがつき始め、窓の外の空が藍に沈み、床に落ちる光の帯がわずかに角度を変える。その変化だけで、ユウリは「時間」が進んでいることを強く感じた。


 前世では、時間は進んでも、自分は進めなかった。

 病室の窓の外だけが季節を進め、ベッドの上の自分は置き去りだった。


 今は違う。

 今日の夕方は、明日の朝へ繋がっている。

 明日の朝は、外へ繋がっている。

 外は、旅へ繋がっている。


 ユウリは息を吸って吐いた。

 胸の奥で熱が生まれる。

 熱を言葉にしない。

 形に落とす。


 ギルドの受付は忙しそうだったが、ヨルンの顔を見せると空気が変わった。ヨルンは権威で空気を変えるのではなく、手順で空気を変える。受付の女は短く頷き、余計な説明をしないまま、奥の小部屋へ案内した。


 小部屋は窓が小さい。だが、灯りが一つあり、机の上が明るい。

 席の条件が整っている。


 リアが先に□を描く仕草をした。

 言葉ではなく形で「ここ」を定める。

 ユウリも頷き、息を整えた。


 ほどなくしてカイナンが入ってきた。

 昼間よりも顔つきが硬い。責任者の顔だ。

 その後ろから、巡礼団の人々が続く。


 老いた修道士が一人。白い杖をつき、背を曲げているが、目は澄んでいる。

 若い修道士が二人。静かな目で周囲を観察している。

 それから――子どもが一人。十歳くらい。外套の裾が少し長く、手には小さな包みを抱えている。


 子どもがユウリを見る。

 ユウリも見る。


 その瞬間、ユウリの胸がきゅっと縮んだ。


 前世の自分が、教室の窓から校庭の子どもたちを眺めていた感覚に似ていた。

 自分は外にいない。

 外は遠い。

 外は眩しい。


 だが今、ユウリは外に近い場所にいる。

 護衛として、ここにいる。


 矢印の向きが変わる。


 カイナンが言った。


「契約を交わす。護衛は二名。リアとユウリ。目的地は白の修道院。道中の危険は“現象”が中心だ」


 現象。

 言葉が燃える。

 言葉が噛み合わない。

 焦げの匂い。


 ユウリの喉がひりついた。

 焦げが鼻の奥で薄く疼く。


 リアが机の上で小さく|を描いた。

 呼吸。

 今。

 ここ。


 ユウリは息を吸って吐き、疼きを押し下げた。


 老修道士が、ゆっくりと口を開いた。


「護衛の方々に感謝を。……この巡礼は、ただの祈りではありません。持ち運ぶものがあります」


 持ち運ぶもの。

 言葉ではないだろう。

 だが“形”として持つもの。


 老修道士は続けた。


「言葉にする必要はありません。……ただ、守っていただきたい」


 言葉にする必要はありません――その一言に、ユウリの胸が少しだけ救われた。

 この人は分かっている。

 言葉が刃になる世界で、言葉を減らす手順を知っている。


 カイナンが頷き、机の上に契約書を置いた。


 紙。

 紙は燃える。

 焦げの匂いが一瞬だけ立つ。

 ユウリの喉がひりつく。


 だが、契約書の紙は厚く、表面に蝋が薄く塗られていた。

 燃えにくい加工。

 対策だ。


 カイナンは言った。


「契約は簡素に。余計な文言は削った。……署名だけでいい」


 余計な文言を削る。

 言葉の段を守る。

 この世界では契約すら“燃えない形”に調整されている。


 リアが先に署名した。

 迷いがない。

 筆跡は細いが強い。

 それを見た瞬間、ユウリの胸が熱くなる。

 熱が喉へ上がる。

 ひりつく。


 ユウリは香木の袋を握り、息を吐き、熱を落とした。

 そして署名をする。

 ペンを持つ指が少し震える。

 震えは恐怖ではない。

 選んだことの重みだ。


 署名を終えた瞬間、喉のひりつきがほんの少し強くなった。

 固定された。

 護衛として固定された。

 形が強い。


 その強さを盾に変える。

 ヨルンの言葉が響く。


 ――核を盾に変える。

 ――礼は手順で返せ。


 契約が終わると、小部屋の空気が少しだけ緩んだ。

 緩んだ瞬間が危ない。

 緩むと余計な言葉が出る。

 余計な言葉が出ると燃える。


 ユウリは息を一定に保ち、視線を上げすぎないようにした。

 そのとき、子どもがユウリの方へ一歩近づいた。


「ねえ、お兄ちゃん」


 その呼びかけは無邪気で、しかしこの世界では無邪気が刃になることもある。

 ユウリの喉がひりつく。


 リアが机の上で…を描いた。

 黙れ、ではない。

 短くしろ、だ。


 ユウリは息を吸って吐き、二段目で返した。


「なに」


 子どもは包みを抱えたまま、目を輝かせた。


「護衛って、剣で戦うの? すごい? ぼくも――」


「戦うな」


 ユウリは反射で言ってしまった。

 言い切り。

 固定。

 形が強い。


 喉が焼けた。

 焦げが鼻の奥で濃くなる。


 (しまった)


 ユウリは息を吸って吐き、段を下げようとする。

 だが一度出た言葉は、形として残る。


 子どもの目が一瞬だけ曇った。

 その曇りが、ユウリの胸を刺した。


 前世の自分も、誰かに「やるな」と言われ続けた。

 走るな。

 無理するな。

 出るな。

 危ない。

 やるな。


 それは愛でもある。

 でも同時に、未来を削る言葉でもある。


 ユウリは焦げの疼きの中で、矢印の向きを変えようとした。

 言葉を取り消すことはできない。

 なら、形で返す。


 ユウリは視線を落とし、子どもの包みを見た。

 包みの結び目が緩い。

 道中で解ければ、落ちる。

 落ちれば、巡礼の中身が露出する。

 露出すれば、匂いが寄る。


 ユウリは黙って手を伸ばし、結び目を結び直した。

 手つきは丁寧に。

 言葉は出さない。


 子どもがぽかんとする。


 ユウリは二段目で短く言った。


「落ちる。……危ない」


 さっきの「戦うな」より、ずっと燃えにくい。

 事実。

 手順。


 子どもは包みを抱え直し、こくこく頷いた。


「うん……! ありがとう」


 その「ありがとう」が、ユウリの喉を焼いた。

 自分の核を、相手に言われた。

 核が揺れる。

 漏れそうになる。


 影が、遠くで笑う気配がした。


 ――言わせる。

 ――言わせる。


 ユウリは息を吸って吐き、香木を握り、□を心の中に描く。

 席。

 段を守れ。

 核は今言うな。


 リアが静かに子どもへ言った。


「ありがとうは、少し小さく。……あとでね」


 子どもは意味を完全には理解していないが、雰囲気で頷いた。

 リアの言葉は刃にならない。

 固定せず、段を下げる言い方だ。


 老修道士が微かに笑った。


「……お二人とも、よくご存じだ」


 リアが短く返す。


「慣れ」


 慣れ。

 その一言の重さに、ユウリは胸の奥でだけ震えた。

 リアは何に慣れたのか。

 どれほどの現象を見たのか。

 どれほどの言葉を燃やしたのか。


 ヨルンが言っていた。

 リアは昔「呼んだ」と。


 呼んだ名前。

 名前を持つと呼べる。

 呼べると寄る。


 リアが呼んだ“何か”は、今も追っているのかもしれない。

 それが、妻へ繋がる伏線の匂いを帯び始める。



 契約後、巡礼団はギルドの宿泊室へ移った。

 護衛も同じ建物に泊まる。

 出発前夜は、最も油断しやすい。

 緊張が緩み、言葉が増える。


 ヨルンは小部屋の外で、ユウリとリアを呼び止めた。

 窓際ではない。

 だが、廊下の端に小さな灯りがあり、壁際に立つと背中を預けられる。

 即席の席の条件が整う。


 ヨルンは言った。


「今夜は、宿だ。……影は“祝う”形で来る」


 祝う。

 出発前夜。

 門出。

 契約。

 未来。


 祝う言葉は甘い。

 甘い言葉は核に触れる。

 核に触れれば燃える。


 ヨルンは続けた。


「祝われたら、礼を言いたくなる。……礼は核だ。言うな。返せ」


 返せ。

 行動で。

 矢印で。


 ユウリは頷いた。

 リアも頷く。


 ヨルンは最後に、木札を二枚取り出し、ユウリに渡した。

 一枚には□。

 もう一枚には、細い矢印が刻まれている。

 →


「矢印を持て。……迷ったら、矢印を見ろ。お前が向ける先を決めろ」


 向ける先。

 リアへ。

 巡礼団へ。

 守る先へ。


 ユウリは木札を握りしめ、息を吸って吐いた。

 矢印の形が、胸の奥を落ち着かせる。


 ヨルンは去り際に、低い声で付け足した。


「……それと、最初の一言を守れ」


 最初の一言。

 迷子?――こっちだよ。


 守る。

 守るとは、言葉を保つということだ。

 燃えない形で保つということだ。


 ユウリは頷いた。

 言葉では返さない。

 形で返す。



 夜。ギルドの宿泊室。


 巡礼団の部屋は簡素だが清潔だ。白い布が多い。

 白が多いと、ユウリの喉がひりつきやすい。

 病室の白が重なるからだ。


 ユウリは香木を枕元に置き、塩を袋のまま握れる位置に置いた。

 木札も。

 □|…△→。


 手順の道具。

 盾。


 部屋の灯りが落とされ、静かになる。

 静かになると、内側が騒ぐ。

 内側が騒ぐと、核が暴れる。


 ありがとう。

 言いたい。

 言えない。


 その矛盾が胸を刺す。

 刺し続ける。


 ユウリは息を吸って吐き、木札の→を指でなぞった。

 矢印を外へ向ける。

 自分の核を外へ漏らすのではなく、自分の行動を外へ向ける。


 そのとき、廊下の向こうから小さな笑い声が聞こえた。

 誰かが祝っている。

 出発前夜を。

 旅を。


 祝う声は甘い。

 甘い声は核に触れる。


 ユウリの喉がひりついた。

 焦げの匂いが、ほんのわずかに戻る。


 リアが、同じ部屋の隅から小さく言った。


「……来る」


 ユウリは息を吸って吐き、△を心の中に描いた。

 危険。

 段を下げろ。


 廊下の笑い声が、いつの間にか「囁き」に変わっていた。

 笑いの形を借りた囁き。


「……おめでとう」

「……旅だね」

「……ありがとうって言えば、もっと祝ってあげる」


 ユウリの喉が焼けた。

 核を叩く。

 祝う形で核を叩く。


 ヨルンの言葉通りだ。


 ユウリは口を開けそうになり、噛みしめた。

 言えば燃える。

 燃えれば寄る。

 寄れば削られる。


 リアが、ゆっくりと部屋の中央へ歩き、床に指で□を描いた。

 席。

 戻れ。


 ユウリはその□の中へ移動し、息を吸って吐いた。

 香木の匂いを吸い、塩の袋を握った。


 囁きが部屋の外で笑う。


「……二人でいる」

「……いいね」

「……言えば、もっといい」


 恋を煽る。

 絆を煽る。

 甘さを煽る。


 ユウリの胸が熱くなる。

 熱が喉へ上がる。

 ひりつきが増す。


 ユウリは矢印の木札を握り、心の中で矢印の先を定めた。

 → 守る

 → 支える

 → 選ぶ


 リアが低く言った。


「ユウリ。……返して」


 返す。

 行動で。


 ユウリは黙って立ち上がり、部屋の入口へ向かった。

 囁きの“口”を探すのではない。

 囁きが通る“隙間”を塞ぐ。


 ドアの隙間。

 窓の隙間。

 床板の隙間。


 ユウリは塩の袋を開け、ドアの下へ薄く撒いた。

 次に窓際へ撒いた。

 匂いの輪郭を崩す。

 焦げが薄まる。

 囁きが途切れる。


 リアが香木の袋を開き、部屋の中央へ置いた。

 匂いを切り替える。

 段を下げる。


 囁きが苛立ったように震えた。


「……言わせる」

「……ありがとう」

「……最初の一言」


 最初の一言。


 その語が出た瞬間、ユウリの喉が激しく焼けた。

 焦げが濃くなる。

 影が“鍵”を知っている。

 迷子?――こっちだよ。


 鍵を奪われたら、物語の扉が歪む。

 妻との出会いの鍵が歪む。

 二度目の転生の鍵が歪む。


 ユウリは息を吸って吐き、…を心の中で作り、言葉を止めた。

 叫びたい衝動を止める。

 核を止める。

 鍵を守る。


 リアが、ユウリの手を握った。

 握りは短い。

 しかし確かだ。


「迷子?――こっちだよ」


 リアが、声に出さずに口だけ動かした。

 言葉を燃やさない形で、鍵を共有する。

 鍵を“二人の手順”に変える。


 ユウリは頷いた。

 鍵は一人のものではない。

 二人の矢印で守るものだ。


 囁きが、急に小さくなった。

 塩と香木と席が効いている。

 そして何より、鍵を言葉にせず保持したことが効いている。


 囁きは最後に、低く笑った。


「……明日、外で」

「……巡礼路で」

「……言わせる」


 それを残して、消えた。

 消えたのではない。

 次の舞台へ移った。


 ユウリは息を吸って吐き、膝の力が抜けそうになるのを堪えた。

 怖かった。

 けれど、守れた。

 鍵を守れた。

 核を言わずに返せた。


 初めて、護衛として守った。

 それは矢印の返礼だ。

 リアに守られ続けるだけではない。

 自分も守れる。


 リアが小さく言った。


「明日、出る。……森の宿場、危険」


 ユウリは頷き、短く返す。


「……守る」


 リアがほんの僅かに笑った。

 儚いまま、折れない笑み。


 その笑みが、ユウリの胸を刺した。

 刺さり方が、また前世とは違う。

 生きている痛み。

 未来へ向かう痛み。


 ユウリは思った。

 この痛みを、いつか「ありがとう」に変えたい。

でも今は言えない。

言えないから、返す。

守って返す。

支えて返す。

選んで返す。


 矢印の向きが定まった夜だった。


 そして同時に、鍵が“二人のもの”になった夜でもあった。


 迷子?――こっちだよ。


 その言葉が燃えないように。

 燃えない形で、未来へ持っていくために。


[つづく]

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