第2話|窓際の席――言葉の段
夜の港町は、昼より匂いが鋭い。
潮は冷たく、濡れた木の匂いは濃く、魚の血の生温さは暗がりで逆に際立つ。昼の喧騒が消えるぶん、世界は余計な装飾を剥ぎ取られ、音と匂いと光だけになる。
ユウリはその「削ぎ落とされた世界」を、どこかで知っている気がした。
前世の病室もそうだったからだ。
白い天井。
白いシーツ。
消毒の匂い。
機械音。
余計なものがなくなるほど、心は内側へ落ちやすい。落ちた先にあるのは、後悔だ。やり残しだ。言えなかった礼だ。
言葉にしたら、喉が焼ける気がする。
ユウリは息を吸って吐いた。
潮の匂いを肺に入れる。
港の現実を入れる。
病室の白を遠ざける。
孤児院を抜け出すのは簡単ではなかった。
院長は目を光らせる。
バルドは気配に敏い。
年下の子どもたちは、寂しさからユウリを引き止めようとする。
だからユウリは「正しさの檻」を壊さない程度に抜け出した。
台所の裏手の板戸。
水桶の置き場所。
倉庫の陰。
誰にも見られないように――けれど、誰にも見られないことが今夜は逆に怖い。闇は「普通の顔」を借りて近づくとリアが言った。普通の顔が多い場所ほど危ない。夜は普通の顔が見えない。見えないから、どれも普通に見える。
怖さが喉をひりつかせる。
ひりつきが焦げを呼ぶ。
焦げは寄る。
ユウリは胸の奥で繰り返した。
(言葉を増やすな)
(息を失うな)
(焦げを呼ぶな)
ギルドの灯りが見えたとき、心臓が一瞬だけ速くなった。
ここがリアの言う「光のある場所」なのだろう。
扉の向こうは、言葉の多い場所でもある。
言葉が多い場所は危険だ。
それでも、今夜はそこへ行かなければならない。
ユウリは息を吸い、吐き、扉へ手を伸ばした。
扉を押すと、熱気と匂いが流れ込んできた。
酒と汗と鉄と紙。
笑い声と喧嘩の気配。
杯がぶつかる音。
椅子が床を擦る音。
昼よりは人が少ないが、夜のギルドは油断すると飲まれる。
ユウリは視線を上げすぎないようにしながら、しかし探す。
銀白の髪。
青いリボン。
青緑の瞳。
窓際の席――あの光の帯の場所。
そこだけが、別の温度で存在している。
いた。
リアは窓際に座っていた。背筋を伸ばし、杯にも手を付けず、ただ窓の外の暗さを見ている。外套の白と淡い青が、灯りの中で静かに浮く。髪は銀色の糸のように流れ、青いリボンが小さく揺れていた。
ユウリはその姿を見て、喉の奥がほどけそうになるのを感じた。
言葉が生まれる前に熱が生まれる。
熱は危険だ。
ユウリは息を吸って吐き、窓際の席へ向かった。
近づくにつれ、光の帯が床を切る角度がはっきりする。
光は暖かいわけではない。
だが、光が「線」を引いている。
線は、戻るための目印になる。
リアが顔を上げ、ユウリを見る。
青緑の瞳が、ほんの僅かに揺れた。
揺れは「来た」の合図だ。
それだけで、ユウリの胸が少しだけ落ち着く。
ユウリは席の前で立ち止まり、言葉を探してしまいそうになって、慌てて口を閉じた。
礼を言いたい。
ありがとう。
助けてくれた。
見つけてくれた。
でも、言葉は危ない。
言葉が形を作る。
形が強いと匂いが寄る。
寄ると削られる。
リアは、ユウリのためらいを見抜いたように、先に言った。
「座って。……まず息」
ユウリは頷き、椅子に座った。
窓際の光が頬に触れる。
その感触だけで、息が深くなる。
リアはテーブルの上に指先を置き、ゆっくり□を描いた。
四角。
窓。
枠。
ユウリはその形を見て、昨日の段丘の□を思い出した。
基点。
戻る場所。
リアは言った。
「ここが、席。……ここから、外へ出ない」
「外へ?」
ユウリが言った瞬間、喉がひりついた。
言葉が増えると痛む。
ユウリは息を吸って吐く。
リアは頷き、机の上で□の外側を指でなぞった。
外側――世界。
外側は、匂いが漂う。
内側は、守る。
「席の中は、少し安全。……言葉の形が強くなりにくい」
「……完全じゃない?」
ユウリがそう言うと、リアの目がほんの僅かに細くなった。
肯定だ。
完全ではない。
だから手順が必要。
リアは言った。
「完全は、ない。……だから、段」
段。
言葉の段階。
形の強さを調整する。
リアは指を一本立てた。
「一段目は、息だけ」
次に指を二本立てた。
「二段目は、事実だけ。短い言葉」
三本。
「三段目は、意味。……ここから危ない」
四本。
「四段目は、核。……あなたが言いたい言葉」
核。
ユウリの胸が熱くなる。
核――ありがとう。
核――やり残し。
核――前世。
核――死。
熱が喉へ上がり、ひりつきに変わる。
焦げの匂いが、鼻の奥で小さく疼いた。
リアはすぐに言った。
「今夜は、二段目まで」
ユウリは頷き、息を吸って吐いた。
二段目まで。
事実だけ。短い言葉。
リアは静かに問う。
「名前、もう一回」
名前。
固定。
引力。
危険。
けれど、ここは席の中。
二段目――事実。
ユウリは息を整え、短く答えた。
「ユウリ」
喉がひりつく。
だが焦げは濃くならない。
席が効いている。
リアは頷いた。
「私はリア」
リアの声は静かで、刃にならない。
固定しない言い方。
今夜のための言葉。
ユウリは、どうしても言いたくなる衝動を押し戻し、二段目で止めた。
「……今日、助かった」
礼ではない。
事実。
リアは首を振った。
「助かった、じゃない。……戻れた」
戻れた。
その一言で、ユウリの胸が震えた。
前世の記憶が戻ったこと。
そして戻ったことが危険を呼ぶこと。
ユウリは言いかけた。
病室のこと。
死んだこと。
やり残しのこと。
喉がひりつく。
焦げが疼く。
ユウリは息を吸って吐き、言葉を飲み込んだ。
リアは、机の上に小さな袋を置いた。
香油の瓶ではない。
薄い布袋。
紐が固く結ばれている。
「それ、持ってる?」
ユウリは頷き、院長に頼まれた香油の小瓶を思い出した。だが持ってきてはいない。孤児院の台所に渡した。
リアの袋は違う匂いを持っている。
「……何」
ユウリが問うと、リアは袋の紐を少し緩め、ユウリに近づけた。
甘くはない。
強くもない。
けれど、鼻の奥の焦げを押し流すような――木と草の匂い。
「香木。……匂いの段を切り替える」
ユウリは息を吸って吐いた。
焦げの疼きが少し薄れる。
世界が少しだけ現実に戻る。
「……誰が、そんなの」
言った瞬間、喉がひりついた。
リアはすぐに、指で…を作った。
黙れ。
今は二段目まで。
リアは言う。
「ここに来る前に、拾った。……安全のため」
拾った。
誰かが用意したのではない。
リア自身の判断。
リアの手順。
ユウリは頷き、袋を受け取った。
触れた瞬間、温度が指に残る。
現実の温度。
そのとき、背後で椅子が引かれる音がした。
「……その席、珍しい客がいるな」
低い声。
酒に濡れていない声。
軽口なのに、芯がある声。
ユウリが振り返るより先に、リアが目だけで警戒を示した。
敵ではない。
でも、近い。
ユウリが視線を動かすと、そこに男が立っていた。
歳は――四十前後。
髪は黒に灰が混じり、無精髭ではなく短く整えられている。
体格は大きくないが、厚みがある。
筋肉というより、長い時間を生き残った重み。
目が鋭い。だが、狩る目ではなく見抜く目。
男は椅子に座らず、窓際の光の帯を一歩だけ跨がない位置で止まった。
跨がない――それだけで、男が“席”を知っていることが分かった。
「俺のことは……ヨルンでいい」
リアが短く言った。
「知ってる」
知ってる。
リアが誰かを「知ってる」と言うのは、重い。
だが、今は二段目まで。
余計な問いは危険だ。
ヨルンはユウリを見た。
視線が喉の辺りで止まる。
そして、香木の袋に落ちる。
「匂いが薄い。……もう寄られてるな」
ユウリの喉がひりついた。
“寄られてる”という言葉が、焦げの記憶を叩く。
ユウリは息を吸って吐き、言葉を増やさないようにする。
リアが言う。
「今日、戻った」
ヨルンが短く頷いた。
「十六だな」
ユウリの背中が冷えた。
年齢まで。
リアが言ったのか。
それともヨルンが嗅いだのか。
ヨルンは続ける。
「戻った瞬間は、匂いが強い。……そこを狙う奴がいる」
狙う奴。
名前を持たない敵。
言わせる。
ユウリは言いかけた。
誰だ。
何だ。
どうすればいい。
やり残しを叶えたい。
前世を……。
喉がひりつく。
焦げが疼く。
リアが机の上で、二本指を立てた。
二段目まで。
事実だけ。
ユウリは息を吸って吐き、事実だけを吐き出した。
「……今日、迷った。焦げがした。……リアが、助けた」
ヨルンは「助けた」という語を拾わずに、「焦げ」と「迷った」を拾った。拾い方が現場の人間だ。原因ではなく、症状から段階を測る。
「迷いは、入り口だ。……路地で迷ったなら、もう匂いは覚えられてる」
覚えられてる。
言葉が刃になる。
ユウリの喉がひりつく。
ヨルンは、窓際の光を見るようにして言った。
「席を作れ。……席は場所じゃない。手順だ」
その言葉が、ユウリの胸に深く落ちた。
リアが描いた□。
段丘の□。
窓際の席の□。
どれも“手順”だった。
ヨルンは続ける。
「今日は二段目までって顔をしてる。……いい判断だ」
リアが頷いた。
ヨルンの言葉がリアの手順を肯定している。
ユウリは、胸の中でだけ叫んだ。
なぜ俺の言葉が危ない?
なぜ俺だけ?
なぜ今?
何が俺を狙う?
どうすればやり残しを叶えられる?
だが、叫べば燃える。
燃えれば寄る。
寄れば削られる。
だから、息。
ユウリは息を吸って吐き、短く問う。
二段目の範囲で。
「……何を、すれば」
ヨルンはすぐ答えなかった。
答えないのは意地ではない。
言葉を選んでいる。
固定しない形にしている。
「やることは三つ。……だが今夜は二つでいい」
三つ。
数字は固定しやすい。
でも、数字は手順になることもある。
ヨルンは手順としての数字を使う。
「一つ。席を覚えろ。……窓際だけが席じゃない」
リアが頷き、机の上で□を描く。
□は持ち運べる。
手順はどこでも作れる。
「二つ。言葉の段を守れ。……核は、今は言うな」
核――ありがとう。
ユウリの胸が熱くなる。
喉がひりつく。
焦げが疼く。
ヨルンはユウリの反応を見て、淡々と言った。
「言いたい言葉ほど燃える。……燃えた言葉は、餌になる」
餌。
言葉が餌。
なら、言葉を守ることは――自分の魂を守ることと同じだ。
ユウリは息を吸って吐き、頷いた。
頷くことで答える。
言葉を増やさない。
ヨルンは、ふっと視線を窓の外に向けた。
外は暗い。
暗いのに、どこかが白く見えた。
月明かりか、波の反射か。
「今夜、外に出るな。……孤児院へは戻れ。だが寄り道はするな。影の濃い路地は避けろ」
ユウリは頷きかけて、喉がひりついた。
孤児院に戻る。
戻りたくない。
でも戻るしかない。
戻ることで、また言葉が増える。
増えることで、危険が増える。
矛盾が胸を刺し、焦げが疼く。
リアがそっと、ユウリの襟元を整えた。
息。
今。
ここ。
ユウリは深く吸い、吐き、矛盾を飲み込む。
今夜は生き延びることが最優先だ。
やり残しを叶える旅は、生き延びなければ始まらない。
ヨルンが言った。
「三つ目は……明日、話す」
三つ目。
今日言えないこと。
言ったら燃える核に近いこと。
ユウリは頷いた。
今は二段目まで。
明日――席の中で、段を上げる。
リアが小さく言った。
「明日の昼。……同じ席」
ヨルンが頷く。
「昼の光は、少しだけ匂いを散らす。……夜よりマシだ」
夜は危険。
昼はまだマシ。
そのルールが、ユウリの中に一つ刻まれる。
そのとき――ギルドの奥で、笑い声が急に割れた。
「だからさぁ! お前、昨日も同じこと言ったろ!」
「言ってねぇよ! 俺がそんなこと言うわけねぇ!」
喧嘩。
怒鳴り声。
言葉が刃になる瞬間。
ユウリの喉が、条件反射のようにひりついた。
焦げが、鼻の奥で濃くなる。
ヨルンの目が鋭くなる。
「……始まったな」
リアが立ち上がる。
ユウリも反射的に立ち上がりかけて、リアが指で二本立てて止めた。
二段目まで。
余計な言葉を出すな。
余計な動きをするな。
ヨルンは椅子を引かずに、窓際の光の帯の外側からギルドの奥を見た。
視線の置き方が、席と同じだ。
基点を保ったまま観察する。
喧嘩の中心にいた男の片方が、突然むせた。
「……っ、なんだこの匂い!」
焦げた匂い。
紙が燃える匂い。
インクが焼ける匂い。
周囲がざわつく。
ざわつきは言葉を増やす。
言葉が増えると刃が増える。
刃が増えると燃える。
悪循環が、ギルドの中で育っていく。
リアが小さく言った。
「席を出ない」
ユウリは頷く。
助けに行きたい衝動が胸を叩く。
止めたい衝動が喉を焼く。
でも出れば、匂いに触れる。
触れれば削られる。
ヨルンが短く言った。
「見ろ。……これが“言葉が燃える”だ」
喧嘩の男の足元で、紙片がふっと赤く光った。
誰かが落とした依頼書の切れ端。
それが、まるで火種もないのに端から焦げていく。
周囲が悲鳴を上げかけた。
上げかけて、声が詰まった。
声が詰まるのは、恐怖か――それとも。
紙片は燃え広がらない。
燃え広がらないのに、匂いだけは濃くなる。
燃える“現象”は小さく、匂いの“引力”だけが大きい。
ユウリの喉が焼けた。
口を開けそうになる。
何かを叫びそうになる。
止めようとする言葉が、刃になって漏れそうになる。
リアが、ユウリの手を――ほんの一瞬だけ握った。
握りは短い。
だが確実に、ユウリを席へ縫い止めた。
息。
今。
ここ。
ユウリは深く吸い、吐き、叫びを飲み込む。
ヨルンは、ギルドの受付の方へ視線を投げた。
受付の女が、顔色を変えずに桶の水を持って走っている。
だが、水は紙片の火を消すためではない。
水は匂いの輪郭を崩すために床へ撒かれる。
床が濡れ、匂いが少し薄まる。
ざわめきが少し引く。
怒鳴り声が減る。
“効いている”。
ヨルンが低く言った。
「水も塩も香も、匂いの段を切り替える。……だが本命は別だ」
本命。
三つ目。
明日話すと言ったこと。
ユウリはその言葉を胸に刻んだ。
本命は別。
匂いの段ではなく、言葉の段。
席の段。
何かもっと根の部分。
紙片の燃えが止まり、喧嘩も収束し始める。
人々は「酒のせいだ」「誰かが火を落とした」と言い訳を作り始める。
言い訳は固定を避けるための防衛だ。
この町の人間は、無意識に危険を嗅いでいる。
ヨルンはユウリを見て、淡々と言った。
「お前の核は甘い。……だから狙われる」
甘い。
ユウリの胸が痛んだ。
甘い――健康を知らずに死んだ後悔。
言えなかった礼。
やり残し。
その全てが、甘い匂いとして引き寄せてしまう。
ユウリは言い返したくなる。
喉が焼ける。
焦げが疼く。
だから、言い返さない。
二段目まで。
「……どうすれば」
ヨルンは短く答えた。
「甘さを捨てるな。……形にしろ」
形。
リアが言った形。
言葉に形ができることが危ないなら、形にすることがなぜ必要なのか。
矛盾が胸を叩く。
だがヨルンの「形にしろ」は、固定して燃える形にしろという意味ではない。
燃えない形に。
盾になる形に。
手順になる形に。
その手順を、明日教えるのだろう。
リアが言った。
「今日は、終わり。……帰る」
ユウリは頷いた。
今夜は生き延びるだけでいい。
生き延びれば明日が来る。
明日が来れば段を上げられる。
ユウリが立ち上がろうとした瞬間――喉がひりついた。
言い残しがある。
礼がある。
ありがとうがある。
言ったら燃える。
でも言わないと胸が痛い。
この矛盾が、旅の中心にある。
ユウリは言葉の代わりに、深く頭を下げた。
リアへ。
ヨルンへ。
窓際の席へ。
形の礼。
未完了の礼。
リアは頷いた。
ヨルンは何も言わず、ただ窓の外の暗さを見た。
「……明日、昼」
それだけが合図だ。
それだけで十分だ。
ユウリはギルドを出た。
夜風が冷たい。
潮が刺さる。
歩き出した瞬間、背中に焦げた匂いがまとわりつく気がした。
ギルドの中の現象を見たせいだ。
言葉が燃えるのを見たせいだ。
そして、自分の核が甘いと突き付けられたせいだ。
ユウリは息を吸い、吐き、香木の袋を握った。
匂いを切り替える。
段を守る。
だが――夜は、まだ終わっていない。
孤児院へ戻る道は暗い。
暗い道ほど、普通の顔は見えない。
見えないほど、普通に見える。
リアは言った。
夜は危ない。
寄り道するな。
影の濃い路地を避けろ。
ユウリはその手順を守るように、光のある通りを選び、足音を抑え、呼吸を深くした。
戻るために。
明日へ繋ぐために。
だが、角を一つ曲がったとき――
背後で、ひそひそと囁く声がした。
「……言わせる」
ユウリの喉が焼けた。
背後から落ちた囁きは、声としては小さかった。
けれどユウリの内側では、刃物を喉元に当てられたみたいに、痛みが確かな輪郭を持った。
喉が焼ける。
息が浅くなる。
焦げの匂いが、鼻の奥で一気に濃くなる。
ユウリは反射的に振り返りそうになって、歯を食いしばった。
振り返るな。探すな。
探すほど、形が強くなる。
形が強くなるほど、匂いが寄る。
リアの言葉が、身体の深いところで手順として残っていた。
――席を出ない。
――段を守れ。
――核は今言うな。
だが、ここはギルドの窓際ではない。
夜道だ。
光は点々としかない。
席の「場所」を失った瞬間、人は自分の中へ落ちる。落ちた先にあるのが、後悔と礼の核だ。
ユウリは、香木の袋を握りしめた。
指が痛いほど握る。
痛みは現実だ。現実は盾だ。
囁きが、もう一度落ちる。
「……ありがとう」
たった五文字。
それだけで、ユウリの胸の奥が暴れた。
言いたい。
言えない。
言うべきだ。
言ったら燃える。
言わなければ、胸が裂ける。
その矛盾の中心に、影がいる。
ユウリは息を吸って吐いた。
吐く息が、いつもより白い。
冬の夜の白だ。病室の白ではない。
その違いを、意識の中で何度もなぞる。
(今は、現実)
(今は、港)
(今は、夜道)
(今は、生きている)
焦げの匂いが、少しだけ薄まった。
だが、消えない。
背後の囁きは距離を詰めてくるのではなく、むしろ「並ぶ」ように移動していた。肩の少し後ろ。視界の外側。見えない場所に居座る。見えないのに、確実にそこにある。
ユウリは歩幅を乱さずに歩いた。
走りたい衝動を抑える。走ると呼吸が乱れる。呼吸が乱れると喉が焼ける。焼けると漏れる。漏れると餌になる。
――走りたい。
それはやり残しの一つだ。
でも今の走りは「逃走」だ。
後悔を叶える走りではない。
だから、今は歩く。
歩いて、席を作る場所へ移動する。
リアは「光のある通りを選べ」と言った。
光は線を引く。線は枠になる。枠は席の助けになる。
ユウリは灯りの多い大通りに寄せ、角を曲がるたびに呼吸を整えた。香木を吸い、潮を吸い、吐く。
囁きは、しつこく甘い言葉を投げてくる。
「……ありがとう」
「……言えば、楽になる」
「……言わせる」
楽になる。
それが罠だと、ユウリはもう理解していた。
楽になる言葉は、今の自分にとって危険だ。
前世の自分は、ずっと「楽になりたかった」。
痛みから逃げたかった。息苦しさから逃げたかった。
そして最後に――楽になった。終わった。
終わりは、楽ではない。
終わりは、全部を奪う。
ユウリは唇を噛み、声を出さずに、指で空中に小さく|を描いた。
呼吸。
今。
ここ。
それだけで、喉のひりつきが少しだけ引いた。
指が動く。形を作る。形が手順になる。
言葉を出さずに形を作る――それは、リアがギルドで教えた「段」の応用だった。
(席は場所じゃない。手順だ)
ヨルンの声が胸の奥で響いた。
ユウリは足を止める場所を探した。
人通りが少なく、しかし完全な闇ではない。
風が抜ける。
匂いが滞留しない。
そして、背中を預けられる壁がある。
見つけたのは、小さな祠だった。町の端にある、航海安全の祠。石段の上に小さな屋根があり、蝋燭の灯りが風に揺れている。祠の周囲は意外と明るい。人は少ないが、無ではない。
ユウリは石段の脇に立ち、香木の袋を握り、深く息を吸って吐いた。
そして――机の上ではなく、地面に指で□を描いた。
□
□の内側に、小さくもう一つ□。
窓の枠。
席の枠。
描いた瞬間、世界が少しだけ落ち着いた。
完全ではない。けれど、足元に「戻れる線」ができた。
囁きが一瞬だけ途切れる。
途切れた沈黙の中で、焦げの匂いだけが残る。
匂いだけが残るのは、相手が「今の手順」を観察している証拠だ。
ユウリは心臓の鼓動を、呼吸で下げた。
焦らない。怒鳴らない。
ヨルンとカイナンが言っていた「効く」手順。
囁きが戻る。
「……それは、薄い席」
「……まだ、言わせる」
影は、言葉を使ってくる。
言葉で形を作り、形で匂いを寄せる。
ユウリは言葉で応戦しない。応戦すれば刃になる。刃は燃える。
代わりに、塩を使う。
ユウリは薬屋で受け取った塩を思い出した――だが塩は孤児院へ渡してしまった。手元には香木しかない。
(足りない)
その焦りが喉をひりつかせる。
ユウリは手順を変えた。
塩の代わりに、水。
祠の脇に置かれている小さな手水鉢。水が張ってある。
ユウリは指先を濡らし、□の外側に水を散らした。
床が濡れる。
匂いが少しだけ散る気がする。
焦げが薄まる。
囁きが苛立ったように空気を震わせた。
「……言わせる」
「……ありがとう」
影は核を叩きに来る。
ユウリは核を「言わない」だけでは足りないと理解した。
核は胸の中で暴れる。暴れるほど漏れやすい。
漏れないようにするには、核に「形」を与える必要がある。
ヨルンの言葉。
――甘さを捨てるな。形にしろ。
形にする。
燃える形ではなく、盾の形に。
その方法は明日教えると言っていた。
まだ知らない。
知らないなら、今できる最小の形にする。
最小の盾は、手順だ。
段だ。
区切りだ。
ユウリは、自分の核を言葉にせず、段階として分解した。
核:ありがとう
段を落とす:事実にする
事実:手が温かかった/助かった
もっと落とす:形にする
形:頭を下げる/息を吐く/□を描く
ユウリは、祠の前で深く頭を下げた。
誰に向けた礼でもない。
影に向けた礼では、決してない。
これは「核を外へ漏らさないための礼」――形の礼。
頭を下げた瞬間、喉の焼けが少し引いた。
焦げが少し薄まった。
影が、核を奪い切れずに空振りした気配がした。
囁きが、低く笑う。
「……偉い」
「……でも、いつか言わせる」
ユウリは顔を上げずに、息を吸って吐いた。
偉いと言われたことが、腹立たしい。
腹立たしさは怒りだ。
怒りは刃になる。刃は燃える。
だから、怒りを息に落とす。
数息。
十息。
祠の蝋燭が揺れる。
風が抜ける。
波の音が遠い。
その間に、囁きが遠ざかった。
消えたのではない。
ただ、今の席に「入り込む余地」が減ったのだ。
ユウリは立ち上がり、□を足で軽くならした。
席を畳む。
手順を畳む。
畳むから、また作れる。
そして孤児院へ向かって歩き出した。
今度は、囁きは追ってこなかった。
焦げの匂いも薄い。
だがユウリは分かった。
影は「退いた」のではない。
「学んだ」のだ。
ユウリの手順を。
ユウリの核の場所を。
だから、明日が重要になる。
⸻
孤児院へ戻ると、院長はユウリに気づかなかった。
夜の見回りの影に紛れて、寝床へ滑り込む。
布団の薄さと床の硬さが、現実の証明になる。
けれど、ユウリは眠れなかった。
目を閉じると、病室の白が浮かぶ。
目を開けると、板壁の暗さがある。
暗さの中に、焦げの匂いが残っている気がする。
ユウリは香木の袋を枕元に置き、匂いを吸って吐いた。
息。
今。
ここ。
そして、自分の手順を心の中で反復した。
□――席。
|――呼吸。
…――黙れ(言葉を止めろ)。
△――危険(段を下げろ)。
リアが使っていた符号。
自分も今夜、初めて「|」と「□」を使った。
それが効いた。
効いたということは――戦えるということだ。
ユウリは胸の奥で、やり残しの項目を思い浮かべた。
走りたい。
笑いたい。
恋をしたい。
旅をしたい。
未来を選びたい。
そして――ありがとうを言いたい。
言える形にして。
その誓いを胸に置いたまま、ようやく眠りへ沈んだ。
⸻
翌日、昼。
港町の昼は、夜よりも世界が軽い。
潮の匂いが散り、喧騒が匂いを混ぜ、光が影を薄める。
ヨルンが言った通り、昼の光は匂いを散らす。
ユウリは孤児院の仕事を「崩さない程度」に終わらせ、昨日と同じようにギルドへ向かった。
足取りは早くしたい。
だが早くすると息が乱れる。
息が乱れると焦げが寄る。
だから、一定の歩幅。
一定の呼吸。
ギルドの扉を押すと、昼の匂いが広がる。
紙。鉄。汗。
依頼人の声。
受付の乾いた声。
そして窓際の席。
光の帯が床を切る。
あの線を見るだけで、胸が落ち着く。
リアはすでに座っていた。
杯は空。
視線は窓の外。
銀白の髪が光を拾い、青いリボンが揺れている。
ヨルンもいた。
窓際の光の帯を跨がない位置。
跨がないことが、彼の「席の礼儀」なのだとユウリは理解し始めていた。
ユウリが席へ近づくと、リアが指で□を描いた。
座れ、ではない。
戻れ、だ。
ユウリは頷き、席に座った。
息を吸って吐いた。
喉のひりつきが、昨日より弱い。
席が育っている。
自分の中に手順が根を張っている。
ヨルンが先に言った。
「昨夜、寄られたな」
ユウリの喉がひりついた。
だが、今日は昼。席の中。
二段目から三段目へ上げられる。
ユウリは言葉を短く区切り、段を守って答えた。
「……帰り道。囁き。『言わせる』。核を叩かれた」
核という言葉を使った瞬間、喉が少し熱くなる。
ユウリは息を吐き、熱を下げた。
ヨルンが頷く。
「対処は?」
ユウリは事実を並べる。
「光の場所へ。祠。□。水。頭を下げた。……消えた」
リアの瞳が、ほんの僅かに柔らかくなった。
肯定。
正しい手順だった。
ヨルンは言った。
「消えたんじゃない。……お前を『知った』」
ユウリの背中が冷える。
知った。
それは追跡の精度が上がるということだ。
次はもっと巧妙になる。
もっと甘い核を使ってくる。
ヨルンは続ける。
「だから三つ目だ。……核を盾に変える」
三つ目。
本命。
ユウリは息を吸って吐き、頷いた。
リアも小さく頷く。
ヨルンは、机の上に何もないのを確認してから、指で小さな図を描いた。
□
そして、その中に小さな点。
「席」
次に、□の外側に細い線を一本引く。
「境界」
そして境界の外に、さらにもう一本線を引く。
「段」
段。
境界を一枚だけにしない。
段階的に外へ出す。
言葉も同じ。
二段目、三段目、四段目。
ヨルンは言った。
「核をいきなり言うから燃える。……燃える核は餌だ。なら、核を“言葉”にしない」
言葉にしない?
なら、どうする。
ヨルンは答えを急がない。
固定しない。
段で渡す。
「核を、行動にする」
行動。
形。
形にしろ。
ユウリの胸が熱くなる。
ありがとうを、行動にする。
言葉ではなく。
ヨルンは、ユウリの喉元を一瞥してから言った。
「お前の核は『ありがとう』だ。……それは甘い。甘いが、強い。強い核は燃えやすい」
リアが、机の上で小さく…を作った。
黙れ。段を守れ。
ユウリは息を吐き、頷く。
ヨルンは続ける。
「だから、核を言うな。……代わりに“返せ”」
返す。
礼を返す。
言葉ではなく、返す。
ヨルンは、指で二つの矢印を描いた。
ユウリ → リア
リア → ユウリ
「矢印だ。……矢印は言葉より先にある」
ユウリの胸が、少しだけ軽くなる。
確かに、リアと自分は言葉より先に矢印で繋がっている。
襟元を整える。
手を握る。
□を描く。
|を描く。
頷く。
目で示す。
それらが矢印だ。
ヨルンは言った。
「礼を言えないなら、礼を“手順”で返せ。……守れ。支えろ。選べ」
守る。
支える。
選ぶ。
ユウリの中で、やり残しの項目が静かに並び替わった。
走ることも、笑うことも、恋も旅も未来も――全部「選ぶ」ことだ。
前世の自分は選べなかった。
体が弱く、選択肢が最初から削られていた。
今は違う。
今は選べる。
ただし、選び方を間違えれば死ぬ。
だから手順が必要。
リアが、初めて少し長い言葉を言った。
「ユウリは、言葉で返そうとする。……それが優しい。だから狙われる」
優しさが弱点になる。
矛盾だ。
でも、現実だ。
ヨルンが言う。
「優しさを捨てるな。……優しさの“出し方”を変えろ」
出し方。
段。
盾。
ヨルンは机の上に、香木の袋を指差した。
「匂いを切り替えるのは外側の盾。……席と段が内側の盾。内側の盾が育てば、核は燃えにくくなる」
育てる。
時間が必要だ。
けれど時間は敵に与えるものでもある。
だから、今日から育てる。
今日から旅が始まる。
ヨルンは最後に、声を落として言った。
「そして……お前の核はもう一つある。自分ではまだ見えてない核だ」
ユウリの喉がひりついた。
見えていない核。
ありがとう以外の核。
何だ。
ヨルンは断言しない。
固定しない。
ただ、針だけを刺す。
「お前が“迷子”になったのは偶然じゃない。……迷子の言葉は、鍵だ。鍵は、物語の扉を開ける」
物語。
扉。
ユウリは直感した。
これは未来へ繋がる伏線だ。
二度目の転生。
教室の扉。
「3-C」。
そして、最初の一言。
迷子?――こっちだよ。
リアがその言葉に、ほんの僅かに反応した。
微細な揺れ。
頬の赤みが一瞬だけ濃くなる。
ユウリはそれを見逃さなかった。
(リアも、この言葉に何かを持っている)
それが、ユウリの胸を震わせた。
ロマンチックな予感ではない。
運命の輪郭が、手触りとして近づく感じ。
ヨルンが締めるように言った。
「次は、外へ出る。……巡礼路の護衛だ。席は持ち運べ。段は守れ。核は行動で返せ」
外へ。
旅へ。
やり残しを叶える舞台へ。
ユウリは息を吸って吐いた。
喉のひりつきはある。
けれど、昨夜のように焼けていない。
席がある。
段がある。
矢印がある。
ユウリは頭を下げた。
言葉ではなく形で礼を返す。
未完了の礼を、今日も「燃えない形」にして返す。
リアが、ユウリの襟元を整えた。
息。
今。
ここ。
そして、口だけ動かした。
――「迷子にならないで」
ユウリは頷いた。
迷子にならない。
迷子になりそうになったら、□に戻る。
|で息をする。
…で言葉を止める。
△で段を下げる。
核は行動で返す。
その手順が、ユウリの人生の新しい骨になる。
窓際の光が、床に一本の線を引いていた。
その線は境界であり、同時に道しるべでもある。
ユウリはその線を見て、胸の奥でだけ誓いを更新した。
(走る)
(笑う)
(恋をする)
(旅をする)
(未来を選ぶ)
そして――
(ありがとうを、燃えない形で返し続ける)
ギルドを出ると、昼の風が潮を散らした。
白い雲が流れ、港の音が生活の音として戻る。
ユウリは歩き出した。
旅の第一歩はまだ先だ。
だが、手順の第一歩はもう始まっている。
その背中に、もう囁きは落ちなかった。
代わりに、遠い場所で小さく笑う気配だけが、海風の奥に残っていた。
――次は宿で。
――次は巡礼路で。
――次は、言わせる。
そう言われている気がした。
ユウリは息を吸って吐き、香木の袋を握り、窓際の線を胸の中に持ち帰った。
[つづく]




