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かくして回起の時が来た。  作者: 松林英助
第1章ー追憶の旅編ー
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第2話|窓際の席――言葉の段

夜の港町は、昼より匂いが鋭い。


 潮は冷たく、濡れた木の匂いは濃く、魚の血の生温さは暗がりで逆に際立つ。昼の喧騒が消えるぶん、世界は余計な装飾を剥ぎ取られ、音と匂いと光だけになる。


 ユウリはその「削ぎ落とされた世界」を、どこかで知っている気がした。

 前世の病室もそうだったからだ。


 白い天井。

 白いシーツ。

 消毒の匂い。

 機械音。


 余計なものがなくなるほど、心は内側へ落ちやすい。落ちた先にあるのは、後悔だ。やり残しだ。言えなかった礼だ。


 言葉にしたら、喉が焼ける気がする。


 ユウリは息を吸って吐いた。

 潮の匂いを肺に入れる。

 港の現実を入れる。

 病室の白を遠ざける。


 孤児院を抜け出すのは簡単ではなかった。

 院長は目を光らせる。

 バルドは気配に敏い。

 年下の子どもたちは、寂しさからユウリを引き止めようとする。


 だからユウリは「正しさの檻」を壊さない程度に抜け出した。

 台所の裏手の板戸。

 水桶の置き場所。

 倉庫の陰。


 誰にも見られないように――けれど、誰にも見られないことが今夜は逆に怖い。闇は「普通の顔」を借りて近づくとリアが言った。普通の顔が多い場所ほど危ない。夜は普通の顔が見えない。見えないから、どれも普通に見える。


 怖さが喉をひりつかせる。

 ひりつきが焦げを呼ぶ。

 焦げは寄る。


 ユウリは胸の奥で繰り返した。


 (言葉を増やすな)

 (息を失うな)

(焦げを呼ぶな)


 ギルドの灯りが見えたとき、心臓が一瞬だけ速くなった。

 ここがリアの言う「光のある場所」なのだろう。

 扉の向こうは、言葉の多い場所でもある。

 言葉が多い場所は危険だ。

 それでも、今夜はそこへ行かなければならない。


 ユウリは息を吸い、吐き、扉へ手を伸ばした。


 扉を押すと、熱気と匂いが流れ込んできた。

 酒と汗と鉄と紙。

 笑い声と喧嘩の気配。

 杯がぶつかる音。

 椅子が床を擦る音。


 昼よりは人が少ないが、夜のギルドは油断すると飲まれる。

 ユウリは視線を上げすぎないようにしながら、しかし探す。


 銀白の髪。

 青いリボン。

 青緑の瞳。


 窓際の席――あの光の帯の場所。

 そこだけが、別の温度で存在している。


 いた。


 リアは窓際に座っていた。背筋を伸ばし、杯にも手を付けず、ただ窓の外の暗さを見ている。外套の白と淡い青が、灯りの中で静かに浮く。髪は銀色の糸のように流れ、青いリボンが小さく揺れていた。


 ユウリはその姿を見て、喉の奥がほどけそうになるのを感じた。

 言葉が生まれる前に熱が生まれる。

 熱は危険だ。


 ユウリは息を吸って吐き、窓際の席へ向かった。


 近づくにつれ、光の帯が床を切る角度がはっきりする。

 光は暖かいわけではない。

 だが、光が「線」を引いている。

 線は、戻るための目印になる。


 リアが顔を上げ、ユウリを見る。

 青緑の瞳が、ほんの僅かに揺れた。

 揺れは「来た」の合図だ。

 それだけで、ユウリの胸が少しだけ落ち着く。


 ユウリは席の前で立ち止まり、言葉を探してしまいそうになって、慌てて口を閉じた。

 礼を言いたい。

 ありがとう。

 助けてくれた。

 見つけてくれた。


 でも、言葉は危ない。

 言葉が形を作る。

 形が強いと匂いが寄る。

 寄ると削られる。


 リアは、ユウリのためらいを見抜いたように、先に言った。


「座って。……まず息」


 ユウリは頷き、椅子に座った。

 窓際の光が頬に触れる。

 その感触だけで、息が深くなる。


 リアはテーブルの上に指先を置き、ゆっくり□を描いた。

 四角。

 窓。

 枠。


 ユウリはその形を見て、昨日の段丘の□を思い出した。

 基点。

 戻る場所。


 リアは言った。


「ここが、席。……ここから、外へ出ない」


「外へ?」


 ユウリが言った瞬間、喉がひりついた。

 言葉が増えると痛む。

 ユウリは息を吸って吐く。


 リアは頷き、机の上で□の外側を指でなぞった。

 外側――世界。

 外側は、匂いが漂う。

 内側は、守る。


「席の中は、少し安全。……言葉の形が強くなりにくい」


「……完全じゃない?」


 ユウリがそう言うと、リアの目がほんの僅かに細くなった。

 肯定だ。

 完全ではない。

 だから手順が必要。


 リアは言った。


「完全は、ない。……だから、段」


 段。

 言葉の段階。

 形の強さを調整する。


 リアは指を一本立てた。


「一段目は、息だけ」


 次に指を二本立てた。


「二段目は、事実だけ。短い言葉」


 三本。


「三段目は、意味。……ここから危ない」


 四本。


「四段目は、核。……あなたが言いたい言葉」


 核。


 ユウリの胸が熱くなる。

 核――ありがとう。

 核――やり残し。

 核――前世。

 核――死。


 熱が喉へ上がり、ひりつきに変わる。

 焦げの匂いが、鼻の奥で小さく疼いた。


 リアはすぐに言った。


「今夜は、二段目まで」


 ユウリは頷き、息を吸って吐いた。

 二段目まで。

 事実だけ。短い言葉。


 リアは静かに問う。


「名前、もう一回」


 名前。

 固定。

 引力。

 危険。


 けれど、ここは席の中。

 二段目――事実。


 ユウリは息を整え、短く答えた。


「ユウリ」


 喉がひりつく。

 だが焦げは濃くならない。

 席が効いている。


 リアは頷いた。


「私はリア」


 リアの声は静かで、刃にならない。

 固定しない言い方。

 今夜のための言葉。


 ユウリは、どうしても言いたくなる衝動を押し戻し、二段目で止めた。


「……今日、助かった」


 礼ではない。

 事実。


 リアは首を振った。


「助かった、じゃない。……戻れた」


 戻れた。

 その一言で、ユウリの胸が震えた。

 前世の記憶が戻ったこと。

 そして戻ったことが危険を呼ぶこと。


 ユウリは言いかけた。

 病室のこと。

 死んだこと。

 やり残しのこと。


 喉がひりつく。

 焦げが疼く。


 ユウリは息を吸って吐き、言葉を飲み込んだ。


 リアは、机の上に小さな袋を置いた。

 香油の瓶ではない。

 薄い布袋。

 紐が固く結ばれている。


「それ、持ってる?」


 ユウリは頷き、院長に頼まれた香油の小瓶を思い出した。だが持ってきてはいない。孤児院の台所に渡した。

 リアの袋は違う匂いを持っている。


「……何」


 ユウリが問うと、リアは袋の紐を少し緩め、ユウリに近づけた。


 甘くはない。

 強くもない。

 けれど、鼻の奥の焦げを押し流すような――木と草の匂い。


「香木。……匂いの段を切り替える」


 ユウリは息を吸って吐いた。

 焦げの疼きが少し薄れる。

 世界が少しだけ現実に戻る。


「……誰が、そんなの」


 言った瞬間、喉がひりついた。

 リアはすぐに、指で…を作った。

 黙れ。

 今は二段目まで。


 リアは言う。


「ここに来る前に、拾った。……安全のため」


 拾った。

 誰かが用意したのではない。

 リア自身の判断。

 リアの手順。


 ユウリは頷き、袋を受け取った。

 触れた瞬間、温度が指に残る。

 現実の温度。


 そのとき、背後で椅子が引かれる音がした。


「……その席、珍しい客がいるな」


 低い声。

 酒に濡れていない声。

 軽口なのに、芯がある声。


 ユウリが振り返るより先に、リアが目だけで警戒を示した。

 敵ではない。

 でも、近い。


 ユウリが視線を動かすと、そこに男が立っていた。


 歳は――四十前後。

 髪は黒に灰が混じり、無精髭ではなく短く整えられている。

 体格は大きくないが、厚みがある。

 筋肉というより、長い時間を生き残った重み。

 目が鋭い。だが、狩る目ではなく見抜く目。


 男は椅子に座らず、窓際の光の帯を一歩だけ跨がない位置で止まった。

 跨がない――それだけで、男が“席”を知っていることが分かった。


「俺のことは……ヨルンでいい」


 リアが短く言った。


「知ってる」


 知ってる。

 リアが誰かを「知ってる」と言うのは、重い。

 だが、今は二段目まで。

 余計な問いは危険だ。


 ヨルンはユウリを見た。

 視線が喉の辺りで止まる。

 そして、香木の袋に落ちる。


「匂いが薄い。……もう寄られてるな」


 ユウリの喉がひりついた。

 “寄られてる”という言葉が、焦げの記憶を叩く。

 ユウリは息を吸って吐き、言葉を増やさないようにする。


 リアが言う。


「今日、戻った」


 ヨルンが短く頷いた。


「十六だな」


 ユウリの背中が冷えた。

 年齢まで。

 リアが言ったのか。

 それともヨルンが嗅いだのか。


 ヨルンは続ける。


「戻った瞬間は、匂いが強い。……そこを狙う奴がいる」


 狙う奴。

 名前を持たない敵。

 言わせる。


 ユウリは言いかけた。

 誰だ。

 何だ。

 どうすればいい。

 やり残しを叶えたい。

 前世を……。


 喉がひりつく。

 焦げが疼く。


 リアが机の上で、二本指を立てた。

 二段目まで。

 事実だけ。


 ユウリは息を吸って吐き、事実だけを吐き出した。


「……今日、迷った。焦げがした。……リアが、助けた」


 ヨルンは「助けた」という語を拾わずに、「焦げ」と「迷った」を拾った。拾い方が現場の人間だ。原因ではなく、症状から段階を測る。


「迷いは、入り口だ。……路地で迷ったなら、もう匂いは覚えられてる」


 覚えられてる。

 言葉が刃になる。

 ユウリの喉がひりつく。


 ヨルンは、窓際の光を見るようにして言った。


「席を作れ。……席は場所じゃない。手順だ」


 その言葉が、ユウリの胸に深く落ちた。

 リアが描いた□。

 段丘の□。

 窓際の席の□。


 どれも“手順”だった。


 ヨルンは続ける。


「今日は二段目までって顔をしてる。……いい判断だ」


 リアが頷いた。

 ヨルンの言葉がリアの手順を肯定している。


 ユウリは、胸の中でだけ叫んだ。

 なぜ俺の言葉が危ない?

 なぜ俺だけ?

 なぜ今?

 何が俺を狙う?

 どうすればやり残しを叶えられる?


 だが、叫べば燃える。

 燃えれば寄る。

 寄れば削られる。


 だから、息。


 ユウリは息を吸って吐き、短く問う。

 二段目の範囲で。


「……何を、すれば」


 ヨルンはすぐ答えなかった。

 答えないのは意地ではない。

 言葉を選んでいる。

 固定しない形にしている。


「やることは三つ。……だが今夜は二つでいい」


 三つ。

 数字は固定しやすい。

 でも、数字は手順になることもある。

 ヨルンは手順としての数字を使う。


「一つ。席を覚えろ。……窓際だけが席じゃない」


 リアが頷き、机の上で□を描く。

 □は持ち運べる。

 手順はどこでも作れる。


「二つ。言葉の段を守れ。……核は、今は言うな」


 核――ありがとう。

 ユウリの胸が熱くなる。

 喉がひりつく。

 焦げが疼く。


 ヨルンはユウリの反応を見て、淡々と言った。


「言いたい言葉ほど燃える。……燃えた言葉は、餌になる」


 餌。

 言葉が餌。

 なら、言葉を守ることは――自分の魂を守ることと同じだ。


 ユウリは息を吸って吐き、頷いた。

 頷くことで答える。

 言葉を増やさない。


 ヨルンは、ふっと視線を窓の外に向けた。

 外は暗い。

 暗いのに、どこかが白く見えた。

 月明かりか、波の反射か。


「今夜、外に出るな。……孤児院へは戻れ。だが寄り道はするな。影の濃い路地は避けろ」


 ユウリは頷きかけて、喉がひりついた。

 孤児院に戻る。

 戻りたくない。

 でも戻るしかない。

 戻ることで、また言葉が増える。

 増えることで、危険が増える。


 矛盾が胸を刺し、焦げが疼く。


 リアがそっと、ユウリの襟元を整えた。

 息。

 今。

 ここ。


 ユウリは深く吸い、吐き、矛盾を飲み込む。

 今夜は生き延びることが最優先だ。

 やり残しを叶える旅は、生き延びなければ始まらない。


 ヨルンが言った。


「三つ目は……明日、話す」


 三つ目。

 今日言えないこと。

 言ったら燃える核に近いこと。


 ユウリは頷いた。

 今は二段目まで。

 明日――席の中で、段を上げる。


 リアが小さく言った。


「明日の昼。……同じ席」


 ヨルンが頷く。


「昼の光は、少しだけ匂いを散らす。……夜よりマシだ」


 夜は危険。

 昼はまだマシ。

 そのルールが、ユウリの中に一つ刻まれる。


 そのとき――ギルドの奥で、笑い声が急に割れた。


「だからさぁ! お前、昨日も同じこと言ったろ!」


「言ってねぇよ! 俺がそんなこと言うわけねぇ!」


 喧嘩。

 怒鳴り声。

 言葉が刃になる瞬間。


 ユウリの喉が、条件反射のようにひりついた。

 焦げが、鼻の奥で濃くなる。


 ヨルンの目が鋭くなる。


「……始まったな」


 リアが立ち上がる。

 ユウリも反射的に立ち上がりかけて、リアが指で二本立てて止めた。

 二段目まで。

 余計な言葉を出すな。

 余計な動きをするな。


 ヨルンは椅子を引かずに、窓際の光の帯の外側からギルドの奥を見た。

 視線の置き方が、席と同じだ。

 基点を保ったまま観察する。


 喧嘩の中心にいた男の片方が、突然むせた。


「……っ、なんだこの匂い!」


 焦げた匂い。

 紙が燃える匂い。

 インクが焼ける匂い。


 周囲がざわつく。

 ざわつきは言葉を増やす。

 言葉が増えると刃が増える。

 刃が増えると燃える。


 悪循環が、ギルドの中で育っていく。


 リアが小さく言った。


「席を出ない」


 ユウリは頷く。

 助けに行きたい衝動が胸を叩く。

 止めたい衝動が喉を焼く。

 でも出れば、匂いに触れる。

 触れれば削られる。


 ヨルンが短く言った。


「見ろ。……これが“言葉が燃える”だ」


 喧嘩の男の足元で、紙片がふっと赤く光った。

 誰かが落とした依頼書の切れ端。

 それが、まるで火種もないのに端から焦げていく。


 周囲が悲鳴を上げかけた。

 上げかけて、声が詰まった。

 声が詰まるのは、恐怖か――それとも。


 紙片は燃え広がらない。

 燃え広がらないのに、匂いだけは濃くなる。

 燃える“現象”は小さく、匂いの“引力”だけが大きい。


 ユウリの喉が焼けた。

 口を開けそうになる。

 何かを叫びそうになる。

 止めようとする言葉が、刃になって漏れそうになる。


 リアが、ユウリの手を――ほんの一瞬だけ握った。

 握りは短い。

 だが確実に、ユウリを席へ縫い止めた。


 息。

 今。

 ここ。


 ユウリは深く吸い、吐き、叫びを飲み込む。


 ヨルンは、ギルドの受付の方へ視線を投げた。

 受付の女が、顔色を変えずに桶の水を持って走っている。

 だが、水は紙片の火を消すためではない。

 水は匂いの輪郭を崩すために床へ撒かれる。


 床が濡れ、匂いが少し薄まる。

 ざわめきが少し引く。

 怒鳴り声が減る。


 “効いている”。


 ヨルンが低く言った。


「水も塩も香も、匂いの段を切り替える。……だが本命は別だ」


 本命。

 三つ目。

 明日話すと言ったこと。


 ユウリはその言葉を胸に刻んだ。

 本命は別。

 匂いの段ではなく、言葉の段。

 席の段。

 何かもっと根の部分。


 紙片の燃えが止まり、喧嘩も収束し始める。

 人々は「酒のせいだ」「誰かが火を落とした」と言い訳を作り始める。

 言い訳は固定を避けるための防衛だ。

 この町の人間は、無意識に危険を嗅いでいる。


 ヨルンはユウリを見て、淡々と言った。


「お前の核は甘い。……だから狙われる」


 甘い。

 ユウリの胸が痛んだ。

 甘い――健康を知らずに死んだ後悔。

 言えなかった礼。

 やり残し。


 その全てが、甘い匂いとして引き寄せてしまう。


 ユウリは言い返したくなる。

 喉が焼ける。

 焦げが疼く。


 だから、言い返さない。

 二段目まで。


「……どうすれば」


 ヨルンは短く答えた。


「甘さを捨てるな。……形にしろ」


 形。

 リアが言った形。

 言葉に形ができることが危ないなら、形にすることがなぜ必要なのか。

 矛盾が胸を叩く。


 だがヨルンの「形にしろ」は、固定して燃える形にしろという意味ではない。

 燃えない形に。

 盾になる形に。

 手順になる形に。


 その手順を、明日教えるのだろう。


 リアが言った。


「今日は、終わり。……帰る」


 ユウリは頷いた。

 今夜は生き延びるだけでいい。

 生き延びれば明日が来る。

 明日が来れば段を上げられる。


 ユウリが立ち上がろうとした瞬間――喉がひりついた。

 言い残しがある。

 礼がある。

 ありがとうがある。


 言ったら燃える。

 でも言わないと胸が痛い。

 この矛盾が、旅の中心にある。


 ユウリは言葉の代わりに、深く頭を下げた。

 リアへ。

 ヨルンへ。

 窓際の席へ。


 形の礼。

 未完了の礼。


 リアは頷いた。

 ヨルンは何も言わず、ただ窓の外の暗さを見た。


「……明日、昼」


 それだけが合図だ。

 それだけで十分だ。


 ユウリはギルドを出た。

 夜風が冷たい。

 潮が刺さる。


 歩き出した瞬間、背中に焦げた匂いがまとわりつく気がした。

 ギルドの中の現象を見たせいだ。

 言葉が燃えるのを見たせいだ。

 そして、自分の核が甘いと突き付けられたせいだ。


 ユウリは息を吸い、吐き、香木の袋を握った。

 匂いを切り替える。

 段を守る。


 だが――夜は、まだ終わっていない。

 孤児院へ戻る道は暗い。

 暗い道ほど、普通の顔は見えない。

 見えないほど、普通に見える。


 リアは言った。

 夜は危ない。

 寄り道するな。

 影の濃い路地を避けろ。


 ユウリはその手順を守るように、光のある通りを選び、足音を抑え、呼吸を深くした。

 戻るために。

 明日へ繋ぐために。


 だが、角を一つ曲がったとき――

 背後で、ひそひそと囁く声がした。


「……言わせる」


 ユウリの喉が焼けた。


 背後から落ちた囁きは、声としては小さかった。

 けれどユウリの内側では、刃物を喉元に当てられたみたいに、痛みが確かな輪郭を持った。


 喉が焼ける。

 息が浅くなる。

 焦げの匂いが、鼻の奥で一気に濃くなる。


 ユウリは反射的に振り返りそうになって、歯を食いしばった。

 振り返るな。探すな。

 探すほど、形が強くなる。

 形が強くなるほど、匂いが寄る。


 リアの言葉が、身体の深いところで手順として残っていた。


 ――席を出ない。

 ――段を守れ。

 ――核は今言うな。


 だが、ここはギルドの窓際ではない。

 夜道だ。

 光は点々としかない。

 席の「場所」を失った瞬間、人は自分の中へ落ちる。落ちた先にあるのが、後悔と礼の核だ。


 ユウリは、香木の袋を握りしめた。

 指が痛いほど握る。

 痛みは現実だ。現実は盾だ。


 囁きが、もう一度落ちる。


「……ありがとう」


 たった五文字。

 それだけで、ユウリの胸の奥が暴れた。


 言いたい。

 言えない。

 言うべきだ。

 言ったら燃える。

 言わなければ、胸が裂ける。


 その矛盾の中心に、影がいる。


 ユウリは息を吸って吐いた。

 吐く息が、いつもより白い。

 冬の夜の白だ。病室の白ではない。

 その違いを、意識の中で何度もなぞる。


 (今は、現実)

 (今は、港)

 (今は、夜道)

 (今は、生きている)


 焦げの匂いが、少しだけ薄まった。

 だが、消えない。


 背後の囁きは距離を詰めてくるのではなく、むしろ「並ぶ」ように移動していた。肩の少し後ろ。視界の外側。見えない場所に居座る。見えないのに、確実にそこにある。


 ユウリは歩幅を乱さずに歩いた。

 走りたい衝動を抑える。走ると呼吸が乱れる。呼吸が乱れると喉が焼ける。焼けると漏れる。漏れると餌になる。


 ――走りたい。

 それはやり残しの一つだ。

 でも今の走りは「逃走」だ。

 後悔を叶える走りではない。


 だから、今は歩く。

 歩いて、席を作る場所へ移動する。


 リアは「光のある通りを選べ」と言った。

 光は線を引く。線は枠になる。枠は席の助けになる。


 ユウリは灯りの多い大通りに寄せ、角を曲がるたびに呼吸を整えた。香木を吸い、潮を吸い、吐く。


 囁きは、しつこく甘い言葉を投げてくる。


「……ありがとう」

「……言えば、楽になる」

「……言わせる」


 楽になる。

 それが罠だと、ユウリはもう理解していた。


 楽になる言葉は、今の自分にとって危険だ。

 前世の自分は、ずっと「楽になりたかった」。

 痛みから逃げたかった。息苦しさから逃げたかった。

 そして最後に――楽になった。終わった。


 終わりは、楽ではない。

 終わりは、全部を奪う。


 ユウリは唇を噛み、声を出さずに、指で空中に小さく|を描いた。

 呼吸。

 今。

 ここ。


 それだけで、喉のひりつきが少しだけ引いた。

 指が動く。形を作る。形が手順になる。

 言葉を出さずに形を作る――それは、リアがギルドで教えた「段」の応用だった。


 (席は場所じゃない。手順だ)


 ヨルンの声が胸の奥で響いた。


 ユウリは足を止める場所を探した。

 人通りが少なく、しかし完全な闇ではない。

 風が抜ける。

 匂いが滞留しない。

 そして、背中を預けられる壁がある。


 見つけたのは、小さな祠だった。町の端にある、航海安全の祠。石段の上に小さな屋根があり、蝋燭の灯りが風に揺れている。祠の周囲は意外と明るい。人は少ないが、無ではない。


 ユウリは石段の脇に立ち、香木の袋を握り、深く息を吸って吐いた。


 そして――机の上ではなく、地面に指で□を描いた。


 □

 □の内側に、小さくもう一つ□。


 窓の枠。

 席の枠。


 描いた瞬間、世界が少しだけ落ち着いた。

 完全ではない。けれど、足元に「戻れる線」ができた。


 囁きが一瞬だけ途切れる。

 途切れた沈黙の中で、焦げの匂いだけが残る。

 匂いだけが残るのは、相手が「今の手順」を観察している証拠だ。


 ユウリは心臓の鼓動を、呼吸で下げた。

 焦らない。怒鳴らない。

 ヨルンとカイナンが言っていた「効く」手順。


 囁きが戻る。


「……それは、薄い席」

「……まだ、言わせる」


 影は、言葉を使ってくる。

 言葉で形を作り、形で匂いを寄せる。

 ユウリは言葉で応戦しない。応戦すれば刃になる。刃は燃える。


 代わりに、塩を使う。


 ユウリは薬屋で受け取った塩を思い出した――だが塩は孤児院へ渡してしまった。手元には香木しかない。

 (足りない)

 その焦りが喉をひりつかせる。


 ユウリは手順を変えた。

 塩の代わりに、水。

 祠の脇に置かれている小さな手水鉢。水が張ってある。


 ユウリは指先を濡らし、□の外側に水を散らした。

 床が濡れる。

 匂いが少しだけ散る気がする。

 焦げが薄まる。


 囁きが苛立ったように空気を震わせた。


「……言わせる」

「……ありがとう」


 影は核を叩きに来る。

 ユウリは核を「言わない」だけでは足りないと理解した。

 核は胸の中で暴れる。暴れるほど漏れやすい。

 漏れないようにするには、核に「形」を与える必要がある。


 ヨルンの言葉。

 ――甘さを捨てるな。形にしろ。


 形にする。

 燃える形ではなく、盾の形に。

 その方法は明日教えると言っていた。

 まだ知らない。


 知らないなら、今できる最小の形にする。

 最小の盾は、手順だ。

 段だ。

 区切りだ。


 ユウリは、自分の核を言葉にせず、段階として分解した。


 核:ありがとう

 段を落とす:事実にする

 事実:手が温かかった/助かった

 もっと落とす:形にする

 形:頭を下げる/息を吐く/□を描く


 ユウリは、祠の前で深く頭を下げた。


 誰に向けた礼でもない。

 影に向けた礼では、決してない。

 これは「核を外へ漏らさないための礼」――形の礼。


 頭を下げた瞬間、喉の焼けが少し引いた。

 焦げが少し薄まった。

 影が、核を奪い切れずに空振りした気配がした。


 囁きが、低く笑う。


「……偉い」

「……でも、いつか言わせる」


 ユウリは顔を上げずに、息を吸って吐いた。

 偉いと言われたことが、腹立たしい。

 腹立たしさは怒りだ。

 怒りは刃になる。刃は燃える。


 だから、怒りを息に落とす。


 数息。

 十息。

 祠の蝋燭が揺れる。

 風が抜ける。

 波の音が遠い。


 その間に、囁きが遠ざかった。

 消えたのではない。

 ただ、今の席に「入り込む余地」が減ったのだ。


 ユウリは立ち上がり、□を足で軽くならした。

 席を畳む。

 手順を畳む。

 畳むから、また作れる。


 そして孤児院へ向かって歩き出した。


 今度は、囁きは追ってこなかった。

 焦げの匂いも薄い。

 だがユウリは分かった。


 影は「退いた」のではない。

 「学んだ」のだ。

 ユウリの手順を。

 ユウリの核の場所を。


 だから、明日が重要になる。


 ⸻


 孤児院へ戻ると、院長はユウリに気づかなかった。

 夜の見回りの影に紛れて、寝床へ滑り込む。

 布団の薄さと床の硬さが、現実の証明になる。


 けれど、ユウリは眠れなかった。


 目を閉じると、病室の白が浮かぶ。

 目を開けると、板壁の暗さがある。

 暗さの中に、焦げの匂いが残っている気がする。


 ユウリは香木の袋を枕元に置き、匂いを吸って吐いた。

 息。

 今。

 ここ。


 そして、自分の手順を心の中で反復した。


 □――席。

 |――呼吸。

 …――黙れ(言葉を止めろ)。

 △――危険(段を下げろ)。


 リアが使っていた符号。

 自分も今夜、初めて「|」と「□」を使った。

 それが効いた。


 効いたということは――戦えるということだ。


 ユウリは胸の奥で、やり残しの項目を思い浮かべた。


 走りたい。

 笑いたい。

 恋をしたい。

 旅をしたい。

 未来を選びたい。


 そして――ありがとうを言いたい。

 言える形にして。


 その誓いを胸に置いたまま、ようやく眠りへ沈んだ。


 ⸻


 翌日、昼。


 港町の昼は、夜よりも世界が軽い。

 潮の匂いが散り、喧騒が匂いを混ぜ、光が影を薄める。

 ヨルンが言った通り、昼の光は匂いを散らす。


 ユウリは孤児院の仕事を「崩さない程度」に終わらせ、昨日と同じようにギルドへ向かった。

 足取りは早くしたい。

 だが早くすると息が乱れる。

 息が乱れると焦げが寄る。


 だから、一定の歩幅。

 一定の呼吸。


 ギルドの扉を押すと、昼の匂いが広がる。

 紙。鉄。汗。

 依頼人の声。

 受付の乾いた声。


 そして窓際の席。

 光の帯が床を切る。

 あの線を見るだけで、胸が落ち着く。


 リアはすでに座っていた。

 杯は空。

 視線は窓の外。

 銀白の髪が光を拾い、青いリボンが揺れている。


 ヨルンもいた。

 窓際の光の帯を跨がない位置。

 跨がないことが、彼の「席の礼儀」なのだとユウリは理解し始めていた。


 ユウリが席へ近づくと、リアが指で□を描いた。

 座れ、ではない。

 戻れ、だ。


 ユウリは頷き、席に座った。

 息を吸って吐いた。

 喉のひりつきが、昨日より弱い。

 席が育っている。

 自分の中に手順が根を張っている。


 ヨルンが先に言った。


「昨夜、寄られたな」


 ユウリの喉がひりついた。

 だが、今日は昼。席の中。

 二段目から三段目へ上げられる。


 ユウリは言葉を短く区切り、段を守って答えた。


「……帰り道。囁き。『言わせる』。核を叩かれた」


 核という言葉を使った瞬間、喉が少し熱くなる。

 ユウリは息を吐き、熱を下げた。


 ヨルンが頷く。


「対処は?」


 ユウリは事実を並べる。


「光の場所へ。祠。□。水。頭を下げた。……消えた」


 リアの瞳が、ほんの僅かに柔らかくなった。

 肯定。

 正しい手順だった。


 ヨルンは言った。


「消えたんじゃない。……お前を『知った』」


 ユウリの背中が冷える。

 知った。

 それは追跡の精度が上がるということだ。

 次はもっと巧妙になる。

 もっと甘い核を使ってくる。


 ヨルンは続ける。


「だから三つ目だ。……核を盾に変える」


 三つ目。

 本命。


 ユウリは息を吸って吐き、頷いた。

 リアも小さく頷く。


 ヨルンは、机の上に何もないのを確認してから、指で小さな図を描いた。


 □

 そして、その中に小さな点。


「席」


 次に、□の外側に細い線を一本引く。


「境界」


 そして境界の外に、さらにもう一本線を引く。


「段」


 段。

 境界を一枚だけにしない。

 段階的に外へ出す。

 言葉も同じ。

 二段目、三段目、四段目。


 ヨルンは言った。


「核をいきなり言うから燃える。……燃える核は餌だ。なら、核を“言葉”にしない」


 言葉にしない?

 なら、どうする。


 ヨルンは答えを急がない。

 固定しない。

 段で渡す。


「核を、行動にする」


 行動。

 形。

 形にしろ。


 ユウリの胸が熱くなる。

 ありがとうを、行動にする。

 言葉ではなく。


 ヨルンは、ユウリの喉元を一瞥してから言った。


「お前の核は『ありがとう』だ。……それは甘い。甘いが、強い。強い核は燃えやすい」


 リアが、机の上で小さく…を作った。

 黙れ。段を守れ。

 ユウリは息を吐き、頷く。


 ヨルンは続ける。


「だから、核を言うな。……代わりに“返せ”」


 返す。

 礼を返す。

 言葉ではなく、返す。


 ヨルンは、指で二つの矢印を描いた。


 ユウリ → リア

 リア → ユウリ


「矢印だ。……矢印は言葉より先にある」


 ユウリの胸が、少しだけ軽くなる。

 確かに、リアと自分は言葉より先に矢印で繋がっている。

 襟元を整える。

 手を握る。

 □を描く。

 |を描く。

 頷く。

 目で示す。

 それらが矢印だ。


 ヨルンは言った。


「礼を言えないなら、礼を“手順”で返せ。……守れ。支えろ。選べ」


 守る。

 支える。

 選ぶ。


 ユウリの中で、やり残しの項目が静かに並び替わった。


 走ることも、笑うことも、恋も旅も未来も――全部「選ぶ」ことだ。

 前世の自分は選べなかった。

 体が弱く、選択肢が最初から削られていた。


 今は違う。

 今は選べる。

 ただし、選び方を間違えれば死ぬ。

 だから手順が必要。


 リアが、初めて少し長い言葉を言った。


「ユウリは、言葉で返そうとする。……それが優しい。だから狙われる」


 優しさが弱点になる。

 矛盾だ。

 でも、現実だ。


 ヨルンが言う。


「優しさを捨てるな。……優しさの“出し方”を変えろ」


 出し方。

 段。

 盾。


 ヨルンは机の上に、香木の袋を指差した。


「匂いを切り替えるのは外側の盾。……席と段が内側の盾。内側の盾が育てば、核は燃えにくくなる」


 育てる。

 時間が必要だ。

 けれど時間は敵に与えるものでもある。

 だから、今日から育てる。

 今日から旅が始まる。


 ヨルンは最後に、声を落として言った。


「そして……お前の核はもう一つある。自分ではまだ見えてない核だ」


 ユウリの喉がひりついた。

 見えていない核。

 ありがとう以外の核。

 何だ。


 ヨルンは断言しない。

 固定しない。

 ただ、針だけを刺す。


「お前が“迷子”になったのは偶然じゃない。……迷子の言葉は、鍵だ。鍵は、物語の扉を開ける」


 物語。

 扉。


 ユウリは直感した。

 これは未来へ繋がる伏線だ。

 二度目の転生。

 教室の扉。

 「3-C」。

 そして、最初の一言。


 迷子?――こっちだよ。


 リアがその言葉に、ほんの僅かに反応した。

 微細な揺れ。

 頬の赤みが一瞬だけ濃くなる。

 ユウリはそれを見逃さなかった。


 (リアも、この言葉に何かを持っている)


 それが、ユウリの胸を震わせた。

 ロマンチックな予感ではない。

 運命の輪郭が、手触りとして近づく感じ。


 ヨルンが締めるように言った。


「次は、外へ出る。……巡礼路の護衛だ。席は持ち運べ。段は守れ。核は行動で返せ」


 外へ。

 旅へ。

 やり残しを叶える舞台へ。


 ユウリは息を吸って吐いた。

 喉のひりつきはある。

 けれど、昨夜のように焼けていない。


 席がある。

 段がある。

 矢印がある。


 ユウリは頭を下げた。

 言葉ではなく形で礼を返す。

 未完了の礼を、今日も「燃えない形」にして返す。


 リアが、ユウリの襟元を整えた。

 息。

 今。

 ここ。


 そして、口だけ動かした。


 ――「迷子にならないで」


 ユウリは頷いた。

 迷子にならない。

 迷子になりそうになったら、□に戻る。

 |で息をする。

 …で言葉を止める。

 △で段を下げる。

 核は行動で返す。


 その手順が、ユウリの人生の新しい骨になる。


 窓際の光が、床に一本の線を引いていた。

 その線は境界であり、同時に道しるべでもある。


 ユウリはその線を見て、胸の奥でだけ誓いを更新した。


 (走る)

 (笑う)

 (恋をする)

 (旅をする)

 (未来を選ぶ)

 そして――

 (ありがとうを、燃えない形で返し続ける)


 ギルドを出ると、昼の風が潮を散らした。

 白い雲が流れ、港の音が生活の音として戻る。


 ユウリは歩き出した。

 旅の第一歩はまだ先だ。

 だが、手順の第一歩はもう始まっている。


 その背中に、もう囁きは落ちなかった。

 代わりに、遠い場所で小さく笑う気配だけが、海風の奥に残っていた。


 ――次は宿で。

 ――次は巡礼路で。

 ――次は、言わせる。


 そう言われている気がした。


 ユウリは息を吸って吐き、香木の袋を握り、窓際の線を胸の中に持ち帰った。


 [つづく]

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