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かくして回起の時が来た。  作者: 松林英助
第1章ー追憶の旅編ー
1/3

第1話|迷子?ーーこっちだよ

十六歳になった朝は、海の匂いがいつもより鋭かった。


 潮が乾く前の冷たい塩気と、魚の血の生温さ、濡れた木箱に染みついた油の匂い。港町に生まれた者なら慣れっこだ。けれどユウリは、その匂いの層が今日はやけに分厚く感じた。胸の奥に、見えない膜が一枚増えたような感覚――そこに息を吸い込むたび、何かが引っかかる。


 朝はいつも、同じだった。


 古い孤児院の廊下は板が軋み、炊事場からは薄い粥の匂いが漂い、年下の子どもたちは眠たい目で水桶を運び、年上の子は腹の底で不満を煮やしながら仕事をこなす。誰かが咳をし、誰かが泣き、誰かが叱られる。そのどれもが日常で、日常は疑うものではなかった。


 ……今日までは。


「ユウリ、誕生日だろ。浮かれてんじゃねぇぞ」


 背中に投げられた声は、孤児院で最年長のバルドのものだった。十七歳。腕力で序列を保っているタイプの少年で、悪い奴ではないが優しくもない。優しさはこの場所では贅沢品だ。


「浮かれてない」


 ユウリは短く返し、薪の束を肩に担ぎ直した。自分の声が、自分の耳に少し違って聞こえる。乾いているのに、喉の奥がひりつく。空気の冷たさのせいだろうか――そう思って、深く吸い込む。


 潮の匂いの奥に、ほんのわずかな焦げが混ざった気がした。


 瞬間、胸が跳ねた。


 焦げ? 朝の台所で何か焦がしたのか。

 いや、そういう匂いじゃない。もっと……紙とインクが焼けたような、薄くて嫌な匂い。


 ユウリは眉を寄せたが、足を止めなかった。ここで立ち止まれば、バルドの小言が増える。小言が増えれば、仕事が遅れる。遅れれば、院長の機嫌が悪くなる。孤児院の朝は、段取りを崩すと詰む。


 だから、進む。


 薪を置き、井戸水を汲み、裏庭の雑草を抜き、洗濯桶を運び――やがて午前の仕事が一段落した頃、院長マルタが呼びつけた。


「ユウリ。市場の薬屋へ行け。干し草の粉と、塩、それから――香油を少し」


 香油。

 その単語に、ユウリの胸が小さくざわついた。


 孤児院に香油なんて似合わない。誰かが怪我をして消毒に使うのか、院長が来客でも迎えるのか。理由を聞きたかったが、ここで質問は余計な波風だ。孤児に許されるのは従順さだけだと、ユウリは長い間学んできた。


「はい」


 返事だけして、木箱を抱える。


「道草を食うな。今日は港が騒がしい。荷を失くした者がいるらしい」


 院長はそう言い、最後に付け足すように言った。


「……変な噂もある。『言葉が勝手に燃える』だの、『呼んでもない声が聞こえる』だの。お前は余計なものに近づくな」


 言葉が燃える。

 ユウリの喉が、またひりついた。


「分かりました」


 言いながら、胸の内側でだけ反芻する。


 言葉が燃える。

 そんな馬鹿な――と笑い飛ばせるほど、ユウリは子どもではなかった。孤児院で生きていると、世の中には「説明のつかないこと」が確かにあると嫌でも知る。説明がつかないからこそ、触らないのが賢い。


 だが――今日の焦げの匂いは、説明のつかない側の匂いだった。


 ユウリは孤児院を出て、市場へ向かった。昼前の港町は活気がある。魚を担いだ男たちが怒鳴り、女たちは値段を交渉し、子どもたちは走り回り、荷車が石畳を叩く音が響く。喧騒は嫌いではなかった。喧騒は、自分が目立たなくなるからだ。


 孤児は目立つと損をする。

 目立つと使われる。

 目立つと奪われる。

 目立つと、殴られる。


 だからユウリは人の流れの縁を歩き、肩をすぼめ、視線を上げすぎずに進む。木箱の重みが、現実の重みになる。現実に重みがあると、心は浮つかない。浮つかなければ、余計なことを考えずに済む。


 ……そのはずだった。


 薬屋で干し草の粉と塩を受け取り、香油を小瓶に詰めてもらって外へ出たとき、潮の匂いが急に途切れた。


 匂いが途切れる、というのはおかしい。海はそこにあるし、風も吹いている。なのに鼻の奥が真空になったように、何も感じない瞬間があった。


 次の瞬間――焦げた匂いが、はっきりと鼻を刺した。


 紙とインクが燃える匂い。

 それが市場の雑多な匂いの中で、妙に鮮明だった。


 ユウリは立ち尽くしそうになり、慌てて足を動かした。周囲の人間は普通に歩いている。誰も匂いに気づいていない。気づいていないのに、自分だけが刺されている。


 (なんだ、これ)


 恐怖ではない。嫌悪でもない。

 もっと別の――「思い出せ」と背中を押されるような、奇妙な引力。


 焦げの匂いは、路地へ向かう風に乗っていた。ユウリは追うつもりはなかった。だが、足は自然に匂いの方向へ向いた。自分の意志とは別のところで、身体が「行け」と言っている。


 路地は細く、昼の光が届きにくい。壁の影が濃く、空気が冷たい。市場の喧騒が一気に遠ざかり、足音が目立つ。孤児が入りたがらない種類の場所だ。


 ……なのに、ユウリは入ってしまった。


 焦げの匂いが濃くなる。

 鼻の奥が痛い。

 喉がひりつく。


 そして、胸の奥に、別の匂いが混ざった。


 消毒液。

 冷たい金属。

 白い布。


 その匂いは、ここにあるはずがない。ここは港町の路地だ。薬屋から出てきたばかりとはいえ、消毒の匂いがこんなに鮮明に蘇るはずがない。


 (……何だ?)


 ユウリは薬箱を抱え直し、息を吸って吐いた。吐いた息が、ひどく浅い。浅い息は、胸を締め付ける。胸が締め付けられると、過去が近づく。過去が近づくと、言葉が喉に詰まる。


 言葉が詰まると――焦げの匂いが濃くなる。


 路地を曲がった先で、ユウリは完全に迷った。


 見覚えがあるようでない。

 同じような壁、同じような扉、同じような影。

 出入口がどちらだったか分からない。


 港町で迷子なんて、滅多にない。ユウリはこの町で育った。迷いようがない……はずだった。なのに、路地がわずかに歪んで見える。曲がった角が、記憶より少しだけ深い。扉の位置が、わずかに違う。


 そして、焦げの匂いが「中心」に居座っている。


 (戻れない……?)


 喉がひりつき、唾が飲み込めない。

 視界の端が白く滲む。

 白――白い天井。


 突然、頭の中で音が鳴った。


 ――ピッ、ピッ、ピッ。


 機械音。規則正しい電子音。

 胸が痛い。肺が痛い。息が吸えない。

 冷たいシーツ。白い布。消毒液。


 (何だよ……!)


 ユウリは壁に手をつき、必死に呼吸しようとした。だが呼吸は浅いまま。浅い呼吸が、さらに記憶を引き出す。引き出された記憶が、さらに呼吸を浅くする。


 悪循環。


 そこへ、声が落ちた。


「迷子?」


 ユウリは顔を上げた。


 路地の奥に、少女がいた。


 白い外套に淡い青の差し色、金縁の飾り。胸元には青い宝石がきらりと光り、コルセット風の編み上げが細い胴を締めている。指ぬきのグローブ、太いベルトとポーチ、白いロングブーツ。上品で、戦うために整えられた服。


 そして――腰下まで流れる銀白のストレートヘア。毛先が微かに広がり、青いリボンと小さな髪飾りが揺れていた。青緑の大きな瞳が、薄い影の中でもはっきりとこちらを射抜く。頬に淡い赤み。儚く切ない表情なのに、折れない芯がある。


 ユウリは言葉を失った。

 美しさにではない。

 胸の奥が、彼女の存在に「反応」した。


 焦げの匂いが、ふっと弱くなる。

 代わりに、潮の匂いが戻ってくる。

 路地の冷たさが、現実の冷たさに変わる。


 少女は片膝をつき、前傾した。

 そして左手を、ユウリへ差し伸べた。


 救いの形。

 懇願の形。

 決意の形。


 ユウリは、その手を見た瞬間、喉の奥で何かがほどけた。

 ほどけたものは、言葉ではない。

 言葉になる前の――魂の糸。


 少女は、もう一度言った。

 今度は少しだけ柔らかい声で。


「迷子?――こっちだよ」


 その一言が、ユウリの中で「鍵」を回した。


 焦げた匂いが爆ぜ、白い光が脳内に溢れ、耳の奥で機械音が鳴り、冷たいシーツの感触が肌に貼り付く。視界がぐらりと揺れ、路地が病室に変わり、病室が路地に戻り、ユウリはその狭間に落ちた。


 ――十六歳。

 ――自分と同じ年齢。

 ――命を落とした年齢。


 「戻った」のだと、ユウリは理解した。

 何が、とは言えない。

 言えば燃える気がした。


 だが、理解は言葉ではなく痛みで来た。


 喉が焼ける。

 胸が締め付けられる。

 目の奥が熱くなる。


 病室の匂い。消毒の匂い。

 白い天井。白い布。

 窓の外の春。

 笑い声。遠い校庭。

 自分はそこで、見ているだけだった。


 健康なら普通にやれたはずの青春。

 当たり前にできたはずの恋。

 当たり前にできたはずの未来。


 その全てを、奪われたまま終わった。


 そして最後の瞬間、誰かが自分の手を握っていた。


 ――誰だ?


 名前が出ない。顔が出ない。

 けれど温度だけが鮮明だ。

 握り返したかった。

 ありがとうと言いたかった。


 (……ありがとう)


 喉が焼けて、息が詰まった。


 言葉にしたら、ここで何かが壊れる。

 根拠はないのに、身体がそう言っている。

 だからユウリは口を閉じ、ただ少女の手を見つめた。


 少女――リアは、差し伸べた手を下げない。

 焦らない。急かさない。

 まるでユウリの内側で何が起きたかを、最初から知っているみたいに。


 ユウリは震える指で、彼女の手を取った。


 その瞬間、冷たさが消えた。

 路地の影が薄くなり、潮の匂いが戻り、世界の輪郭が現実に固定される。


 リアは立ち上がり、ユウリを引き起こした。

 その動きには迷いがない。

 引っ張るのではなく、支える。


 ユウリは息を吸い、吐いた。

 深く吸えた。吐き切れた。

 肺が痛くない。胸が苦しくない。


 それが奇跡みたいで、涙が出そうになった。

 だが涙を出したら、言葉が漏れる。

 言葉が漏れたら、焦げが戻る。

 焦げが戻ったら、また落ちる。


 だからユウリは、ただ頷いた。


「……ありがとう」


 言いかけて、口を噛んだ。

 喉がひりついた。

 焦げの匂いが、鼻の奥で小さく疼く。


 リアの瞳が、ほんの僅かに揺れた。

 揺れは拒絶ではない。

 むしろ――「今は言わない方がいい」と言っている揺れ。


 リアは短く言った。


「言葉はあと。今は、出る」


 ユウリは黙って頷いた。

 言葉はあと。

 今は、出る。


 リアはユウリの袖を掴み、路地を進んだ。来た道と違う。曲がり角の数も違う。なのに、迷わない。迷いそうになると、リアは一瞬だけ振り返り、目で「こっち」と示す。


 その「こっち」が、不思議と刺さらない。

 さっきの「こっちだよ」は、鍵だった。

 今の「こっち」は、道しるべだ。


 路地を抜けた瞬間、港町の喧騒が戻った。

 魚の匂い。汗の匂い。パンの甘い匂い。

 生活の匂いが、ユウリの肺に入ってくる。


 ユウリは深く息を吸い、吐いた。

 世界が現実に戻った。

 そして同時に――自分の中に、現実ではないものが戻った。


 前世。

 病室。

 奪われた青春。

 やり残し。


 その全てが、胸の中でうずく。


 リアは人混みの縁を歩き、ユウリを連れて市場の外側へ回った。目立たないように。誰にも見られないように。孤児が目立つと損をすることを、彼女は知っているみたいだった。


 ユウリは思わず、彼女の横顔を見た。


 銀白の髪。青いリボン。

 青緑の瞳。儚い表情。

 でも、歩き方は強い。


 (この子は……誰だ)


 問いたい。

 けれど言葉はあと。

 今は、出る。


 リアは市場の端の小さな水路の前で立ち止まり、ユウリに向き直った。

 そして、左手をもう一度差し伸べるのではなく――今度は指で、小さく四角を描いた。


 □


 それが何の形か、ユウリには分からない。

 ただ、なぜか胸が落ち着く。


 リアが言った。


「ここで、息。……落ち着くまで」


 ユウリは頷き、壁にもたれ、息を整えた。

 焦げの匂いは薄い。

 けれど完全には消えていない。

 薄い焦げが、今の自分の“危険”だと身体が理解している。


 リアは続けた。


「あなた、今日……戻った」


 ユウリの喉がひりついた。

 その言い方は、確信だ。


「……何が」


 声が震える。

 言葉にした瞬間、焦げが少し濃くなる。

 ユウリはすぐに口を閉じ、息を吸って吐いた。


 リアはユウリの反応を見て、わずかに目を細めた。


「今は、長い話をしない。……危ない」


 危ない。

 何が?

 言葉が?

 自分が?

 それとも――この世界が?


 問いたい。

 でも、喉がひりつく。

 焦げが疼く。


 ユウリはただ頷いた。


 リアは一歩近づき、ユウリの襟元を整えた。

 たったそれだけの行為なのに、呼吸が深くなる。

 現実が固定される。

 病室の白が遠ざかる。


 リアは言った。


「名前」


 ユウリは一瞬迷い、短く答えた。


「ユウリ」


 名を言った瞬間、焦げが小さく疼いた。

 名前は固定する。固定は引力になる。

 リアの目が「今はそれ以上言うな」と言っている。


 リアは短く頷いた。


「私は、リア」


 名を告げる声は静かで、揺れない。

 その名はなぜか、ユウリの胸の奥にすっと落ちた。

 落ちて、残る。

 残って、温度になる。


 ユウリは息を吸い、吐いた。

 そして、ようやく一つだけ言った。


「……助けてくれた」


 礼ではない。

 事実の提示。

 固定しすぎない言い方。


 リアは首を振った。


「助けたんじゃない。……見つけた」


 見つけた。

 その言葉が、ユウリの背中を冷やした。


 見つけた――まるで、探していたみたいに。

 まるで、今日のこの瞬間を知っていたみたいに。


 ユウリの喉がひりつく。

 焦げの匂いが、ほんの少し濃くなる。


 リアはすぐに言った。


「歩く。人が多いと、匂いが散る」


 匂い。

 リアは焦げの匂いを知っている。

 言葉が危ないことを知っている。

 そして、ユウリの中で起きた“戻り”を知っている。


 ユウリは頷いた。

 今は、歩く。

 今は、息。

 今は、言葉は少なく。


 リアはユウリを連れ、港の外れへ向かって歩き出した。

 人混みの縁を、影の薄い方へ。

 光が当たる方へ。


 その背中を見ながら、ユウリは胸の奥でだけ、はっきり理解した。


 自分は今日、人生が始まった。

 遅すぎるほど遅れて、ようやく始まった。


 そしてこの始まりには、条件がある。


 言葉を増やすな。

 息を失うな。

 焦げを呼ぶな。


 ――ありがとうは、今は言うな。


 その理解が、痛かった。

 言いたいのに言えない。

 言うべきなのに言えない。


 前世と同じだ。

 前世も、言えなかった。


 けれど今度は違う。

 言えない理由が、愛や臆病さだけじゃない。

 言えない理由が、世界の危険と繋がっている。


 だからこそ、ユウリは誓った。

 胸の奥でだけ。声にはしない。


 (いつか、言う)

 (言える形にして、言う)

 (奪われない言い方で、言う)


 リアが一度だけ振り返り、目で「こっち」と示した。

 ユウリは頷き、歩幅を合わせた。


 迷子?

 こっちだよ。


 その言葉が、自分の中でまだ熱を持っている。

 熱は危険だ。

 でも、熱は生きる灯だ。


 ユウリは息を吸い、吐き、灯を消さないまま、燃えないように抱えて歩いた。


 港の外れへ向かう道は、潮風の通り道だった。


 市場の喧騒が背中に薄れていくほど、風の音がはっきり聞こえる。帆綱が擦れる音、遠くで波が砕ける音、木箱を積み直す音。人の声が減ると、世界は「匂い」と「音」と「光」でできていることが露わになる。


 リアはその三つを、意図的に選び取って歩いていた。影の濃い道を避け、光の当たる側を歩き、風が抜ける場所を通る。人の密度が低い方へ進む。人の密度が低いと、匂いが散りやすい――リアの言葉通りだ。


 ユウリは歩きながら、自分の手に残る温度を確かめていた。

 さっき、手を取った。

 それだけで、世界が固定された。

 固定されるというのが、今のユウリにとってどれほど救いか。


 固定されない世界は、病室の白に似ている。

 白い天井。

 白いシーツ。

 白い壁。


 何も変わらないのに、確実に終わりへ向かう場所。

 終わりの速度だけが、誰にも見えないまま進む場所。


 ユウリは息を吸って吐いた。

 潮の匂い。

 港の匂い。

 生きている匂い。


 それで、白い天井を遠ざける。


 リアが足を止めたのは、海を見下ろす小さな段丘だった。崖と呼ぶほど高くない。だが、町の喧騒が届かず、風が抜け、視界が開けている。海面のきらめきが、光の帯になって揺れている。


 リアはそこで、地面にしゃがみこんだ。


 そしてまた、指で□を描いた。


 今度はさっきより少し丁寧に、角を揃えて。

 □の中に、もう一つ小さな□を描く。

 窓の形。

 枠の形。


 ユウリはその動作を見て、なぜか胸の奥がすっと落ち着いた。

 理由は分からないのに、分かってしまう。


 これは「ここを基点にする」形だ。


 リアは声を出さず、口だけ動かした。

 ――「ここ」。


 ユウリは頷き、段丘の端から少し離れた石の上に腰を下ろした。風が頬を撫で、髪を揺らす。目を閉じると、海の音が「今」を揺らす。揺れは怖くない。むしろ、揺れは生きている証拠だ。


 リアも向かいに座った。距離は近すぎない。遠すぎない。逃げるための距離であり、支えるための距離だ。


 ユウリが口を開きかけたとき――喉がひりついた。

 言葉が生まれる前に、身体が警告する。


 リアはその反応を見て、すぐに言った。


「言葉、少しずつ。……大きい言葉は、あと」


 大きい言葉。

 ありがとう。

 病。

 死。

 前世。


 ユウリは息を吸って吐き、短く問う。


「……何が、危ない」


 言った瞬間、焦げの匂いが鼻の奥で小さく疼いた。

 “危ない”という言葉が、危ないのかもしれない。

 矛盾の中で、ユウリは必死に息を整える。


 リアはユウリの視線を受け止め、少しだけ間を置いてから言った。


「危ないのは、言葉じゃない。……言葉に“形”ができること」


 形。

 ユウリの胸がざわついた。


 リアは続ける。


「強い言葉は、強い形を作る。……形が強いと、匂いが寄る」


 匂い。

 焦げの匂い。

 紙が燃える匂い。


 ユウリは唾を飲み込み、喉のひりつきを押さえた。


「……寄ると、どうなる」


 リアは、ほんの少しだけ視線を落とした。

 迷いではない。

 言葉を選んでいる。


「削られる」


 短い。

 それだけで、ユウリの背中が冷えた。


 削られる――何が?

 言葉が?

 記憶が?

 存在が?


 問いたいのに、問うほど喉がひりつく。

 焦げが濃くなる。

 リアの言う「匂いが寄る」が、今まさに起きている気がする。


 リアは、その危うさを察したように、別の手順に切り替えた。


 リアは地面の小石を拾い、□の中に置いた。

 次に、□の外側にもう一つ置いた。

 内側の石と外側の石。


 そして指で、内側を叩いてから外側を叩く。


 ――「内」。

 ――「外」。


 声を出さずに、概念だけを示す。


 ユウリは理解した。


 内側――自分の中。

 外側――言葉として出す世界。


 リアは内側の石を指で押さえ、外側の石へ指を滑らせる仕草をした。

 内側から外側へ出る。

 言葉になる。

 形になる。


 その途中で、リアは指を止め、外側の石を指でなぞった。


 なぞる動作は、削る動作に似ている。


 ユウリの喉がひりついた。

 リアが言おうとしていることが、骨まで冷たくする。


 言葉にした瞬間、削られる。

 削られて――消える。


 ユウリは呼吸を整え、短く言った。


「……だから、言葉は少なく」


 リアは頷いた。


「うん。……今はね」


 今は。

 その言い方に、ユウリの胸が少し救われた。


 今は、ということは。

 いつかは、ということだ。


 ユウリは思った。

 いつか、ありがとうを言える日があるのか。

 言っても削られない形にできる日があるのか。


 その問いを口にしそうになって、喉がひりついた。

 ユウリは息を吸って吐き、問いを胸の中に戻した。


 リアはふと、ユウリの手元の木箱――薬屋の品を見た。


「それ、塩」


 ユウリは頷き、木箱の蓋を少し開けて見せた。粗塩の袋。


 リアは小さく頷き、言った。


「塩は、匂いの輪郭を崩す。……香油も、同じ。混ぜると、焦げが薄くなる」


 院長の依頼は偶然ではないのかもしれない。

 あるいは、院長は何かを嗅いでいる。

 孤児院の「正しさの檻」の中にも、現場の匂いがある。


 ユウリは言葉にできず、ただ頷いた。


 リアはもう一度□を描き、今度はその右上に小さく点を一つ置いた。


 ユウリはそれを見て、ふいに思った。

 星のようだ。

 窓の光の端に残る、星のような点。


 リアはその点を指で軽く叩いた。


 ――「目印」。


 ユウリは胸の中で納得した。

 基点に目印を置く。

 戻るために。

 迷子にならないために。


 迷子――こっちだよ。


 さっきの言葉が、再び胸の奥で熱を持った。

 熱は危険だ。

 だが、熱は灯だ。


 ユウリは息を吸って吐いた。

 灯を消さないまま、燃えないように抱える。


 しばらく、海の音だけが二人の間に流れた。

 沈黙が怖くない。

 沈黙は死に近いと思っていたのに、沈黙が生を支えることがある。


 そして、その沈黙の底で――ユウリの前世が、じわりと輪郭を持ち始めた。


 白い天井。

 窓の外の春。

 桜の枝が、風で揺れている。

 遠くの校庭から笑い声。

 自分はベッドの上で、それを「聞いているだけ」。


 健康なら普通にやれたはずの青春。

 当たり前にできたはずのこと。


 「教室」へ行って、席に座って、くだらない冗談に笑って、放課後に寄り道して、誰かを好きになって――その「当たり前」が、ずっと遠かった。


 ユウリの喉がひりつく。

 息が浅くなる。


 リアがすぐに、指で|を描いた。

 呼吸。

 今。

 ここ。


 ユウリは深く吸い、吐いた。

 海の匂いに戻る。

 現実の匂いに戻る。


 すると、前世の記憶が「痛み」だけではなく「意味」も運んできた。


 死ぬ直前に、ユウリは考えていた。

 やり残したこと。

 健康なら普通にできたはずの人生を歩みたかった。

 青春をやりたかった。

 恋をしたかった。

 友達と馬鹿をしたかった。

 自分の足で、知らない場所へ行きたかった。


 それらが、ただの願望ではなく――「後悔」だった。

 後悔は、胸の奥に針として残る。

 針は、抜かないと生き続ける限り痛む。


 ユウリはその痛みを、ようやく言葉にできる範囲まで小さくして言った。


「……俺、前に……病気だった」


 リアが頷く。

 驚かない。

 当然のように受け取る。


「うん」


 ユウリは息を吸って吐き、続ける。


「……死んだ」


 言った瞬間、喉が焼けた。

 焦げの匂いが鼻の奥で濃くなる。


 リアが、すぐに塩の袋を指差した。

 ユウリは手が震えながらも袋を開け、指先に塩を少し取った。


 リアが地面の□の外側に、塩をぱらりと落とす。

 白い粒が、風に散り、匂いの輪郭が少しだけ崩れる気がした。

 焦げが薄れる。

 喉の焼けが、ほんの少し引く。


 リアは静かに言った。


「言い切らないで。……段を守って」


 段。

 言葉の段階。

 形の強さを調整する。


 ユウリは頷き、言葉を止めた。


 止めた瞬間、胸の奥に「言い切りたい」衝動が暴れた。

 語りたい。

 吐き出したい。

 理解されたい。


 それが危険だということが、ユウリにはもう分かる。

 言い切りは固定。固定は刃。刃は燃える。


 だから、止める。


 リアは、代わりに問うた。短く。


「やり残し、ある?」


 ユウリの胸が跳ねた。

 やり残し。

 言葉にしたら重い。

 重い言葉は形が強い。

 形が強いと匂いが寄る。


 でも――ここが始まりだ。

 ここで言えないなら、旅が始まらない。


 ユウリは息を吸って吐き、できる限り小さく区切って言った。


「……ある。たくさん」


 リアは頷く。


「一つずつ」


 一つずつ。

 リアの言葉は、刃ではなく手順だ。

 手順は燃えない。

 燃えにくい。


 ユウリは、胸の中に浮かぶやり残しを「項目」に分解した。

 健康で走りたい。

 友達と笑いたい。

 恋をしたい。

 旅をしたい。

 未来を選びたい。


 それらを言葉にしそうになって、喉がひりつく。

 焦げが疼く。


 ユウリは一番小さく言えるものを選んだ。


「……走りたい」


 リアの瞳が、ほんの僅かに柔らかくなった。


「走れるよ」


 ユウリは息を吸って吐いた。

 走れる。

 その当たり前が、涙になる。


 だが涙は危険だ。情が漏れる。言葉が漏れる。


 ユウリは涙を堪え、代わりに拳を握った。

 握りしめることで、現実を掴む。


 リアは続けた。


「ここでは、走れる。……でも、走り方を知らないと、死ぬ」


 死ぬ。

 その言葉が、ユウリの胸を突いた。


 走れる体がある。

 走れる体があるのに、走り方を間違えれば死ぬ。

 前世と逆だ。前世は走り方以前に走れなかった。

 今は走れるのに、別の危険がある。


 リアは言った。


「今日、あなたの記憶が戻った。……戻ると、匂いが寄る」


 ユウリは頷く。

 焦げの匂い。

 紙とインクの匂い。


 リアは続けた。


「匂いが寄ると、言葉を狙う。……言わせる」


 言わせる。

 昨夜の第4話、第6話へ繋がる言葉。

 それがここで初めて、ユウリの胸に「敵の形」を作った。


「……誰が」


 ユウリの問いは、かすれた。

 言葉が多いほど危険だと身体が知っている。


 リアは首を振る。

 断言しない。

 固定しない。


「今は、名前を持たない方がいい。……名前を持つと、呼べるから」


 呼べる。

 呼べると、寄る。

 寄ると、削る。


 ユウリの喉がひりついた。

 名前を持たない敵。

 それは恐ろしく、そして合理的だった。


 リアは、ふっと海の方を見る。

 その横顔が、少しだけ寂しそうに見えた。


「私も、昔……呼んだ」


 短い告白。

 その一言だけで、リアにも「やり残し」があると分かる。

 そして、そのやり残しが、今のリアの沈黙と手順を作っている。


 ユウリはそれ以上聞けなかった。聞けば喉が焼ける。

 だから、聞かない。

 今は、聞かない。

 いつか、聞ける形にする。


 リアが立ち上がった。


「戻る。……あなたは仕事がある」


 仕事。

 孤児院へ。

 戻りたくない。

 だが今は戻るしかない。戻らないと、院長の疑いが増える。疑いは言葉を増やす。言葉が増えると危険が増す。


 ユウリは頷き、立ち上がった。

 薬箱の重みが現実を掴ませる。


 歩き始めたとき、リアがふいに言った。


「今夜、また来て」


 ユウリの胸が跳ねた。


「……ここに?」


 リアは首を振る。


「違う。……光がある場所」


 光。

 窓の光。

 白い帯。

 基点になる光。


 ユウリは頷いた。

 今日のこの出会いが偶然ではないなら、リアの言う光の場所も、偶然ではない。


「……分かった」


 言った瞬間、喉がひりつく。

 焦げが小さく疼く。

 ユウリは息を吸って吐いて、痛みを飲み込む。


 市場へ戻る道すがら、ユウリは何度も振り返りそうになった。

 リアが後ろにいるのか確認したかった。

 いないと怖い。

 自分がまた病室へ落ちる気がした。


 けれど、リアは言った。

 言葉はあと。

 今は出る。


 ユウリは振り返らずに歩いた。

 歩くことが、現実を繋ぐ。


 孤児院へ戻ると、院長は特に何も言わなかった。薬と塩と香油を受け取り、ユウリを台所へ追いやる。いつもの段取り。いつもの正しさの檻。


 それでもユウリの内側は、もういつもではなかった。


 薪を割りながら、前世の白い天井が視界の端にちらつく。

 水を汲みながら、機械音が耳の奥で鳴る。

 子どもの声を聞きながら、「当たり前にできたはずの青春」が胸を刺す。


 そして刺すたび、焦げの匂いが疼く。


 ユウリは気づいた。

 記憶が戻ったのは「終わり」ではない。

 これは始まりだ。

 後悔をやり直す旅の始まり。


 夕方、仕事が終わり、孤児院の食堂に薄い粥が並んだ。

 子どもたちがすする音。

 スプーンの音。

 誰かが笑い、誰かが泣く。


 ユウリは粥を口に運びながら、今日の「焦げ」を思い出した。


 焦げは敵の匂いだ。

 焦げは、言葉の刃だ。


 そして――リアは言った。

 今夜、光のある場所へ。


 夜が来る。

 夜は言葉が刺さる。

 夜は輪郭が浮く。

 夜は、寄る。


 ユウリは粥を飲み下し、喉のひりつきを確かめた。

 言葉を増やしたくない。

 でも、言葉を増やさなければ進めない。


 矛盾の中で、ユウリは胸の奥で誓った。


 (走る)

 (友と笑う)

 (恋をする)

 (旅をする)

 (未来を選ぶ)


 そして――最後に、もっと大きな誓いを、言葉にせず抱えた。


 (ありがとうを、言える形にする)


 夜、孤児院を抜け出すと、港町の空気が冷たかった。潮の匂いが鋭く、灯りが点々と浮く。昼の喧騒が嘘のように静かで、足音が目立つ。


 ユウリは息を吸って吐き、影の濃い道を避け、光のある方へ向かった。

 リアが言った光の場所。


 ギルド――窓際の席。

 そこで何が待っているのか、ユウリにはまだ分からない。

 だが一つだけ分かる。


 今夜から、世界のルールが変わる。

 言葉が危険になる。

 息が盾になる。

 そして、誰かが「言わせる」と囁いてくる。


 ユウリは喉の奥で暴れる“礼”の核を、まだ言葉にしないまま、暗い道を歩いた。


 迷子?

 こっちだよ。


 救いの言葉が、刃にならないように。

 その言葉を未来へ持っていくために。


[つづく]

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