第1話|迷子?ーーこっちだよ
十六歳になった朝は、海の匂いがいつもより鋭かった。
潮が乾く前の冷たい塩気と、魚の血の生温さ、濡れた木箱に染みついた油の匂い。港町に生まれた者なら慣れっこだ。けれどユウリは、その匂いの層が今日はやけに分厚く感じた。胸の奥に、見えない膜が一枚増えたような感覚――そこに息を吸い込むたび、何かが引っかかる。
朝はいつも、同じだった。
古い孤児院の廊下は板が軋み、炊事場からは薄い粥の匂いが漂い、年下の子どもたちは眠たい目で水桶を運び、年上の子は腹の底で不満を煮やしながら仕事をこなす。誰かが咳をし、誰かが泣き、誰かが叱られる。そのどれもが日常で、日常は疑うものではなかった。
……今日までは。
「ユウリ、誕生日だろ。浮かれてんじゃねぇぞ」
背中に投げられた声は、孤児院で最年長のバルドのものだった。十七歳。腕力で序列を保っているタイプの少年で、悪い奴ではないが優しくもない。優しさはこの場所では贅沢品だ。
「浮かれてない」
ユウリは短く返し、薪の束を肩に担ぎ直した。自分の声が、自分の耳に少し違って聞こえる。乾いているのに、喉の奥がひりつく。空気の冷たさのせいだろうか――そう思って、深く吸い込む。
潮の匂いの奥に、ほんのわずかな焦げが混ざった気がした。
瞬間、胸が跳ねた。
焦げ? 朝の台所で何か焦がしたのか。
いや、そういう匂いじゃない。もっと……紙とインクが焼けたような、薄くて嫌な匂い。
ユウリは眉を寄せたが、足を止めなかった。ここで立ち止まれば、バルドの小言が増える。小言が増えれば、仕事が遅れる。遅れれば、院長の機嫌が悪くなる。孤児院の朝は、段取りを崩すと詰む。
だから、進む。
薪を置き、井戸水を汲み、裏庭の雑草を抜き、洗濯桶を運び――やがて午前の仕事が一段落した頃、院長マルタが呼びつけた。
「ユウリ。市場の薬屋へ行け。干し草の粉と、塩、それから――香油を少し」
香油。
その単語に、ユウリの胸が小さくざわついた。
孤児院に香油なんて似合わない。誰かが怪我をして消毒に使うのか、院長が来客でも迎えるのか。理由を聞きたかったが、ここで質問は余計な波風だ。孤児に許されるのは従順さだけだと、ユウリは長い間学んできた。
「はい」
返事だけして、木箱を抱える。
「道草を食うな。今日は港が騒がしい。荷を失くした者がいるらしい」
院長はそう言い、最後に付け足すように言った。
「……変な噂もある。『言葉が勝手に燃える』だの、『呼んでもない声が聞こえる』だの。お前は余計なものに近づくな」
言葉が燃える。
ユウリの喉が、またひりついた。
「分かりました」
言いながら、胸の内側でだけ反芻する。
言葉が燃える。
そんな馬鹿な――と笑い飛ばせるほど、ユウリは子どもではなかった。孤児院で生きていると、世の中には「説明のつかないこと」が確かにあると嫌でも知る。説明がつかないからこそ、触らないのが賢い。
だが――今日の焦げの匂いは、説明のつかない側の匂いだった。
ユウリは孤児院を出て、市場へ向かった。昼前の港町は活気がある。魚を担いだ男たちが怒鳴り、女たちは値段を交渉し、子どもたちは走り回り、荷車が石畳を叩く音が響く。喧騒は嫌いではなかった。喧騒は、自分が目立たなくなるからだ。
孤児は目立つと損をする。
目立つと使われる。
目立つと奪われる。
目立つと、殴られる。
だからユウリは人の流れの縁を歩き、肩をすぼめ、視線を上げすぎずに進む。木箱の重みが、現実の重みになる。現実に重みがあると、心は浮つかない。浮つかなければ、余計なことを考えずに済む。
……そのはずだった。
薬屋で干し草の粉と塩を受け取り、香油を小瓶に詰めてもらって外へ出たとき、潮の匂いが急に途切れた。
匂いが途切れる、というのはおかしい。海はそこにあるし、風も吹いている。なのに鼻の奥が真空になったように、何も感じない瞬間があった。
次の瞬間――焦げた匂いが、はっきりと鼻を刺した。
紙とインクが燃える匂い。
それが市場の雑多な匂いの中で、妙に鮮明だった。
ユウリは立ち尽くしそうになり、慌てて足を動かした。周囲の人間は普通に歩いている。誰も匂いに気づいていない。気づいていないのに、自分だけが刺されている。
(なんだ、これ)
恐怖ではない。嫌悪でもない。
もっと別の――「思い出せ」と背中を押されるような、奇妙な引力。
焦げの匂いは、路地へ向かう風に乗っていた。ユウリは追うつもりはなかった。だが、足は自然に匂いの方向へ向いた。自分の意志とは別のところで、身体が「行け」と言っている。
路地は細く、昼の光が届きにくい。壁の影が濃く、空気が冷たい。市場の喧騒が一気に遠ざかり、足音が目立つ。孤児が入りたがらない種類の場所だ。
……なのに、ユウリは入ってしまった。
焦げの匂いが濃くなる。
鼻の奥が痛い。
喉がひりつく。
そして、胸の奥に、別の匂いが混ざった。
消毒液。
冷たい金属。
白い布。
その匂いは、ここにあるはずがない。ここは港町の路地だ。薬屋から出てきたばかりとはいえ、消毒の匂いがこんなに鮮明に蘇るはずがない。
(……何だ?)
ユウリは薬箱を抱え直し、息を吸って吐いた。吐いた息が、ひどく浅い。浅い息は、胸を締め付ける。胸が締め付けられると、過去が近づく。過去が近づくと、言葉が喉に詰まる。
言葉が詰まると――焦げの匂いが濃くなる。
路地を曲がった先で、ユウリは完全に迷った。
見覚えがあるようでない。
同じような壁、同じような扉、同じような影。
出入口がどちらだったか分からない。
港町で迷子なんて、滅多にない。ユウリはこの町で育った。迷いようがない……はずだった。なのに、路地がわずかに歪んで見える。曲がった角が、記憶より少しだけ深い。扉の位置が、わずかに違う。
そして、焦げの匂いが「中心」に居座っている。
(戻れない……?)
喉がひりつき、唾が飲み込めない。
視界の端が白く滲む。
白――白い天井。
突然、頭の中で音が鳴った。
――ピッ、ピッ、ピッ。
機械音。規則正しい電子音。
胸が痛い。肺が痛い。息が吸えない。
冷たいシーツ。白い布。消毒液。
(何だよ……!)
ユウリは壁に手をつき、必死に呼吸しようとした。だが呼吸は浅いまま。浅い呼吸が、さらに記憶を引き出す。引き出された記憶が、さらに呼吸を浅くする。
悪循環。
そこへ、声が落ちた。
「迷子?」
ユウリは顔を上げた。
路地の奥に、少女がいた。
白い外套に淡い青の差し色、金縁の飾り。胸元には青い宝石がきらりと光り、コルセット風の編み上げが細い胴を締めている。指ぬきのグローブ、太いベルトとポーチ、白いロングブーツ。上品で、戦うために整えられた服。
そして――腰下まで流れる銀白のストレートヘア。毛先が微かに広がり、青いリボンと小さな髪飾りが揺れていた。青緑の大きな瞳が、薄い影の中でもはっきりとこちらを射抜く。頬に淡い赤み。儚く切ない表情なのに、折れない芯がある。
ユウリは言葉を失った。
美しさにではない。
胸の奥が、彼女の存在に「反応」した。
焦げの匂いが、ふっと弱くなる。
代わりに、潮の匂いが戻ってくる。
路地の冷たさが、現実の冷たさに変わる。
少女は片膝をつき、前傾した。
そして左手を、ユウリへ差し伸べた。
救いの形。
懇願の形。
決意の形。
ユウリは、その手を見た瞬間、喉の奥で何かがほどけた。
ほどけたものは、言葉ではない。
言葉になる前の――魂の糸。
少女は、もう一度言った。
今度は少しだけ柔らかい声で。
「迷子?――こっちだよ」
その一言が、ユウリの中で「鍵」を回した。
焦げた匂いが爆ぜ、白い光が脳内に溢れ、耳の奥で機械音が鳴り、冷たいシーツの感触が肌に貼り付く。視界がぐらりと揺れ、路地が病室に変わり、病室が路地に戻り、ユウリはその狭間に落ちた。
――十六歳。
――自分と同じ年齢。
――命を落とした年齢。
「戻った」のだと、ユウリは理解した。
何が、とは言えない。
言えば燃える気がした。
だが、理解は言葉ではなく痛みで来た。
喉が焼ける。
胸が締め付けられる。
目の奥が熱くなる。
病室の匂い。消毒の匂い。
白い天井。白い布。
窓の外の春。
笑い声。遠い校庭。
自分はそこで、見ているだけだった。
健康なら普通にやれたはずの青春。
当たり前にできたはずの恋。
当たり前にできたはずの未来。
その全てを、奪われたまま終わった。
そして最後の瞬間、誰かが自分の手を握っていた。
――誰だ?
名前が出ない。顔が出ない。
けれど温度だけが鮮明だ。
握り返したかった。
ありがとうと言いたかった。
(……ありがとう)
喉が焼けて、息が詰まった。
言葉にしたら、ここで何かが壊れる。
根拠はないのに、身体がそう言っている。
だからユウリは口を閉じ、ただ少女の手を見つめた。
少女――リアは、差し伸べた手を下げない。
焦らない。急かさない。
まるでユウリの内側で何が起きたかを、最初から知っているみたいに。
ユウリは震える指で、彼女の手を取った。
その瞬間、冷たさが消えた。
路地の影が薄くなり、潮の匂いが戻り、世界の輪郭が現実に固定される。
リアは立ち上がり、ユウリを引き起こした。
その動きには迷いがない。
引っ張るのではなく、支える。
ユウリは息を吸い、吐いた。
深く吸えた。吐き切れた。
肺が痛くない。胸が苦しくない。
それが奇跡みたいで、涙が出そうになった。
だが涙を出したら、言葉が漏れる。
言葉が漏れたら、焦げが戻る。
焦げが戻ったら、また落ちる。
だからユウリは、ただ頷いた。
「……ありがとう」
言いかけて、口を噛んだ。
喉がひりついた。
焦げの匂いが、鼻の奥で小さく疼く。
リアの瞳が、ほんの僅かに揺れた。
揺れは拒絶ではない。
むしろ――「今は言わない方がいい」と言っている揺れ。
リアは短く言った。
「言葉はあと。今は、出る」
ユウリは黙って頷いた。
言葉はあと。
今は、出る。
リアはユウリの袖を掴み、路地を進んだ。来た道と違う。曲がり角の数も違う。なのに、迷わない。迷いそうになると、リアは一瞬だけ振り返り、目で「こっち」と示す。
その「こっち」が、不思議と刺さらない。
さっきの「こっちだよ」は、鍵だった。
今の「こっち」は、道しるべだ。
路地を抜けた瞬間、港町の喧騒が戻った。
魚の匂い。汗の匂い。パンの甘い匂い。
生活の匂いが、ユウリの肺に入ってくる。
ユウリは深く息を吸い、吐いた。
世界が現実に戻った。
そして同時に――自分の中に、現実ではないものが戻った。
前世。
病室。
奪われた青春。
やり残し。
その全てが、胸の中でうずく。
リアは人混みの縁を歩き、ユウリを連れて市場の外側へ回った。目立たないように。誰にも見られないように。孤児が目立つと損をすることを、彼女は知っているみたいだった。
ユウリは思わず、彼女の横顔を見た。
銀白の髪。青いリボン。
青緑の瞳。儚い表情。
でも、歩き方は強い。
(この子は……誰だ)
問いたい。
けれど言葉はあと。
今は、出る。
リアは市場の端の小さな水路の前で立ち止まり、ユウリに向き直った。
そして、左手をもう一度差し伸べるのではなく――今度は指で、小さく四角を描いた。
□
それが何の形か、ユウリには分からない。
ただ、なぜか胸が落ち着く。
リアが言った。
「ここで、息。……落ち着くまで」
ユウリは頷き、壁にもたれ、息を整えた。
焦げの匂いは薄い。
けれど完全には消えていない。
薄い焦げが、今の自分の“危険”だと身体が理解している。
リアは続けた。
「あなた、今日……戻った」
ユウリの喉がひりついた。
その言い方は、確信だ。
「……何が」
声が震える。
言葉にした瞬間、焦げが少し濃くなる。
ユウリはすぐに口を閉じ、息を吸って吐いた。
リアはユウリの反応を見て、わずかに目を細めた。
「今は、長い話をしない。……危ない」
危ない。
何が?
言葉が?
自分が?
それとも――この世界が?
問いたい。
でも、喉がひりつく。
焦げが疼く。
ユウリはただ頷いた。
リアは一歩近づき、ユウリの襟元を整えた。
たったそれだけの行為なのに、呼吸が深くなる。
現実が固定される。
病室の白が遠ざかる。
リアは言った。
「名前」
ユウリは一瞬迷い、短く答えた。
「ユウリ」
名を言った瞬間、焦げが小さく疼いた。
名前は固定する。固定は引力になる。
リアの目が「今はそれ以上言うな」と言っている。
リアは短く頷いた。
「私は、リア」
名を告げる声は静かで、揺れない。
その名はなぜか、ユウリの胸の奥にすっと落ちた。
落ちて、残る。
残って、温度になる。
ユウリは息を吸い、吐いた。
そして、ようやく一つだけ言った。
「……助けてくれた」
礼ではない。
事実の提示。
固定しすぎない言い方。
リアは首を振った。
「助けたんじゃない。……見つけた」
見つけた。
その言葉が、ユウリの背中を冷やした。
見つけた――まるで、探していたみたいに。
まるで、今日のこの瞬間を知っていたみたいに。
ユウリの喉がひりつく。
焦げの匂いが、ほんの少し濃くなる。
リアはすぐに言った。
「歩く。人が多いと、匂いが散る」
匂い。
リアは焦げの匂いを知っている。
言葉が危ないことを知っている。
そして、ユウリの中で起きた“戻り”を知っている。
ユウリは頷いた。
今は、歩く。
今は、息。
今は、言葉は少なく。
リアはユウリを連れ、港の外れへ向かって歩き出した。
人混みの縁を、影の薄い方へ。
光が当たる方へ。
その背中を見ながら、ユウリは胸の奥でだけ、はっきり理解した。
自分は今日、人生が始まった。
遅すぎるほど遅れて、ようやく始まった。
そしてこの始まりには、条件がある。
言葉を増やすな。
息を失うな。
焦げを呼ぶな。
――ありがとうは、今は言うな。
その理解が、痛かった。
言いたいのに言えない。
言うべきなのに言えない。
前世と同じだ。
前世も、言えなかった。
けれど今度は違う。
言えない理由が、愛や臆病さだけじゃない。
言えない理由が、世界の危険と繋がっている。
だからこそ、ユウリは誓った。
胸の奥でだけ。声にはしない。
(いつか、言う)
(言える形にして、言う)
(奪われない言い方で、言う)
リアが一度だけ振り返り、目で「こっち」と示した。
ユウリは頷き、歩幅を合わせた。
迷子?
こっちだよ。
その言葉が、自分の中でまだ熱を持っている。
熱は危険だ。
でも、熱は生きる灯だ。
ユウリは息を吸い、吐き、灯を消さないまま、燃えないように抱えて歩いた。
港の外れへ向かう道は、潮風の通り道だった。
市場の喧騒が背中に薄れていくほど、風の音がはっきり聞こえる。帆綱が擦れる音、遠くで波が砕ける音、木箱を積み直す音。人の声が減ると、世界は「匂い」と「音」と「光」でできていることが露わになる。
リアはその三つを、意図的に選び取って歩いていた。影の濃い道を避け、光の当たる側を歩き、風が抜ける場所を通る。人の密度が低い方へ進む。人の密度が低いと、匂いが散りやすい――リアの言葉通りだ。
ユウリは歩きながら、自分の手に残る温度を確かめていた。
さっき、手を取った。
それだけで、世界が固定された。
固定されるというのが、今のユウリにとってどれほど救いか。
固定されない世界は、病室の白に似ている。
白い天井。
白いシーツ。
白い壁。
何も変わらないのに、確実に終わりへ向かう場所。
終わりの速度だけが、誰にも見えないまま進む場所。
ユウリは息を吸って吐いた。
潮の匂い。
港の匂い。
生きている匂い。
それで、白い天井を遠ざける。
リアが足を止めたのは、海を見下ろす小さな段丘だった。崖と呼ぶほど高くない。だが、町の喧騒が届かず、風が抜け、視界が開けている。海面のきらめきが、光の帯になって揺れている。
リアはそこで、地面にしゃがみこんだ。
そしてまた、指で□を描いた。
今度はさっきより少し丁寧に、角を揃えて。
□の中に、もう一つ小さな□を描く。
窓の形。
枠の形。
ユウリはその動作を見て、なぜか胸の奥がすっと落ち着いた。
理由は分からないのに、分かってしまう。
これは「ここを基点にする」形だ。
リアは声を出さず、口だけ動かした。
――「ここ」。
ユウリは頷き、段丘の端から少し離れた石の上に腰を下ろした。風が頬を撫で、髪を揺らす。目を閉じると、海の音が「今」を揺らす。揺れは怖くない。むしろ、揺れは生きている証拠だ。
リアも向かいに座った。距離は近すぎない。遠すぎない。逃げるための距離であり、支えるための距離だ。
ユウリが口を開きかけたとき――喉がひりついた。
言葉が生まれる前に、身体が警告する。
リアはその反応を見て、すぐに言った。
「言葉、少しずつ。……大きい言葉は、あと」
大きい言葉。
ありがとう。
病。
死。
前世。
ユウリは息を吸って吐き、短く問う。
「……何が、危ない」
言った瞬間、焦げの匂いが鼻の奥で小さく疼いた。
“危ない”という言葉が、危ないのかもしれない。
矛盾の中で、ユウリは必死に息を整える。
リアはユウリの視線を受け止め、少しだけ間を置いてから言った。
「危ないのは、言葉じゃない。……言葉に“形”ができること」
形。
ユウリの胸がざわついた。
リアは続ける。
「強い言葉は、強い形を作る。……形が強いと、匂いが寄る」
匂い。
焦げの匂い。
紙が燃える匂い。
ユウリは唾を飲み込み、喉のひりつきを押さえた。
「……寄ると、どうなる」
リアは、ほんの少しだけ視線を落とした。
迷いではない。
言葉を選んでいる。
「削られる」
短い。
それだけで、ユウリの背中が冷えた。
削られる――何が?
言葉が?
記憶が?
存在が?
問いたいのに、問うほど喉がひりつく。
焦げが濃くなる。
リアの言う「匂いが寄る」が、今まさに起きている気がする。
リアは、その危うさを察したように、別の手順に切り替えた。
リアは地面の小石を拾い、□の中に置いた。
次に、□の外側にもう一つ置いた。
内側の石と外側の石。
そして指で、内側を叩いてから外側を叩く。
――「内」。
――「外」。
声を出さずに、概念だけを示す。
ユウリは理解した。
内側――自分の中。
外側――言葉として出す世界。
リアは内側の石を指で押さえ、外側の石へ指を滑らせる仕草をした。
内側から外側へ出る。
言葉になる。
形になる。
その途中で、リアは指を止め、外側の石を指でなぞった。
なぞる動作は、削る動作に似ている。
ユウリの喉がひりついた。
リアが言おうとしていることが、骨まで冷たくする。
言葉にした瞬間、削られる。
削られて――消える。
ユウリは呼吸を整え、短く言った。
「……だから、言葉は少なく」
リアは頷いた。
「うん。……今はね」
今は。
その言い方に、ユウリの胸が少し救われた。
今は、ということは。
いつかは、ということだ。
ユウリは思った。
いつか、ありがとうを言える日があるのか。
言っても削られない形にできる日があるのか。
その問いを口にしそうになって、喉がひりついた。
ユウリは息を吸って吐き、問いを胸の中に戻した。
リアはふと、ユウリの手元の木箱――薬屋の品を見た。
「それ、塩」
ユウリは頷き、木箱の蓋を少し開けて見せた。粗塩の袋。
リアは小さく頷き、言った。
「塩は、匂いの輪郭を崩す。……香油も、同じ。混ぜると、焦げが薄くなる」
院長の依頼は偶然ではないのかもしれない。
あるいは、院長は何かを嗅いでいる。
孤児院の「正しさの檻」の中にも、現場の匂いがある。
ユウリは言葉にできず、ただ頷いた。
リアはもう一度□を描き、今度はその右上に小さく点を一つ置いた。
ユウリはそれを見て、ふいに思った。
星のようだ。
窓の光の端に残る、星のような点。
リアはその点を指で軽く叩いた。
――「目印」。
ユウリは胸の中で納得した。
基点に目印を置く。
戻るために。
迷子にならないために。
迷子――こっちだよ。
さっきの言葉が、再び胸の奥で熱を持った。
熱は危険だ。
だが、熱は灯だ。
ユウリは息を吸って吐いた。
灯を消さないまま、燃えないように抱える。
しばらく、海の音だけが二人の間に流れた。
沈黙が怖くない。
沈黙は死に近いと思っていたのに、沈黙が生を支えることがある。
そして、その沈黙の底で――ユウリの前世が、じわりと輪郭を持ち始めた。
白い天井。
窓の外の春。
桜の枝が、風で揺れている。
遠くの校庭から笑い声。
自分はベッドの上で、それを「聞いているだけ」。
健康なら普通にやれたはずの青春。
当たり前にできたはずのこと。
「教室」へ行って、席に座って、くだらない冗談に笑って、放課後に寄り道して、誰かを好きになって――その「当たり前」が、ずっと遠かった。
ユウリの喉がひりつく。
息が浅くなる。
リアがすぐに、指で|を描いた。
呼吸。
今。
ここ。
ユウリは深く吸い、吐いた。
海の匂いに戻る。
現実の匂いに戻る。
すると、前世の記憶が「痛み」だけではなく「意味」も運んできた。
死ぬ直前に、ユウリは考えていた。
やり残したこと。
健康なら普通にできたはずの人生を歩みたかった。
青春をやりたかった。
恋をしたかった。
友達と馬鹿をしたかった。
自分の足で、知らない場所へ行きたかった。
それらが、ただの願望ではなく――「後悔」だった。
後悔は、胸の奥に針として残る。
針は、抜かないと生き続ける限り痛む。
ユウリはその痛みを、ようやく言葉にできる範囲まで小さくして言った。
「……俺、前に……病気だった」
リアが頷く。
驚かない。
当然のように受け取る。
「うん」
ユウリは息を吸って吐き、続ける。
「……死んだ」
言った瞬間、喉が焼けた。
焦げの匂いが鼻の奥で濃くなる。
リアが、すぐに塩の袋を指差した。
ユウリは手が震えながらも袋を開け、指先に塩を少し取った。
リアが地面の□の外側に、塩をぱらりと落とす。
白い粒が、風に散り、匂いの輪郭が少しだけ崩れる気がした。
焦げが薄れる。
喉の焼けが、ほんの少し引く。
リアは静かに言った。
「言い切らないで。……段を守って」
段。
言葉の段階。
形の強さを調整する。
ユウリは頷き、言葉を止めた。
止めた瞬間、胸の奥に「言い切りたい」衝動が暴れた。
語りたい。
吐き出したい。
理解されたい。
それが危険だということが、ユウリにはもう分かる。
言い切りは固定。固定は刃。刃は燃える。
だから、止める。
リアは、代わりに問うた。短く。
「やり残し、ある?」
ユウリの胸が跳ねた。
やり残し。
言葉にしたら重い。
重い言葉は形が強い。
形が強いと匂いが寄る。
でも――ここが始まりだ。
ここで言えないなら、旅が始まらない。
ユウリは息を吸って吐き、できる限り小さく区切って言った。
「……ある。たくさん」
リアは頷く。
「一つずつ」
一つずつ。
リアの言葉は、刃ではなく手順だ。
手順は燃えない。
燃えにくい。
ユウリは、胸の中に浮かぶやり残しを「項目」に分解した。
健康で走りたい。
友達と笑いたい。
恋をしたい。
旅をしたい。
未来を選びたい。
それらを言葉にしそうになって、喉がひりつく。
焦げが疼く。
ユウリは一番小さく言えるものを選んだ。
「……走りたい」
リアの瞳が、ほんの僅かに柔らかくなった。
「走れるよ」
ユウリは息を吸って吐いた。
走れる。
その当たり前が、涙になる。
だが涙は危険だ。情が漏れる。言葉が漏れる。
ユウリは涙を堪え、代わりに拳を握った。
握りしめることで、現実を掴む。
リアは続けた。
「ここでは、走れる。……でも、走り方を知らないと、死ぬ」
死ぬ。
その言葉が、ユウリの胸を突いた。
走れる体がある。
走れる体があるのに、走り方を間違えれば死ぬ。
前世と逆だ。前世は走り方以前に走れなかった。
今は走れるのに、別の危険がある。
リアは言った。
「今日、あなたの記憶が戻った。……戻ると、匂いが寄る」
ユウリは頷く。
焦げの匂い。
紙とインクの匂い。
リアは続けた。
「匂いが寄ると、言葉を狙う。……言わせる」
言わせる。
昨夜の第4話、第6話へ繋がる言葉。
それがここで初めて、ユウリの胸に「敵の形」を作った。
「……誰が」
ユウリの問いは、かすれた。
言葉が多いほど危険だと身体が知っている。
リアは首を振る。
断言しない。
固定しない。
「今は、名前を持たない方がいい。……名前を持つと、呼べるから」
呼べる。
呼べると、寄る。
寄ると、削る。
ユウリの喉がひりついた。
名前を持たない敵。
それは恐ろしく、そして合理的だった。
リアは、ふっと海の方を見る。
その横顔が、少しだけ寂しそうに見えた。
「私も、昔……呼んだ」
短い告白。
その一言だけで、リアにも「やり残し」があると分かる。
そして、そのやり残しが、今のリアの沈黙と手順を作っている。
ユウリはそれ以上聞けなかった。聞けば喉が焼ける。
だから、聞かない。
今は、聞かない。
いつか、聞ける形にする。
リアが立ち上がった。
「戻る。……あなたは仕事がある」
仕事。
孤児院へ。
戻りたくない。
だが今は戻るしかない。戻らないと、院長の疑いが増える。疑いは言葉を増やす。言葉が増えると危険が増す。
ユウリは頷き、立ち上がった。
薬箱の重みが現実を掴ませる。
歩き始めたとき、リアがふいに言った。
「今夜、また来て」
ユウリの胸が跳ねた。
「……ここに?」
リアは首を振る。
「違う。……光がある場所」
光。
窓の光。
白い帯。
基点になる光。
ユウリは頷いた。
今日のこの出会いが偶然ではないなら、リアの言う光の場所も、偶然ではない。
「……分かった」
言った瞬間、喉がひりつく。
焦げが小さく疼く。
ユウリは息を吸って吐いて、痛みを飲み込む。
市場へ戻る道すがら、ユウリは何度も振り返りそうになった。
リアが後ろにいるのか確認したかった。
いないと怖い。
自分がまた病室へ落ちる気がした。
けれど、リアは言った。
言葉はあと。
今は出る。
ユウリは振り返らずに歩いた。
歩くことが、現実を繋ぐ。
孤児院へ戻ると、院長は特に何も言わなかった。薬と塩と香油を受け取り、ユウリを台所へ追いやる。いつもの段取り。いつもの正しさの檻。
それでもユウリの内側は、もういつもではなかった。
薪を割りながら、前世の白い天井が視界の端にちらつく。
水を汲みながら、機械音が耳の奥で鳴る。
子どもの声を聞きながら、「当たり前にできたはずの青春」が胸を刺す。
そして刺すたび、焦げの匂いが疼く。
ユウリは気づいた。
記憶が戻ったのは「終わり」ではない。
これは始まりだ。
後悔をやり直す旅の始まり。
夕方、仕事が終わり、孤児院の食堂に薄い粥が並んだ。
子どもたちがすする音。
スプーンの音。
誰かが笑い、誰かが泣く。
ユウリは粥を口に運びながら、今日の「焦げ」を思い出した。
焦げは敵の匂いだ。
焦げは、言葉の刃だ。
そして――リアは言った。
今夜、光のある場所へ。
夜が来る。
夜は言葉が刺さる。
夜は輪郭が浮く。
夜は、寄る。
ユウリは粥を飲み下し、喉のひりつきを確かめた。
言葉を増やしたくない。
でも、言葉を増やさなければ進めない。
矛盾の中で、ユウリは胸の奥で誓った。
(走る)
(友と笑う)
(恋をする)
(旅をする)
(未来を選ぶ)
そして――最後に、もっと大きな誓いを、言葉にせず抱えた。
(ありがとうを、言える形にする)
夜、孤児院を抜け出すと、港町の空気が冷たかった。潮の匂いが鋭く、灯りが点々と浮く。昼の喧騒が嘘のように静かで、足音が目立つ。
ユウリは息を吸って吐き、影の濃い道を避け、光のある方へ向かった。
リアが言った光の場所。
ギルド――窓際の席。
そこで何が待っているのか、ユウリにはまだ分からない。
だが一つだけ分かる。
今夜から、世界のルールが変わる。
言葉が危険になる。
息が盾になる。
そして、誰かが「言わせる」と囁いてくる。
ユウリは喉の奥で暴れる“礼”の核を、まだ言葉にしないまま、暗い道を歩いた。
迷子?
こっちだよ。
救いの言葉が、刃にならないように。
その言葉を未来へ持っていくために。
[つづく]




