地図局に来た静かな青年
潮の香りが、紙の端にかすかに残っていた。
マリナは鉛筆の芯を削り、開いた図面を指先でなぞった。港の入り口を示す曲線は、何度描いても納得できない。今日も朝から、波のように線を引いては消していた。
「マリナ、新しい測量士が来たわ」
上司のレオナが声をかけた。淡い金髪をひとまとめにした彼女は、書類を抱えて立っている。
扉の方を見ると、青年が立っていた。潮風に晒されたような灰色の髪、まっすぐな背筋。静かな空気をまとっていた。
「セドリック・ハルトです。今日からお世話になります」
口元は動いたが、声は届かなかった。レオナが軽く手を振り、説明する。
「彼、耳が少し不自由なの。話すより、書いた方が伝わるわ」
セドリックは胸元から小さな手帳を取り出した。
――港の北側の測量を担当します。どうぞよろしく。
丁寧な筆跡だった。
マリナもメモ帳を取り、返す。
――こちらこそ。図面の写しは私がまとめておきます。
その文字を見て、彼は微かに笑った。仕事の挨拶に過ぎないのに、不思議と胸の奥が温かくなった。
午前の作業が始まる。
測量器のレンズ越しに、海がきらめいていた。セドリックの手際は見事だった。言葉を交わさなくても、仕事は驚くほど滑らかに進んだ。
昼休み。窓の外では、潮が引き、船の影が岸に伸びている。
ふと見ると、セドリックが手帳に何かを書いていた。覗き込むと、測量のメモの横に港のスケッチがある。
――潮が引くと、ここの砂州が顔を出す。鳥が多い。
小さな鳥の絵が添えられていた。
マリナはその余白に書き足した。
――地図に残すなら、この影も入れた方がきれいです。
セドリックが驚いたように目を見開き、やがて頷いた。
午後、図面を仕上げる。紙の上の線がいつもより柔らかく見える。彼の測量線を重ねたせいだろうか。
「いい線ね」
背後のレオナが言う。
「久しぶりに、人の手が交わった地図を見た気がする」
マリナは笑いながら答えた。
「偶然ですよ。彼が几帳面なだけです」
だが、その線を指でなぞりながら、心のどこかでわかっていた。これは“誰かと描く”線だった。
夕暮れ、セドリックが手を上げた。
――明日も、同じ時間でいいですか。
マリナは頷き、返す。
――潮が引く前に始めましょう。光が柔らかい時間がいいです。
扉を出ると、空は茜色に染まっていた。
手のひらの鉛筆の粉を見つめながら、マリナは思った。
明日は、どんな線を描けるだろう。




