森の目覚めと最初の創造
柔らかな木漏れ日と、小鳥のさえずり。土と草の匂いが、鼻腔をくすぐる。
巧が次に目を開けた時、彼は見知らぬ森の、ふかふかとした苔の上に寝転がっていた。
「…本当に、来たのか」
自分の手を見る。少し若返ったような、それでいて間違いなく自分の手だ。疲労感も、胃の痛みも、全てが嘘のように消え去っている。これが、新しい肉体。
「まずは現状確認だな」
巧は女神の言葉を思い出し、心の中で「ステータス」と念じてみた。すると、目の前にゲームのようなウィンドウが浮かび上がる。
名前: タクミ
種族: ヒューマン
職業: なし
レベル: 1
HP: 100/100
MP: 500/500
スキル:
物質創造
異世界言語理解
「タクミ、か。シンプルでいいな」
注目すべきはMPの高さだろう。一般人がどれくらいか分からないが、スキルの特性上、この潤沢な魔力は大きなアドバンテージになるはずだ。
「よし、さっそく試してみよう」
タクミは地面に落ちている、こぶし大の石を拾い上げた。石。主成分は二酸化ケイ素…いや、もっと複雑な鉱物の集合体か。システムの知識で考えるなら、まずは単純な構造から試すべきだ。
(一番単純な構造…そうだ、水だ)
化学式はH₂O。これほど単純な構造はない。タクミは右手を前に突き出し、手のひらの上に水の分子構造をイメージした。魔力が体内から吸い出されていく感覚が、はっきりと分かる。
すると、何もないはずの空間が淡く光り、手のひらにポトリと水の塊が出現した。
「おお…!」
透明で、冷たい、本物の水だ。タクミは感動のあまり、その水をぺろりと舐めた。紛れもなく、ただの水だった。
(すごい、本当に使えるぞ、この力!)
次に試したのは、ただの「土」。地面の土を触り、その感触、密度、構成をイメージする。先ほどより多くの魔力を使い、手のひらにこんもりとした土の山を作り出すことに成功した。
だが、その時。
ガサガサッ!
背後の茂みから、獣のような低い唸り声が聞こえた。振り返ると、そこにいたのは緑色の皮膚をした、醜悪な小鬼――ゴブリンだった。手には錆びた棍棒を握り、涎を垂らしながら、明らかに敵意を剥き出しにしている。しかも、一匹ではない。茂みの奥から、さらに二匹が現れた。
「嘘だろ、いきなり戦闘かよ!」
武器はない。逃げようにも、森の地理など全く分からない。
絶体絶命。タクミの脳が、かつての仕事のように高速で回転を始めた。
(考えろ…!考えろ、考えろ、考えろ!)
脳が警鐘を鳴らす。SE時代、デッドライン直前にバグの修正に追われた時の、あの嫌な感覚が蘇る。だが、今回は失敗すれば死ぬ。
「グルァッ!」
先頭の一匹が、棍棒を振りかぶりながら突進してくる。万事休すか――。
いや、まだだ!
「うおおっ!」
タクミは咄嗟に、地面に向かって両手を叩きつけた。イメージするのは「壁」。ただひたすらに分厚く、強固な土の壁。スキルを発動させ、ありったけの魔力を注ぎ込む!
ゴッ!という鈍い音と共に、タクミとゴブリンの間に、地面が隆起してできた高さ2メートルほどの土壁が瞬時に出現した。振り下ろされた棍棒は、壁にめり込んで動きを止める。
「ハァ…ハァ…!」
間一髪。魔力をごっそり持っていかれ、息が上がる。しかし、壁の向こうからゴブリンたちの苛立ったような叫び声が聞こえ、一時的にだが時間は稼げた。
(武器はない。体格でも数でも不利。だが、俺にはこの力がある…!)
壁があるから安全、ではない。いずれ壊される。このアドバンテージを活かして、状況を覆す一手を打たなければ。
タクミの脳裏に、様々な物質の構造式が浮かんで是正される。鉄?駄目だ、構造が複雑すぎる。火薬?もっと無理だ。もっと単純で、効果的なものは…?
そうだ、武器を「作る」んじゃない。この「環境」そのものを武器に変えるんだ。
ゴンッ!ゴンッ!
壁に亀裂が入り始めた。もう時間がない。
タクミは壁に背を預けたまま、神経を集中させた。壁の向こう、棍棒を叩きつけているゴブリンの足元。そこの土の構造をイメージする。そして――
(――硬化させろ。圧縮して、鋭く尖らせろ!)
まるで粘土をこねるように、足元の土の密度と形状を魔力で操作する。
次の瞬間、壁が内側から突き破られた。勝利を確信したゴブリンが、醜い笑みを浮かべて飛び込んでくる。
だが、その一歩は永遠に踏み出されることはなかった。
「ギッ!?」
ゴブリンの足元から、鋭く尖った無数の石の杭が突き出したのだ。それはタクミが創造した、必殺のトラップ。勢いのまま飛び込んできたゴブリンは、自らの体重で体を串刺しにされ、悲鳴を上げる間もなく絶命した。
「残り、二匹…!」
仲間が無残な死を遂げたのを見て、残りのゴブリンたちは明らかに怯んでいた。好機だ。
タクミはさらにスキルを応用する。今度は、空気中に存在する物質に意識を向けた。
(炭素をイメージしろ。ダイヤモンドのような結晶構造は無理でも、もっと単純な…燃えカスの粒子なら!)
タクミが両手を前に突き出すと、怯んでいるゴブリン二匹の顔の前に、突如として真っ黒な煤の塊が出現し、弾けた。
「「ギャッ!?」」
完璧な目くらましだ。視界を奪われたゴブリンたちが、目をこすりながら混乱している。
その隙を見逃さなかった。タクミは地面に落ちていた手頃な木の枝を拾い、その先端に意識を集中する。
(枝を核にして、先端に鋭利な黒曜石を「生成」しろ!)
木の枝の先端が淡い光を放ち、みるみるうちに鋭く磨かれた黒曜石の槍先に変化していく。即席の石槍の完成だ。
「これで、終わりだっ!」
タクミは元現代人とは思えぬほどの覚悟で踏み込み、混乱するゴブリンの心臓めがけて、渾身の力で槍を突き出した。手応えは鈍く、生々しいものだったが、今は感傷に浸っている場合ではない。最後の一匹がこちらに気づく前に、素早く槍を引き抜き、同じようにその命を奪った。
静寂が森に戻る。
そこに立っていたのは、返り血を浴び、荒い呼吸を繰り返すタクミ一人だった。
「…やったのか。俺が…」
三つの命を奪ったという事実が、ずしりと重くのしかかる。だが、それ以上に、生き残ったという安堵感が全身を支配していた。
その時、脳内に直接声が響いた。
《経験値を獲得しました。レベルが2に上がりました》
倒したゴブリンの体が淡い光の粒子となって消え、その跡には「魔石」と呼ばれる小さな紫色の石と、数枚の汚れた銅貨が残されていた。
「レベルアップに、アイテムドロップ…。本当に、ゲームの世界なんだな」
タクミは魔石と銅貨を拾い集め、ズボンのポケットに突っ込む。疲労困憊だったが、不思議と体は軽い。これがレベルアップの効果だろうか。
ひとまずの危機は去った。だが、こんな危険な森に長居は無用だ。
「街を探さないと。まずは情報を集めて、この世界で生きていく術を学ばないと」
タクミは即席の石槍を杖代わりに、森の中を歩き始めた。太陽の位置から方角を割り出し、少しでも開けた場所を目指す。
色褪せた世界で死んだ男は今、彩り豊かな、しかし命の駆け引きがすぐ隣にある世界で、力強い第一歩を踏み出したのだった。




