色褪せた世界と、始まりの光
降り注ぐ蛍光灯の光は、まるで魂を抜き取るかのように青白かった。
相馬巧、28歳。システムエンジニア。彼の世界は、モニターに映し出される無機質なコードと、鳴り響くキーボードの打鍵音、そして、日に日に濃くなる隈だけで構成されていた。
「…終わらない」
誰に言うでもなく、乾いた唇からため息が漏れる。納期は明日。しかし、進捗は絶望的だった。胃はキリキリと痛み、カフェインで無理やり繋ぎ止めた意識は、今にも切れそうだった。
(何のために生きてるんだっけ…)
そんな哲学的な問いが、ふと頭をよぎる。学生時代は、もっと輝かしい未来を夢見ていたはずだ。しかし、現実はどうだ。ただ、消費され、摩耗していくだけの日々。
その時だった。
視界がぐにゃりと歪み、凄まじい耳鳴りが頭を貫いた。胸に激痛が走り、呼吸ができない。
「え…?」
椅子から崩れ落ちながら、巧は自らのデスクに突っ伏した。薄れゆく意識の中、最後に見たのは、エラーを表示したままのモニターの冷たい光だった。
享年28歳。死因、過労による急性心不全。あまりにもあっけない、現代日本のどこにでもありふれた、平凡な男の最期だった。
◇
「――お目覚めですか、異世界の魂よ」
透き通るような、それでいて荘厳な声が響く。
巧がゆっくりと目を開けると、そこは純白の空間だった。床も、壁も、天井もなく、ただただ光に満ちている。そして、目の前には、黄金の髪を波打たせ、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる女神としか形容しようのない存在が、宙に浮いていた。
「あなたは…?」
「私はアストライア。この世界とは異なる理の世界、『地球』の魂を導く者です」
女神アストライアは、悲しげに瞳を伏せた。
「相馬巧さん。あなたの人生は、あまりにも短く、あまりにも報われないものでした。本来であれば、あなたはもっと多くの経験をし、幸せを掴むべきだった。世界の理の歪みが、あなたのような犠牲者を生んでしまったのです。誠に、申し訳ありません」
丁寧な謝罪に、巧は逆に戸惑ってしまう。
「いや、あの…」
「そこで、提案があります」
女神は顔を上げ、その瞳に強い光を宿した。
「あなたに、二度目の人生を歩む機会を差し上げたいのです。我々が管理するもう一つの世界――剣と魔法の存在する世界『エルドラ』で、新たな生を受けてみませんか?」
剣と魔法。それは、かつて巧が夢中になったゲームや小説の世界そのものだった。色褪せた現実とは真逆の、心躍る響き。
「もちろん、ただ行ってこい、というわけではありません。お詫びと、新しい世界での道標として、あなたに一つ、特別な力を授けましょう」
女神がそっと指を鳴らすと、巧の目の前に半透明のウィンドウが現れた。
【ユニークスキル:物質創造 (Material Creation)】
術者が構造を完全に理解した物質を、魔力を消費して無から生成する。
複製対象の構造が複雑であるほど、消費魔力は増大する。
生命の創造は不可能。
「物質創造…?」
「はい。あなたの魂が持つ『構築』と『解析』への高い適性を見込んで授ける、唯一無二の力です。例えば、あなたが石の構造を理解すれば、魔力で石を生み出せます。鉄の構造を理解すれば、鉄を作り出せます。あなたが持つ地球の知識は、この世界において、何物にも代えがたい武器となるでしょう」
元の世界で培ったシステムエンジークとしての知識。構造を理解し、論理を組み立てる能力。それが、この異世界で力になるという。
心臓が、高鳴った。死んだはずの自分が、もう一度、全く新しい世界で、新しい力を持って生きられる。断る理由など、どこにもなかった。
「…お願いします。俺に、二度目の人生をください」
巧の決意に、女神アストライアは満面の笑みを浮かべた。
「承知しました。それでは、あなたの新たな門出に祝福を。願わくば、今度こそ、あなたの人生が彩り豊かなものになりますように」
女神の言葉を最後に、巧の意識は再び光の中に溶けていった。
第二章:森の目覚めと最初の創造
柔らかな木漏れ日と、小鳥のさえずり。土と草の匂いが、鼻腔をくすぐる。
巧が次に目を開けた時、彼は見知らぬ森の、ふかふかとした苔の上に寝転がっていた。
「…本当に、来たのか」
自分の手を見る。少し若返ったような、それでいて間違いなく自分の手だ。疲労感も、胃の痛みも、全てが嘘のように消え去っている。これが、新しい肉体。
「まずは現状確認だな」
巧は女神の言葉を思い出し、心の中で「ステータス」と念じてみた。すると、目の前にゲームのようなウィンドウが浮かび上がる。
名前: タクミ
種族: ヒューマン
職業: なし
レベル: 1
HP: 100/100
MP: 500/500
スキル:
物質創造
異世界言語理解
「タクミ、か。シンプルでいいな」
注目すべきはMPの高さだろう。一般人がどれくらいか分からないが、スキルの特性上、この潤沢な魔力は大きなアドバンテージになるはずだ。
「よし、さっそく試してみよう」
タクミは地面に落ちている、こぶし大の石を拾い上げた。石。主成分は二酸化ケイ素…いや、もっと複雑な鉱物の集合体か。システムの知識で考えるなら、まずは単純な構造から試すべきだ。
(一番単純な構造…そうだ、水だ)
化学式はH₂O。これほど単純な構造はない。タクミは右手を前に突き出し、手のひらの上に水の分子構造をイメージした。魔力が体内から吸い出されていく感覚が、はっきりと分かる。
すると、何もないはずの空間が淡く光り、手のひらにポトリと水の塊が出現した。
「おお…!」
透明で、冷たい、本物の水だ。タクミは感動のあまり、その水をぺろりと舐めた。紛れもなく、ただの水だった。
(すごい、本当に使えるぞ、この力!)
次に試したのは、ただの「土」。地面の土を触り、その感触、密度、構成をイメージする。先ほどより多くの魔力を使い、手のひらにこんもりとした土の山を作り出すことに成功した。
だが、その時。
ガサガサッ!
背後の茂みから、獣のような低い唸り声が聞こえた。振り返ると、そこにいたのは緑色の皮膚をした、醜悪な小鬼――ゴブリンだった。手には錆びた棍棒を握り、涎を垂らしながら、明らかに敵意を剥き出しにしている。しかも、一匹ではない。茂みの奥から、さらに二匹が現れた。
「嘘だろ、いきなり戦闘かよ!」
武器はない。逃げようにも、森の地理など全く分からない。
絶体絶命。タクミの脳が、かつての仕事のように高速で回転を始めた。