3:言葉の壁
ミツエは難問に直面していた。
男の名前が「バルド」ということはわかったが、それ以外のことはまったくわからない。
部屋の汚さを見る限り、この男性は結婚はしていないようだ。
他に人の気配もしない。
天井の隅には蜘蛛の巣ができているし、テーブルや床にはいろんなものが散乱して積み上がっている。
とりあえず、手近にあったシャツを勝手に着てしまったが、服も欲しい。
しかし、この部屋の主が女物の服や肌着を持っているとは到底思えない。
せめて言葉がわかればいいのだが、残念ながら、ここは日本とは違う国らしい。
英語ともフランス語とも違うというのはわかるが、言葉がわからないとコミュニケーションも難しい。
身振り手振りでなんとかするしかないと、テーブルの上の紙束を捲りながら激しめな独り言を言い続けている男の肩を叩いた。
急に肩を叩かれて、驚いたバルドは思わず悲鳴のような声を上げて飛び退いてしまった。
そうだ。いまここにいるのは自分1人だけではなくなったのだ。
バルドの研究、魔導人形が成功したのだ。
バルドが命令していないにも関わらず、自分の意思で肩を叩いてきたのだと気づき、また嬉しさが込み上げた。
「スゴイ!君は今自分で考えて動いたんだね!僕はまだ何も指示を与えていないからね。あぁ!本当に成功したんだ……!」
肩を叩いただけなのに、お化けでも出たかのような驚き方をしたと思ったら、今度は早口で何か嬉しそうに話しかけてきた。
ミツエは不思議に思いながらも、まずは自分の着るものをなんとかしたいと思いシャツを指で示した後上着を着る動作をしてみせた。
彼に伝わるかどうかはわからないが、こちらから動かなければ状況は変わらない。
ミツエは自分自身の経験の中で、そう心得ていた。
ミツエの動きをみて何かを悟ったのか、奥の部屋に引っ込んだと思ったら茶色のズボンとスリッパのような靴を持ってきた。
残念ながら肌着はないが、ズボンがあるだけよかった。
服を渡され、奥の部屋に来るよう手招きされた。この部屋で着替えろってことのようだ。
ミツエは奥の部屋に入って扉を閉めた。
奥の部屋は寝室になってるようで、1人用のベッドと小さなテーブル、タンスと本棚があった。この部屋も物で溢れていて、本棚はパンパンで無理やり突っ込んだと思われる紙束が所々からはみ出している。
片付けが必要だとミツエは自分がやることを決めた。
ズボンはさすがに長さが合わなかったので、裾を折って長さを調整した。靴も履いてる方が歩きにくいくらいだったので、落ちてる紐のようなものを拝借して、それを上から巻きつけて脱げないようにした。
服を着て、元の部屋に戻ると、バルドは手を叩いて喜んでいた。
何がそんなに嬉しいのかわからないが、追い出されることはなさそうだ。
まずはこの場所についてを知らなければいけない。
96歳の経験値は伊達ではない。
戦後に外国の兵士が我が物顔で歩き回っていたあの頃、言葉がわからなくても笑顔と身振り手振りで何とかしてきた。
なるようにしかならない!
何もしなかったら何も変わらない!
それはミツエがこれまでの人生で経験してきた教訓の1つだ。
大丈夫。バルドはミツエのことを害そうとしている訳ではない。それなら大丈夫。
きっとなんとかなる。
まずわかるのは自分のこと。
身体が軽い。
歳の頃は18くらいだろうか。
関節は痛まないし、腕は頭の上までしっかり上げられる。
ジャンプをしても膝は痛くないし、ふらつきもしない。
あの世の夫と再会するはずが、まさかこんなことになるとは思ってもみなかったが、若い身体はそれはそれでちょっと感動してしまう。
鏡がないので見た目はよくわからないが、背中まで伸びた髪は亜麻色で、指通りも滑らかだ。
やっぱり若いって素晴らしい!と思わずにはいられない。
ミツエが自分自身の身体の若さに感動しているとバルドが何やら持って近づいてきた。
どうやら紙の束とペンのようなものみたいだ。
紙にペンを走らせる。
書かれた文字は見たこともないものだった。
ミツエが不思議そうに見ていると、バルドはまた別の紙に何かを書き始めた。
どうやら文字の表みたいだ。
バルドもミツエと同じ考えだったようで、文字を教えてくれようとしてるみたいだ。
こんな歳になってまた新しい言葉を学ぶことになるなんて。
ミツエは年甲斐もなくワクワクしていた。