2:96歳で天寿をまっとうしたはずなのに
「おばあちゃん!おばあちゃん……!」
狭い病室の中に声が響く。
思えば幸せな人生だった。
古矢ミツエは、もう間もなく自分の生が終わることがわかっていた。
96年。
どちらかといえば長い人生なんじゃないか。
7人兄妹の真ん中で、子どもの頃は家の手伝いに農作業、内職に幼い弟妹の面倒など今の世の中じゃ考えられないくらい忙しい子ども時代だった。
戦争に疎開、若い頃の方が辛いことも多かった。
だからこそ、結婚して、子どもたちを育て、友人たちとおしゃべりして過ごしてきた時間が愛おしく、幸せで満ちていたと実感する。
あの時代には珍しく、恋愛結婚で、3人もの子どもたちに恵まれて、今では孫が7人、ひ孫も3人いる。
そんな家族みんながこの病室に集まっていた。
本来であれば人数制限でこんなにたくさんの人間がいっぺんに病室に入ることは許されていないが、ミツエの最期の時が目の前に迫っているため、特別な措置だった。
自分に繋がれたたくさんのチューブやコード。
もう自力で呼吸することすらできないのに、文明の利器のおかげで、こうして家族たちと最期の時間を過ごすことができている。
もう目を開ける力もない。
「泣かないで」って言いたいのに声が出ない。
あの人が亡くなってから18年。ちょっと長生きしすぎちゃったけど、やっと会える。
だから私は幸せでいっぱいで、泣いたりしなくても大丈夫。
そう伝えたい気持ちはあれど、それは叶わない願いだった。
機械から聞こえるリズムが段々とゆっくりになる。
そしてピーという甲高い嫌な音に変わる。
ミツエの意識はここで一旦途切れた。
「…おばあちゃん!ゆっくり休んでね」
「おばあちゃん」
「14時23分。ご臨終です」
医師が確認し、機械を停止させた。
「では、エンゼルケアをさせていただきますので、ご家族の皆様は待合室にてお待ちください」
暗闇の中、誰かに呼ばれている気がする。
もしかしたらあの人が私のことを迎えに来てくれたんだろうか、ミツエはそんなふうに思いながら、暗い中をゆっくりと歩いていた。
さっきまでベッドに横たわって身動き一つできなかったのに、びっくりするほど身体が軽く、宙を舞っているようだ。
突然強い光を感じた。
眩しさに目を閉じ、再び目を開けると、見知らぬ部屋の中だった。
これが死後の世界だったらあまりにも侘しいと思いながら身体を捩る。
さっきまでびっくりするくらい身体が軽かったのに、しっかりと重みを感じる。
「ここは……どこ?」
辺りを見回すと薄暗い部屋の中、ボサボサの髪に無精髭の男と目が合った。
「誰っ!!」
咄嗟に出た大声に、自分の声の高さにびっくりした。
なんだか若い。しゃがれていないし、すぐに痰が絡んだりもしない。
突然起きたことに戸惑い、混乱していると、男が私の近くに座って視線の高さを合わせてきた。
見知らぬ男に警戒していたが、男は自分の胸に手を当てると、ゆっくりと「バルド」と言った。そして、ミツエの方に手を向けて「ピノリア」と言った。
きっと名前を言ったんだと直感し、ミツエも同じように自分と相手を指しながら同じように繰り返した。
すると男は訳のわからない言葉を話しながら拳を振り上げて天を仰いだ。
呆気に取られていたが、自分が何も着ていないことに気づき、近くの椅子にかかっていたシャツを手に取るとそのまま羽織った。
どうやら、あの人にはまだ会えそうにない。それはなんとなくわかった。