空いたその隙間を埋めたもの
自分が今置かれている現実を疑った事はあるだろうか。それは果たして自分が望んだものなのか、誰かがが望んだものなのか。ありふれている展開もその身に起こる事を予期しないからこそ、他人事だからこそ楽しめるもの。
今あなたはどこで誰とどうしていますか?
その現実が揺らぐ瞬間をあるお題から考えました。誰かの暇つぶしになれれば幸いです。
「あの時にさ、あったじゃん。ほら。」
何を言っているのだろう。
それがわかるはずもなく、それでも曖昧な表情を浮かべて、いつになく乗り気になれない、特に何かを生み出す事もないCMのような、そんな会話をする。
「そうだったね。そうそう。」
曖昧でも少し表情筋を上に向けてこのセリフを呟けば、目の前の君は満足するらしい。
君は誰なのだろう。
「じゃあそろそろ、ね?」
あ、うん。と気のない返事をする自分を慣れた手つきで誘導する君は、次から次へと話を繰り広げる。それは自分と思しき登場人物も合間に入るのに、それはとても曖昧で、そもそも存在するのかしないのか、現実味がない。
導かれるまま、手を引かれるまま、地下に潜り、改札を抜け、滑り込んできた地下鉄に乗り込む。赤赤と煌々と光を放つ地下鉄はただただ暗闇な、その構内を照らし、劈きながら、次の駅へとただ一直線に進む。
ただ無表情に俯きながら、明るい車内とは裏腹の乗客は、違和感があるにもかかわらず、まさにそこにあるべくしてあるような、ただそれでも波打ち際のように、さあっと引いては押して、その面々は入れ替わる。
ただ恐らくいつものように、どこかの駅の改札を抜ける。手を引かれ、まるで何も知らない子どものように、ただこっちだよと導かれる方に抵抗をする事もなく進む。月明かりの届かない、人工的なネオンが不規則に光り、消え、雑踏の声が広がり、そして収縮する。
何が起こっているかもわからないまま、それでもだからと言ってそこに興味があるわけでもなく、ただ、その場所に存在している自分とは対照的に1人明るくケタケタと笑いながら話し続ける君に疑念を感じないわけではなかった。ただそれがどうしてなのかわからない。
ピンポーン
ピンポーンピンポーン
ついさっきまでずっと話し続けていた君がピタと黙る。はて、そう思い玄関に向かおうとすると、突き放され、そしてドアを固く閉じられた。それは室内であるにもかかわらず、カチャリと続けて音を立てる。
遠くから話し声が聞こえる。何にも興味が湧かない自分には彼女が話していた話と同様に、何であるかは聞き取れない。知っている言葉だろうに、意識して聞かないと、言葉はただの音でしかない事に気が付く。その音は色々な高低差をつけ、自分に向かってはまた遠ざかる。ずっとずっとそれの繰り返し。
「狩野さん!狩野さん!無事ですか?今開けますからね!」
何の事だか。なぜか音が言葉になり、唐突に脳裏に響く。荒々しく開いた目の先にあるドアから見た事のある格好の男性が勢いよく流れ込む。
「狩野さん、狩野郎生さん。聞こえますか?警察です。聞こえていたら瞬きをしてください!」
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「・・・先日地道な捜査により、発見に至った狩野郎生さん36歳は、命に別条はないとの事です。狩野さんが保護された当時一緒にいた女性を重要参考人として任意連行した結果、容疑の一部を認めているとの事です。この事からも忽然とその姿を消した狩野さんが自殺や行方不明ではなく、事件に巻き込まれていた事が明らかとなりました。犯人は当時狩野さんが勤めていた会社の取引先関連会社に勤める社員、鈴木純容疑者。被害者である狩野さんに暴行の末、2年間に渡り監禁していたとの事です。」
小さなテレビでは忙しなく、そんなニュースが流れている。外の明るい日差しとまるで対極な、人の醜聞だけをただ、蚊帳の外で延々と、ただ延々と。少しだけ開けた窓からは少し肌寒い風がサッとその個室に吹き込む。消毒液のような、病室特有の匂いに少しだけ異形が混ざる。駆り立ての草の青臭さが混ざるその香りに、ふと窓辺に置いた自分の腕を見て驚く。青黒く変色したその手首には瘡蓋のようなものすら、もはやタコにでもなりそうな皮膚があり、明らかに異様だ。自分はどうしてここにいるのか、どうして手首がこんな色になっているのか、わからないままにベッドに座り込むと部屋がノックされた。返事をして入ってきたのはどこか見覚えのある顔だった。ただ誰かはわからない。ただその人は涙を浮かべ、そして言った。
「ろう兄。生きてて良かった・・・」
泣き崩れる彼に動揺し、その手の色合いなど忘れてしまいそうになった。そして彼はどうやら自分の名前を呼び、そしてこんなにも心配している。
「申し訳ない。君は誰だろうか・・・?」
より泣かせるつもりは到底なかったのだが、それさえわからないままに彼を受け止めるのも何か失礼な気がして、意を決してそう問いかける。
「そうか、そうだね・・僕はね・・」
そう言うと彼は涙を拭って、弟だと名乗った。名は廉と言い、自分の5つ下だそうな。まだピントはこないものの、話す様子を見ても特に嘘はついていないように見えた。
彼曰く、自分は暴行により意識を失った後、記憶も失ったらしく、今に至る。一方的に想いを寄せていた容疑者宅に監禁されていたものの、2年に差し掛かろうとした辺りから、彼女に欲が出た。今まで決して外には出さなかった狩野を自慢したくなったのだ。それまでもSNSで散々語り尽くしてはいたものの、それでは飽き足らなくなった。彼女はどう言う経緯で彼を手元に置いているのかを棚にあげ、所有物を見せびらかしたくなった。その行為がそれまでの積み重ねを全て全てぶち壊すと少し考えたらわかりそうなものの、そんな事はもはやどうでも良かったのだ。彼女にとって、彼は全てで、それを支えない世界は何の価値もない。自分の想う世界と彼以外は目にも入らないし、そして興味もなかった。
容疑者の鈴木は小柄な女性だった。目立つような風貌でもなく、目を引くようなスタイルでもない。仕事ぶりも一般的。そんな彼女が何でもない日々を送っていた時に現れたのが狩野郎生だったそうで、受付で交わした短い言葉、ただそれだけで盲信してしまった。私は彼に出会うためにここまで生きてきたのだと。週に1度やってくる狩野と挨拶を交わすだけだった鈴木はいつしか彼と付き合っていると考えるようになった。ただそれは誰かに吹聴したわけではない、ただ彼女の中で秘めていた。だからこそ誰もその予兆を感じる事はできず、2年にも及ぶ長い間、気が付く事ができなかった。
勘違いを重ねた彼女はある日、いつものようにやってきた狩野に話しかけた。既に1年が経とうとしていたにも関わらず、狩野は鈴木の名前を覚えていなかった。ごめんね、俺人の名前を覚えられなくて、ほんとごめん。そう屈託無く笑う狩野の顔を見て、何かが崩れたらしい。残業がちだった鈴木はその日からパタリと残業をしなくなり、そして、趣味ができたと言い、生き生きとし始めた。会社での人当たりも良くなり、比較的好感度の高い社員として働き続けたのだ。
警察が踏み込んだその家はまるでモデルルームのように生気が感じられず、妙に片付いていた。むしろ気味が悪いくらいに整ったその部屋とは裏腹に、廊下に面したドアの一つがまるで金庫のように施錠されている。その異様さが変に馴染んでいて、その気味の悪さに拍車をかける。恐る恐るも開けたそのドアの先にはやせ気味の成人男性がおり、それでも肌はきちんと手入れがされていた。ただその手足には手錠がかけられていて、壁に繋がれていた。部屋のあちこちには手錠が設置されていて、動くたびに付け替えられるようになっていたのか、どうなのか、その用途を詳しく知りたい者などいやしないだろう。
2年隠されていた狩野がなぜ今になって発見されたのか。それは確かに鈴木の拗らせた承認欲求の果て、見つからない事への根拠のない自信ももちろんそうだが、2年間で染みついたその手錠痕が間違いないものとして、衆人に見つかった。地下鉄の乗客が何気なく、改札で駅員に手首に妙な痣のある人を見たと伝えた。たまたま居合わせた鉄道警備隊が、たまたま地域課の同期に行方不明者リストを更新してもらった直後だった。一つ一つのピースがほんの少しのタイミングで重なった事でその身柄は拘束された。
彼がそう話し終える頃には、天頂にあった太陽はとっぷりと沈み、その空は赤く夕焼けていた。
「さあ、兄さん。家に帰ろう。」
確かに看護師がそろそろ退院だとは言っていたな、と思い、用意された服に着替えをする。テキパキとまとめられた荷物を弟が持つと、数日いたそのベッドを後にし、病院の喧騒の中、車に乗った。
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「狩野さん、夕食ですよ。」
そう言って、看護師が部屋のドアを開けると、そこにはもう狩野郎生の姿はなかった。先ほど退院したのだ、無理もない。だがそれを知るものはいない。異常に気がついた看護師は急いで部屋を後にすると、病棟は騒然となる。ある看護師が弟さんがいらっしゃったと言う。
「弟・・・?」
引っかかった別の看護師が急いでカルテを確認する。狩野郎生には弟もいない。妹も、他の兄弟もいない。
真っ青になり、病院玄関の警備員の内線を鳴らす。
「・・・昼頃の面会人?・・・鈴木純、と書いてありますね。はい。その方?1時間前に面会カードを返却されています。」
鈴木純は署に拘留されているはずで、狩野には弟はいない。そして狩野郎生はまた忽然とその姿を消した。
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であるはず。
その思い込みが色々なものを見えなくし、現実を間違えて認識させる。
幸せ、不幸せ、自由、不自由。
その全ては他者の思い込み、刷り込みによって生まれる。
今のあなたの置かれる現実はどうだろう?
それはあなたの正しい現実だろうか。