第17話 私の戦場
これは、夢だ。
目の前の光景を見て、すぐにそう確信した。
だって、あのナメクジ以下まで知能が衰えて、舞踏会でもお辞儀ひとつ満足にできない王子が……兄や宰相様に、命令をしている……だと?
あまりに信じがたい光景に視線を彷徨わせていると、唖然する宰相様と目が合った。
……ふたり同時に同じ夢を見ることはない。
なら、目の前のこれは、現実……?
いや、でも……。
だめだ。
何が何だか、本気でわからなくなってる。
私はアホになり果てた初恋の王子を見限った。
『王妃になって、今までの自分に報いる』と誓った。
王子のアホが呪いのせいだとわかっても……王子を即位させ、王妃になろうとした。
そして自分のヘマで、王弟派を勢いづかせ王子を即位から遠ざけてしまった。
なのに今、目の前にはアホじゃなくなった王子がいて……。
ん?
……王子を即位から『遠ざけてしまった』……?
ま、まさか……。
婚約者の私の評判が地に堕ちたことで、王子は呪いの影響から解放された……ってこと……?!
衝撃的な閃きに脳天を貫かれたのと同時に、冷えた声が耳に飛び込んでくる。
「畏まりました、殿下」
それは、兄の声だった。
見ると、王子の前で胸に手をあて、頭を下げていた。
対する王子はそれに対して鷹揚に頷き、当然のように受け入れている。
信じがたいとしか言いようのないその光景。
ただ身を固くすることしかできない私に向き直り、兄は言った。
「王子が名誉を回復せよと仰せだ。リセ、案を出しなさい」
相変らず『氷の軍師』は容赦ない。
自らの汚名は自らで雪いで見せよ、というわけか。
しかし、状況はこの上なく悪い。
手はなくないけれど……さて。
……て、ちょっと待て!
なんで言われるがまま、作戦考え始めてるのよ、私!
さっきまで婚約破棄して出頭するつもりだったでしょ?!
飼いならされた犬のように、兄の命に従ってしまう自分が悔しい。
なのに、呪いに縛られて抗う言葉を吐いたとしても届かない。
哀れな私はただ唇を噛みしめ、無力さをごまかした。
そんな私と兄の間に、黒い影が割って入る。
……王子だ。
急に距離が縮まって、私はつい、一歩後ずさる。
「おいセリク、リセは今落ち込んで……」
私いたわるような王子の発言に、きゅうと胸が苦しくなる。
兄に反論できず、急に変貌した王子に心乱され……状況に流されるしかない私は、情けないを通り越して、もはや哀れだ。
「殿下はリセに甘いですね。……しかし、殿下は我が妹に興味がなかったはずでは?」
兄は茶番を見るような冷えた視線を王子と私に向けながら、小さく首を傾げる。
一方、王子は兄のその問いに、ギクリと肩をびくつかせた。
「は?! な、あ、あれは……そういう意味では……」
「いくらか前には『凡庸な顔』と言い放ったという話も聞きましたが」
「違う! それは……!」
言い淀む王子にすかさず、とばかりに兄が追撃を食らわせると、王子は振り切るように頭を横を向いた。
よく見ると、その肩は細かく震えている。
これは、どういう反応なの……?
その背を見つめていると、王子は唐突に、こちらに振り返ってきた!
「り、リセ……その……」
いつもふにゃりと情けなかった眉は苦し気にしかめられていた。
意志の宿る紅い瞳は揺れながら、それでも、真っ直ぐに私の方を見ていた。
言葉を探すように、何度も王子の唇が薄く開いては閉じる。
そして――
「本ッ当に……申し訳なかったッ!!」
王子は勢いよく、私に頭を下げ、ほぼ叫んだ。
鼓膜を大音量でぶん殴られ、思わず耳を手で覆った。
……けど、改めてその発言を頭の中でなぞる。
『申し訳なかった』……一体、何に対して?
「……俺は、深くリセを傷つけてきた。言い訳はしない。だが、信じて欲しい」
打って変わって、低く、静かな王子の声色に……胸の奥で、鼓動がひとつ跳ねた。
吸った息が喉で止まり、苦しいほど胸が熱くなる。
「俺は、俺は……ずっと、リセのことを大切に想っていた」
王子が顔を上げる。
再び紅い瞳が、私を映していた。
その純真な眼差しに――
白い花が咲き乱れるあの光景が、脳裏に立ち上がる。
やめて。
もう、これ以上何も……言わないで。
「リセとこの国を守っていきたい。そう思ってる……今も」
だって私は、王子のことなんてもうどうでもいいって。
自分のために生きるって決めたのに。
なのに、なんで今さら……あの日と同じ目で、そんなことを言うの?
王子だけには私の声が届くのに。
何か言葉を返そうとしても……どうしても喉が渇いて、引きつれて。
結局、声が出なかった。
気まずい沈黙を断ち切るように、『氷の軍師』は一つ手を叩く。
「さあ、これで少しはやる気が出たろう。リセ」
そして、恐らくは――クローディア家の家長として告げる。
「宮廷はお前の戦場だ」
柔らかな微笑み。
けれどその目も口元も、別々に見れば全く笑っているように見えない。
「王子の命とあらば、クローディア家は引き下がることはできない」
クローディア家の令嬢としての私。
王子のために王妃になりたいと願った、幼い日の私。
そして、『王妃になって、今までの自分に報いる』と誓った、あの日の私。
3人の私に代わり、兄がその『命令』を口にする。
「リセ。お前の知略で……この戦況を覆せ」




