第16話 雷鳴
私が呪いを受けているという決定的な事実が、バレてしまった。
しかも、王子の婚約者という身分を把握されたうえで。
このことを、目の前の女が王弟派に告げ口をしたらどうなる。
その上、市中に、国民たちにこのことを明かしてしまったら……。
私欲のために魔術を使い、『呪い』を受けた王妃など、信仰に篤い王都の民たちは――誰一人、受け入れないだろう。
せっかく、この世の中に呪いの視える人間がいると知る機会があったのに。
……完全に、油断した。
不意に、鋭い声が夜闇を切り裂く。
声の方、テラスの入り口を見ると、そこには表情を険しくしたレオニスがいた。
「リセ様、下がって!」
その声を聞いて、ようやく私は手を引き、一歩下がった。
すると背後で燃えていた青い炎は幻のように溶け去ってしまう。
レオニスは素早い足取りで、私と白い女の間に立つ。
女はレオニスを前にしても全くひるむ様子はない。
ゆるくウェーブのかかった髪の端をいじりながら、熱のこもった視線をレオニスに向ける。
「レオニス……お前も見たでしょう。先ほどの、青い炎」
レオニスの横顔は白亜の像のように動かない。
けれどあの距離で、あの炎が見えないはずはない。
……レオニスも知ってしまったのだ。
私に、呪いがかかっていることが。
「私には視えました。この女は美貌と引き換えに声を差し出したのよ」
白く細い指が真っ直ぐに私を指し示す。
「なんて即物的で下卑た願いなんでしょう。王家に似つかわしくないわ」
声色は妖精のささやきのように甘いのに、奥には鋭い棘のような侮蔑が潜んでいた。
その言葉の圧に、改めて思い知る自分の愚かしさに……全身から血の気が引いていくのが分かる。
「母上。あなたが呪いについて語るなど、馬鹿げている!」
レオニスの一喝に頭の片隅がぴくりと反応する。
この女がレオニスの母。
ラウル王子に呪いをかけ、その代償に自らも死に近づく呪いを受けた人……。
少しだけ顔を上げ、レオニスの母――先々代の王妃の表情を伺う。
長く床に臥せていたはずなのに、その姿に衰えは微塵もない。
すっと伸びた背筋、晴天のように冴えた瞳。
ひとことも発していないのに、ただそこに座しているだけで空気が引き締まる。
これが、玉座にあった者の姿。
レオニスの発言にも眉ひとつ動かさず、むしろ気高さを湛えた微笑を浮かべている。
これが、かつての王妃の姿。
……それに比べて、私は……。
「リセ様。今は戻って下さい。私の従者が兄君のところへ案内します」
レオニスに背を押され、私は言われるまま大広間へ戻っていった。
広間の入り口に行くといつかレオニス屋敷で見た使用人がおり、私は手を引かれるまま彼に付き従い、どこかへと向かった。
そうして辿り着いた場所は、大広間の傍らにある控室だった。
「リセ! おそいよ!」
部屋に入ると、王子の大声が私を迎えた。
私は王子の無邪気な呼びかけにどうしても応える気になれず、曖昧にうなずいてごまかす。
控室には兄がいた。
ソファに座って、ローテーブルに積まれている書類を処理しているようだった。
どうやら、仕事をしながら王子の面倒をみてくれていたらしい。
「……どうしたのかな、リセ」
兄は本から目を上げ、私に問う。
部屋に入って何も言わないので、何かあったと察したのだろう。
……兄を誤魔化してもなにもいいことはない。
いい悪いにかかわらず、重要な事実は速やかに共有すべきだ。
私は意を決して兄の書類の山のそばにしゃがみ込む。
そして、息を細く、長く吐いてから……メモ代わりの羊皮紙の端に、伝えるべき事実を記す。
羽ペンを握る指先が小刻みに震えているのが自分でも分かった。
『レオニスの母親に、私の呪いのことが露見しました』
「……そうか」
兄らしく、短い応答。
しかし、僅かに挟まれた間から珍しく兄が動揺したのがわかった。
『申し訳ございません。レオニスの母はルーエン枢機卿と同様、呪いを視る力があるようです』
追加で事情を書き記してから、私は立ち上がる。
そして、目の前の『クローディア家の家長』に深く、深く頭を下げた。
兄は下げた私の頭をちらり見て、すぐに書類に視線を落とす。
「まずは相手の出方を伺おう。話はそれからだ」
王子は私が頭を下げるのを見てマネしたくなったのか、舞踏会のはじまりのときのようにペコリと頭を下げる。
私はそこで、この部屋に来てから初めて王子の方を向く。
私の顔を見た王子は、ただ、にこりと笑った。
――そして、数日後。
事態は思ったより深刻だった。
どうやら王弟派には少し前、『王子の婚約者には呪いがかかっているらしい』――という噂が耳打ちされていたという。
そして先日、決定的な事実として確信され……王弟派は一気に勢いを取り戻したそうだ。
ルーエン枢機卿を通じて入ってきた話では、いったん離れかけていた教会派閥が、王弟派に再び合流するという密談まで交わされたらしい。
その動きを受け、王弟派は王都中に私と王子を糾弾するビラをばらまいているという。
『魔女リセは禁断の魔術を使用し、声を代償に王子の知性を奪い、傀儡にしようとしている――!』
民衆たちの一部からは「魔女リセを処刑せよ!」という声まで上がっていると聞く。王都にあるクローディア家の邸宅にも昨夜、さっそく石が投げ込まれた。
「まずいことになりましたな……」
宮殿の一室で、私は宰相様の深刻そうな横顔を眺めていた。
「不肖の妹が申し訳ありません。宰相閣下」
「いえ……リセ様には、今まで代えがたいご尽力をいただいていましたから」
兄は宰相様に深々と頭を下げる。宰相様はどこか遠慮がちに私に目をやり、すぐに顔を伏せる。優しい人だが、宰相様は王子派の筆頭。これ以上ない失態を演じた私に深く失望しているに違いない。
「しかし、このままでは派閥にも示しがつきません。……リセ、あれを」
兄に目線で促され、私は一通の書類を取り出し、机上に差し出す。
『リセ・クローディアはラウル・レオンハルトとの婚約破棄に同意します』
――婚約破棄。
これが、私への罰。
ちなみに、婚約破棄された私は、近く王都の教会に出頭することになっている。
勝手に王子に失望し、勝手に奮起して。
その上、勝手に『王妃になって、今までの自分に報いる』なんて突っ走った女の末路としては……まだマシな部類かもしれない。
「即位に向け、別の婚姻を組めるよう進めましょう。候補はここに」
私が差し出した婚約破棄への同意書に、兄は新たなお妃候補のリストを重ねて載せた。
宰相様はそれに目を通しながら、兄に問う。
「クローディア家としては、どのようにお考えで?」
「王子が即位し適度に時が経った後、末の妹を側室にでもして頂ければ」
私がいなくとも、世の中は何事もなく回っていく。
兄や宰相様がいれば王子は即位するだろうし、その横には私とは別の王妃がいて、国を支えていくんだろう。
「リセ、お前は部屋に控えていなさい」
宰相様と議論する兄は私に背を向けたまま言った。
私は一礼をして、部屋から出ようと扉を振り返る。
そのとき、だった。
厚い扉が荒々しく開かれた。空気が震え、全員の視線が吸い寄せられる。
「――待てッ!」
雷鳴のような声が、空間を貫く。
「セリク、宰相。ここにいたか」
姿を現したのは王子だった。
彼はまず私を一瞥し……紅い瞳を険しく細め、兄と宰相を睨み据える。
かつては虚ろに笑っていたその目が、いまは血のごとく紅く燃えている。
その異様な迫力に、心臓が早鐘を打った。
兄も宰相もその威容に呑まれ、言葉を失っていた。
「俺はリセとの婚約破棄を受け入れることはない。……絶対にだ」
獣が牙を隠しながら唸るような声色。その一言で背筋が凍る。
いやでも、待って。
王子は……婚約破棄を受けないと言った?
……いやいやいや、それよりも……。
いま、王子……理路整然と話してない?
まさか――アホが、治ってる……?
「俺を即位させたくば……リセの名誉を回復せよ!」
掲げた右手は、まるで旗印のように高く。
その姿は、戦場で千の兵を鼓舞した『戦場の黒獅子』が蘇ったかのようだった――。




