第百八十五話 手紙
真ん丸の月が、魔王国の空に浮かんでいる。
魔素を多く含んだ独特の雲が、月の光を浴びて幻想的に輝いていた。
元魔王であるマー君を含めた移住希望者たちは、魔王城の広間に集結していた。
念の為に……と、ガリュムが用意した聖統主教会の紋様が刻まれた踏み絵は、これでもかと言う程、ボロボロになるまで踏みつけられている。
ゴレミの悪意探知にも反応が無い。彼等の事は信用して良さそうだ。
しかし……肝心のデスタルトが出てこない!
つまりは結界を開く事が出来ていないと言う事だ。
「マー君、そろそろデスタルトを煽っても良いか?」
「待て、まだ満月は登ったばかりだ」
確かに、数時間の猶予はある……筈だ。
しかし、万が一結界が開かなかった場合の事を考える。単純な引き算なら、一ヶ月でデベロ・ドラゴに必要な魔素が尽きる事は無い。
しかし、ツバサが巨大化した例もある。何が起こるかはわからないのだ。
そんな俺に、ゴレミが耳打ちする。
「英太さま、ここは落ち着きましょう……英太さまが動揺すると、移住希望者が不安になってしまいます。一国の王として、グゥインさまの相棒として、凛とした姿をお見せください」
「……わかったよ」
「そうですよ! 王様には余裕がないと!」
ゴレオは元気よく言ったが、余裕綽々で眠りこけるお見送りのカートの様な大馬鹿者が王に相応しいとも思えない。
「マー君、こいつは叩き起こして良いか?」
「勘弁してやってくれ。此奴も寝る間を惜しんで映画とやらの勉強をしているらしいのだ。儂や英太に見せる為の映画を作るそうだ」
「……それ、『怠惰』スキルに弊害無いですか?」
「安心しろ。奴は仕事もせずに映画制作に没頭しているのだ。なんなら、まだ作り始めてもいない。将来的には魔王国の予算を食い散らかして映画を作る事だろう」
「それ、本当に安心出来ます?」
「マー君、英太様、時間があるならば、私たちが踊りましょうか?」
ハルパラがダンスグループ『サキュバズ』を指して提案する。あのセクシーなダンスは堪らないが、デスタルトの集中を削いではいけない。
「ありがとう。また今度頼むよ」
それから待つ事二時間……
「マー君、もう限界だろ?」
「うむ……しかし……」
その時、ぎゅーん、という音と共に、寝室から強大な瘴気が漏れ出て来た。
「これは……グゥインさまの瘴気です」
ゴレミが言った通り、グゥインの発する瘴気だった。
「マー君、入るぞ」
「少し様子がおかしい。先ずは『漆黒』だけにしろ」
「わかった」
確かにマー君の言う通りだった。すんなりと結界が開かなかったのは仕方ないとして、このギリギリで開くのは……かなり無理をしたのだろう。
寝室の扉を開けると、そこには小さな結界の切れ目があった。そして、その前には結界を広げる為に全ての魔力を放出するデスタルトの姿がある。
「タルト! 大丈夫か!?」
デスタルトはこちらを振り向く事なく首を横に振った。
「英太、ポーションをくれ……」
「わかった!」
俺はグゥインの尻尾肉入りのマジックポーションをデスタルトに飲ませた。枯渇していた魔力が瞬く間に満たされていく。
「何だよこれ? どんだけ上質なポーションなんだよ」
「タルト、結界は?」
「見ての通り、ほんの僅かに繋がった。維持をするのは容易いが、どれだけ魔力を注いでもこれ以上広がる気配も無い」
「隙間だけでも転移魔法は使える筈だ……」
俺はデベロ・ドラゴをイメージする。しかし、転移魔法は発動しない。
「やっぱり無理か……」
タルトはそう言って唇を噛んだ。
「やっぱりって?」
「結界が二重になっているみたいだ。多分だが、昨夜の聖統主教会の隠れ信者が作った」
「魔王デスタルトでも破れない結界を作れるようには見えなかったけどな」
「強大な力を持つ何者かの手によって、本人達の意思とは別に、強制的に術式を発動させられたんだと思う……」
「強制的にって……」
「自らを触媒にしたんだろう」
「デベロ・ドラゴには?」
「もうちょっと頑張ってみるよ。さっきのポーションをいくつか置いていってくれ」
デスタルトはそう言うと、再び結界に魔力を流し始めた。それは、『流す』という生半可なものではなく、全魔力を激しく叩きつけているように思えた。
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マー君と移住希望者に、現状を伝えた。
「ふむ……皆の者よ、全員が今夜結界を通り抜ける事は難しいかもしれぬ……魔王城の敷地内に仮住まいを拵える故に、しばらくの間待機しておいてくれ」
マー君の言葉に、魔物たちは頷いた。勘のいい俺は、仮住まいを作るのが誰になるのかを察していた。
☆★☆★☆★
仮住まいを創造した俺たちは、マー君と共に今後の動きについて話し合う事にした。
「今夜、結界を通り抜けられなかったと仮定しよう……先ずやるべき事はなんだ?」
ゴレミが挙手をする。
「先ずは魔素です。デベロ・ドラゴに魔素を届けなければなりません」
ゴレオも手を挙げる。
「今からでも、人間国に向かえば間に合いませんかね?」
「マー君、デスタルトの立場はわかるが、ここは折れてくれないか?」
「魔王デスタルトが許可を出すならば構わない。しかし、魔物たちを連れて移動する事は、相談役として許可出来ない」
「俺たち漆黒だけでの帰国か……」
「魔素を詰め込んだ魔晶瓶を持ち帰る事が出来れば、それだけでも成果と言えます」
「でも、そうすると、次の一ヶ月はデベロ・ドラゴに滞在するって事になりますよね?」
確かにそうだ。元魔王デスルーシと武神バルカン……その二人を連れて帰れない前提とすると、次の一ヶ月を悠々と過ごす余裕は無い。
「サーシャさまがエルフを連れ帰ってくれる可能性はありますが……」
「いや、それは期待しないでおこう」
エルフ王国でのサーシャの立場自体が危うい可能性もある。
「魔晶瓶を届けて、俺たちは魔王国に残る……重複した結界の件を片づけて、一ヶ月後に万全を期して帰国する……ですかね?」ゴレオが言った。
「再び人間国に向かって、聖統主教会を壊滅させましょうか?」ゴレミが言う。
「それは置いておこう。マー君、俺たち『漆黒』は、デスタルトが結界を開ける開けないに関わらず、滞在を伸ばす……今やるべき事は、魔晶瓶をデベロ・ドラゴに送り届ける事です」
「それだけならば、儂が引き受けても構わない」
「じゃあ、お願いします」
俺はアイテムボックスから魔晶瓶を取り出して、マー君に手渡した。
「しばしデスタルトと話をしてくる……其方らはここで待機しておいてくれ」
そう言うと、マー君は寝室へと消えて行った。
「マー君に任せて大丈夫なのでしょうか?」
ゴレミの言葉は意外なものだった。
「何でだ?」
「いえ、結界の話をするだけでも苦しんでいるのに、自ら干渉するとなると……もしやと思いまして……」
確かに……呪いの発動条件としては、実際に関わる方が重いに決まっている。デベロ・ドラゴに物資を送る事がマー君に及ぼす影響は計り知れない。
「その辺の事は、マー君が一番理解しているだろう。一緒にフレイマ跡地に転移して、俺たちの誰かが結界内に放り込めば問題ないかもしれない」
「間接的な関与は、呪いの影響を受けない……という事ですか?」
「全部可能性の話だけど、マー君やアンカルディアは『発言』に呪いがかけられていた。レミ・タキザワも同様だとして、『記述』に関しても呪いは発動する……それを聞いたり読んだりした者がどうこうしようと、呪いは発動しない……ってところまでは『確定』だよな?」
「はい。少なくとも、マー君とアンカルディアはそう言っていましたね」
「あの、話は変わるんですけど、俺か姐さんが魔晶瓶を持って、デベロ・ドラゴに一時帰国するのはナシですか?」
「確かに……何かあった時を考えると戦力的には痛いが、グゥインたちに現状報告も出来るな」
「代わりにルーフを追い出しましょうか? そうすれば戦力アップです」
「うん、それもアリだな」
「じゃあ、どうします? 姐さんが決めてください!」
「そうですね……グゥインさまのお側に居たいのは山々ですが、私の手で魔素を集めたいと存じます…………」
「どうした?」
「マー君の帰りが遅いとは思いませんか?」
「……確かにそうだな」
俺たちは寝室の扉を開いた。そこには魔王デスタルトにポーションを飲ませるバルゼの姿があった。
「タルト! 結界は?」
「代わり無しだ!」
「マー君は何処に行った? 何を話したんだ?」
「父上……? いつの話だ?」
「ついさっき、デスタルトと話すって言ってここに向かったぞ」
「いや……来てないぞ。バルゼ、心当たりは?」
「……いえ、私には……」
その時、結界の隙間が動き始めた。広がるのではなく、狭まり始めたのだ。
「くそっ……マズいな……」
「タルト! 今回は帰国を諦める! 結界は放棄して構わない!」
「わかった! 悔しいがそうさせて……いや待てよ。英太、魔力と生命力の無いものなら結界を通す事が出来る筈だ……手紙を書け、デベロ・ドラゴに、グゥイン様に伝えなきゃならない事を文章にするんだ!」
確かにそうだ。伝えなきゃ……
えっと……何を……
バルゼが差し出した紙とペンを手に、思考を巡らせる。
「早くしろ! もう持たないぞ!」
デスタルトの声が響く。
俺は最低限の情報を書き殴る。
【グゥインへ
少し遅くなる。
サーシャはエルフ王国に戻った。
移民を沢山連れて行く。
楽しみに待ってて。 英太】
そして、紙を丸めて、結界の隙間に差し込んだ。飲み込むように手紙が吸い込まれ、同時に結界の隙間は完全に閉じてしまった。