全肯定でなんでも「そうですわね」と笑顔で受け入れていた婚約者が妻になったその後
私には愛する人がいる。
婚約者などという汚らわしい存在ではない。
街で花屋を営むクリスという女性で、病気の母親のために独身で店を切り盛りしている健気なひとだ。
だから私の愛を望むなと婚約者に告げたところ、
「ええ、ええ、事情は承知いたしました」
とニコニコして、なんだこの気持ち悪い女はと益々嫌悪感が募った。
しかし貴族の常識として、そしてしがらみとして、結婚せざるを得なかった。
だがこの手に抱くとしてクリスのみと心に決めている私は、キスさえ寸止めし、初夜のための部屋で待っていた婚約者、いや、妻に、
「貴様などに手は出さない」
そう宣言した。
これまで通りなんでもハイハイと聞くと思っていた。
しかし、妻は「ええ、ではそのように」と言ったかと思うとパンパンと手を叩いた。
途端雪崩れ込んできたのは屈強な使用人たち。
そして幼い頃より知っている壮年の医者。
「旦那様は夜が苦痛なのだそうですわ。
ですのでわたくし主導で夜を過ごしますので、ひとまず手足を拘束していただける?」
「はいっ」
何をする!と抵抗しようとしたが多勢に無勢。
ベッドに大の字に固定され、無表情の医者にぷすっと注射された。
「強制的に勃起を促す薬です。
一日に一度程度の投与ならば健康に問題はありません。
これから奥方が妊娠なさるまで毎日「往診」に参りますね」
そうして使用人も医者も部屋を出て、私は……僕は貞操を奪われた。
屈辱の夜を重ねるしかなかった。
父母は汚物を見る目でこちらを見てくる。
本来なら当主の座を譲られているはずなのに、父上は、
「貴族の常識の分からぬ貴様になど誰が当主を継がせるものか」
と、仕事を振ってくれなくなった。
そして、外出は禁じられるようになった。
外へ行くための服は没収され、友人との交流も父か弟が同席し、一人でふらっと出かけることが出来なくなった。
そうしてついたあだ名はボクチャン令息。
成人して妻を迎えても、弟にさえ面倒を見てもらわなければ一人前に振る舞えない未熟者。
それが、僕の社交界での評価になった。
妻は二か月ほどで妊娠し、息子を産んだ。
その後、娘を二人、息子をもう一人産んだところで媚薬の投与も夜の生活も終わった。
同時に、役目は終わりとばかりに僕は領地に押し込まれることになって。
せめて最後に一目だけでもクリスに会わせて欲しいと頼んだら。
「よろしゅうございますが、後悔なさいませんか?
お求めのクリス嬢は三年前にご母堂を看取り、それまで献身的に支えてくれていた肉屋のアルス氏と結婚。
今現在、双子のお嬢様を育てながら、同時に妊娠しつつも肉屋の手伝いをして暮らしているところですけれど。
本当によろしゅうございますか?」
全ての希望が砕ける音がした。
あれから僕は、色褪せた世界で暮らしている。
庭に面した部屋で揺り椅子に揺られながら外を見るだけの生活。
声を出すこともない。
規則正しく生活を促してくる使用人に言われるままに行動するだけ。
どこから、何を間違えていたのか。
考えても分からない。
恋をするって悪いことなんだろうか。
世の中の貴族はみな婚約者に恋をするのだろうか。
婚約者に恋をしなかった僕が悪いのだろうか。
分からない。
なにひとつ。
妻のことだって何一つ分からない。
笑顔の仮面を被って、言葉の表面上は僕を否定しなかった、けれど決められたことは押し通した女性。
思えば名前さえ憶えていない。
おい、とか、貴様、と呼んでいたし。
あいつは僕に恋とかしてたんだろうか。
していなかったんだろうか。
そんなことをつらつら考えながら紅茶を飲んでいたところ、急激な眠気が来て――僕は、二度と目覚めることはなかった。
そう。
始末、ご苦労様でした。
ええ、ひとまず問題は片付きましたわね、お義父様。
息子たちは問題なく育っていると報告もありますし、婚約者とは思春期になる間際に関係を持たせるつもりですわ。
娘たちも同様に。
それにしても、夫も面白い人でしたこと。
貴族に恋だの愛だの必要あると思っていただなんて。
必要だったとして、愛人を囲って本妻は本妻できちんと扱うのが筋というものですわ。
わたくしはそのつもりでよろしゅうございますとお伝えしていたつもりなのですけれど。
けれど、雲行きが怪しいと感じたのでお義父様、お義母様に相談したのでしたわね。
ええ、ええ。
わたくしは幸いそういったことを主導で行うことに抵抗ございませんでしたし、夫も大層弱い人でしたので、苦労はさほどありませんでしたわ。
はしたないことを申し上げますけれど、回数はこなせても持久力もこらえ性もまるでございませんでしたのよ。
おかげで妊娠しやすかったのですけれど。
ふふ。息子の夜の話などなんの面白味もございませんわよね。
申し訳ありません。
流石に他家の夫人に面白おかしく喋る内容ではございませんので、つい出てしまいましたわ。今後はもう秘しております。
ええ、ええ。
わたくしですか?
この家に嫁いだのですから、最後までご指示に従いますわ。
夫が亡くなった以上、置いてはおけぬということでしたら修道院にも参ります。
子が育つまで面倒を見よということでしたらその通りに。
ただ実家に戻されましてもあちらも困りますから、修道院に入る段階までは面倒を見ていただけましたら助かります。
ええ。
わたくしはきちんと「家の道具」でございますわ。
嫁いできた以上、わたくしはこの家のために行動いたします。
お義父様がお望みのように。
そうあることが貴族女性の基本でございますから。