タマの戸惑い
怒った奥様に目を丸くさせた祖父は「ふはははは!!」と大笑いをし始めた。
いきなり大笑いをするのであたしはビクッとした。
何がそんなに可笑しいというのだ?
笑うのをいきなりやめた祖父はさっきまでとは打って変わり、怖い顔に薄笑みを浮かべながら低い声で言った。
「千円などどうでもいい。最初からこの女中を我が屋敷に連れ帰ることは決定事項だ。松尾家は倉島家には逆らえない。何故なら伯爵家の娘である美鶴を妾に貶め、伯爵家の跡取りである龍之介を死ぬ目に遭わせた。上位三位である伯爵家の華族に許されぬ行為を働いたのだからな」
奥様は顔を青ざめさせ、声を震わせた
「……龍之介って……まさかあの龍之介が伯爵家の息子……!!?」
「いかにも。しかしこの女中を差し出すだけでそれらの罪を免除しようと言っているのだ」
「し……しかし……タマはその件とは無関係です……タマを連れていく以外で償いを致しますので……」
「ならば松尾家の全財産を差し出してもらおうか」
「え……?」
奥様は青ざめたまま固まった。
「……財産のことはわたくしの一存では決めかねますので……わたくし個人の預金なら今すぐに差し出せます……!!!」
立ち上がろうとする奥様に祖父が怒鳴った。
「私は松尾家の全財産だと言ったのだ!!」
奥様は青ざめたまま再び固まった。
松尾家の全財産を差し出せば松尾家のみんなと松尾家で働く女中などの使用人全員が生活出来なくなってしまう。
それは嫌だ。
あたしは思わず右手を挙げながら言っていた。
「あたしが伯爵家へ行きます……!!!」
奥様は泣きそうな顔であたしを見た。
「タマ……」
あたしは笑顔で言った。
「贅沢が出来ると聞いて欲に目がくらみました!!龍之介なら絶対に酷いことはしません!!だから行きます!!」
祖父はニヤリと笑うと「よく言った」と立ち上がり、座っているあたしの後ろにまわってきた。
「足が悪いのであろう。私が抱き上げて行ってやる」
祖父はお爺ちゃんなのにズッシリとした大きな身体をしていて、あたしを軽々と持ち上げた。
それを見た奥様は慌てて立ち上がり「タマ……」と泣き出しそうな顔であたしの頬を右手で触りながら祖父に言った。
「主人が帰ってくるまでお時間を頂けませんか……!!?主人と相談をする時間を……!!!」
あたしは咄嗟に「ダメです!!!」と声を上げた。
「あたしはもう伯爵家へ行くと決めました。奥様には良くしてもらってとても感謝しています……一緒にお昼寝幸せでした……優しくしてくださりありがとうございました……!!!」
奥様の目から大粒の涙が転げ落ちた。あたしも泣き出しそうになったけど、涙がこぼれないように踏ん張った。
「奥様にお願いがあります。女中のみんなに挨拶がしたいので連れてきてもらえますか……?あと、あたしの荷物も持ってきてもらいたいです……」
奥様は「タマ……」とつぶやきながら眉間にシワを寄せて真っ赤な目でしばしあたしと見つめ合った後、下唇を噛みしめて諦めたようにうつむくと、廊下を掃除していた女中のおツルちゃんにあたしの荷物をまとめて皆を呼んで来るように言った。
祖父はあたしを自動車の後部座席に乗せると、女中たちが来るまで待ってくれた。その間、祖父は奥様に言った。
「私が連れて来た子はタマさんの代わりに置いていきます。よく働く女中です。きっとタマさんのように気に入ってもらえるでしょう」
奥様は自分の涙をハンカチーフで拭きながら不服そうにつぶやいた。
「タマの代わりになる子なんて……」
そのとき、おツルちゃんがあたしの荷物を持って現れ、自動車の外で立って待っていた運転手がそれを受け取ると、自動車に乗り込みがてら運転席の横に荷物を置いた。
おツルちゃんが不安そうな顔であたしを見ながら「どこかへ行くのですか……?」と問いかけると同時に、女中の皆が「何があったの?」などと話しながらこちらへ歩いて来た。
ヨネは自動車に乗っているあたしと目が合うなり駆け寄りながら大声を出した。
「タマ……!!?どうしたの……!!?どこへ行くの……!!?」
あたしは笑顔をつくった。
「急だがあたしは伯爵家へ行くことになった。だからみんなに挨拶をしたい」
「え!!?なんで!!?昨日せっかく戻ってきたのにそんなの嫌だよ!!!」
ヨネの顔が真っ赤になり、目には涙が溜まりだした。
あたしの目にも再び涙が溜まってきたが堪えながらしゃべった。
「必ず手紙を書く。許可が下りればまた会いにも来る。今まであたしと仲良くしてくれてありがとう……!!!」
ヨネの目からは大粒の涙が転げ落ちた。それにつられるようにあたしの目からも涙が転げ落ちた。ヨネの後ろにいる女中たちも「なんで!!?」「嫌だ!!!」などと泣いていた。
祖父が運転手に「出してくれ」と言うと自動車は出発した。
女中たちは自動車を追って走ってきた。奥様も走ってきた。門番のおじさんも走ってきた。タマ、タマ、タマさん、と泣き叫ぶ声が響いていて、あたしも「みんな!!!元気で!!!」と、悲しみで声が詰まって上手く出せなかったけど精一杯叫んだ。
自動車の窓から顔を出してみんなの姿を見ていたあたしの目からは次から次へと涙が流れて風に飛ばされていった。
みんなの姿がどんどん小さくなって、見えなくなって、あたしは淋しくて悲しくて苦しくて嗚咽を漏らして泣いていた。