3泊4日のいちご狩りツアー
図書館には「死」が詰まっている。
僕たちはそのたくさんの「死」を人生の中で学んでいく。そしてそれを超えた「死」を行える保証もなく、平等に死んでいくのだ。
「……レポートなんて書く意味、あるのかな」
誰も居ない市営の図書館の中で、僕はため息交じりにそう呟く。高校受験を控えた夏、唐突に出された理科のレポート課題を前にして、僕はどうにも気が乗らないでいた。
誰も僕がアインシュタインのような世紀の大発見をするなんて期待はしていない。そう思った瞬間、目の前のレポートが資源の無駄にしか思えなくなってきたのだ。
「もういいや、寝よう」
携帯と財布だけをポケットに突っ込み、筆記用具と水筒を鞄に仕舞うと僕は顔を机に突っ伏して両目を閉じた。
*
目を覚ますと、そこは自然の世界だった。
「どこだよ、ここ……」
図書館の椅子で寝ていたはずの体制はいつの間にかうつ伏せに変わっていて、僕は柔らかな草木の上に倒れていた。
樹木のリアルな匂いが鼻孔をくすぐる。僕は立ち上がって周りを見渡すが、どこも同じように草木が広がっているのみだった。
どうやらここは、森の中らしい。
「夢の中、なのか……?」
ふと思い浮かんだファンタジーな幻想を胸に、僕はゆっくりと茂みの中へ歩き始めた。
「やっと、森が終わった……」
休憩を挟みながら移動を続け、僕は幸運にも開けた草原に到達した。
もちろん携帯は圏外である。どうやら二時間も歩き通していたらしい。時刻は午後三時。ここが日本と同じ時間経過が行われるかどうかは知らないけれど、もうすぐ日が暮れ始めるだろう。膝まで伸びている草木をかき分けつつ、少しずつ前に進む。そして、その先にそれはあった。
「……薔薇?」
不思議な光景だった。
白い薔薇だけがポツリと数本だけ咲き誇っており、その周りの植物は軒並み成長を許されないかのように枯れ切っていた。
「綺麗だ……」
何も考えず、僕は近付き始めていた。
非現実な世界に疲弊しきった中で薔薇を発見し、どこか安心したからなのだろう。どう考えても異様なその光景に僕は何の疑問も抱かなかったのだ。
「――危ない! 逃げて!」
少女の叫び声で我に帰る。そして慌てて伸ばした手を引っこ抜いた。
「……ルデラル族が何の用事だ」
薔薇――、僕が先程まで薔薇だと思っていたその青年は心底残念そうに僕の瞳を覗き込む。
不思議な青年だった。彼の両腕はまるで薔薇の蔓のようにトゲだらけで、僕は危うくその蔓に絞殺されかけたのだ。しかし、それすらも過去にする程の美しい薔薇の花。それが彼の身体を覆い隠すように咲いていた。
それを僕は、何故か美しいとすら感じたのだ。
「首刈りヴァレダだね。それはちょっとやりすぎじゃないかな?」
「それがどうした。俺をこんな辺境まで追いやりやがったルデラル族を恨むのは当たり前だろ」
ヴァレダ、と呼ばれた青年は僕の後ろで勇ましくも立ち向かう少女に焦点を合わせる。
まだ幼さの残る少女だった。年齢は僕の一つか二つほど下と言ったところだろう。綺麗な水色の髪の毛を緑色のリボンで軽く結んでいる。いわゆるツインテールというやつだ。
洋服とも、民族衣装とも呼べる不思議な衣装に身を包んだ彼女は、キッとヴァレダを睨みつける。
「逃げるよ! こっちに来て!」
彼女は僕の腕を掴み、一気に草原を駆け出した。
「……逃がすと思うか?」
ヴァレダはトゲの付いた蔓を僕たちに向かって伸ばし続ける。
僕の首に鋭利なトゲを持つ蔓が巻き付こうとした瞬間だった。僕の身体は何かに掬われたようで、空中へと浮遊する。
「ナイスタイミングだったよ、おじいちゃん!」
「全く無茶をする。おい坊主、幸運だったな。通りかかったのがフラーリアじゃなかったらとっくに死んでいたぞ」
どうやら僕の身体はうつ伏せの状態でハリーポッター顔負けの巨大な怪鳥の足に掴まったまま空中を浮遊しているらしい。夢にしても色々詰まりすぎではないだろうか。
――いや、そろそろ現実を見ても良い頃合いだろう。
僅かだけれど掠った僕の首の傷跡からはあまりにもリアルな血液が流れていて、長い間怪我とは無縁だった僕の心臓は恥ずかしいほどにバクバクと鳴っていた。
「あの、助けて頂いて――」
「お礼ならフラーリアに言ってくれ。あいつが助けると決めたから俺は力を貸したんだ」
どうやら少女の名前はフラーリアというらしい。フラーリアは僕と同じようにもう片方の足に収まっている。
「ありがとう、助かったよ」
「どういたしまして! それにしてもヴァレダの縄張りを堂々と歩いているもんだからびっくりしちゃったよ」
フラーリアは朗らかに笑ってそう答える。
「あの森に迷い込むなんて珍しいルデラル族もいたもんだな」
男性が豪快に笑う。どうやら僕は相当危険な場所にいたらしい。
「あなたの名前はなんていうの? 部族は?」
「名前は道端明人。……ごめん、その部族っていうのが何なのか分からないんだ」
フラーリアは目をキョトンとさせる。
「……どうやら訳ありのようだな。もうすぐ拠点に着く。そこで詳しく話してみるといい」
言うが早いが、怪鳥はゆっくりと下降を始める。まさか帰れる方法が分かるとは思わないが、元の世界へと帰るために情報収集は必要だろう。ここは好意に甘えるとしよう。
*
「驚いたな。つまりこことは全く違う世界から来たっていうのか?」
地上まで怪鳥を操って届けてくれたフラーリアの保護者であろう男性の名前はソルブスさんというらしい。ヴァレダと同じように体中に葉っぱのようなものを纏っており、フラーリアとは対照的に聡明そうな面持ちだ。年齢は四十代ほどに見えるが、かなり健康そうな風体をしている。
「はい。気付いたら森の中にいたんです」
ソルブスさんはじっくりと僕を観察する。怪しまれるのも当然だろう、何しろ助けてもらえたこと自体が幸運だったのだ。ここで見捨てられても文句は言えない。
ソルブスさんは何やら考え込んでしまったようで、ブツブツと唸り出してしまった。僕は助けを求めるためにフラーリアに視線を向ける。
「あはは、おじいちゃんは学者さんだからね。珍しいことには目がないんだよ」
「……人を耄碌みたいに扱うな。何、少し君が不思議な現象に巻き込まれることになった原因に思い当たったもので考え込んでしまったんだ」
「原因、ですか?」
ソルブスさんの口から有力な情報が飛び出てくる。どうやら本当に幸運な出会いを果たしたらしい。
「ああ。この近辺で不可思議な現象が起きていてな。俺とフラーリアはその調査に来ているんだが……。どうだ、一緒に来てみないか? 見たところフラーリアと歳はそう変わらないだろう。少なくとも何の成果も得られないままさっきのような危険に飛び込むよりよっぽど建設的だ」
願ってもない話だった。改めて考えてみれば、何の能力もない僕が元の世界に帰る方法を突き止めるなんて無謀でしかなかったのだ。
「しばらくは俺たちと行動を供にすると良い。この世界について色々と教えてやろう」
そう言うと、ソルブスさんはいきなり羽織っていた衣を脱ぎ始めた。
不思議な身体だった。
人体から小さな白い花が沢山咲いており、それと同時にサクランボのような赤い実が生えていた。不思議にもその光景はヴァレダと同じように違和感は存在しない。まるで人間の構造は最初からそうであったかのような自然な光景であった。
「これを受け取りなさい、ナナカマドの実だ」
サクランボのような小さな赤い実を手渡される。素直に受け取った僕はしげしげとそれを見つめた。これから講釈が始まることを悟ったのか、フラーリアは視界の外で蝶と戯れている。
「これって、さっき空から降りる時にあの怪鳥に食べさせていたものですよね?」
「ああ。俺はこの実を使うことで獣を操ることができるんだ。先ほどのヴァレダという男を見ただろう。俺はアイツのように蔓やトゲを操ることは出来ないが、それと同時にアイツは俺のように獣を操ることはできないんだ」
どうやらこの世界に存在する全員が人を殺せるほどの強力な能力を持っているわけではないことに安堵する。
「……そうだな、少し場所を変えよう。いつまでもここに居ても仕方がない。説明ついでに俺とフラーリアの拠点まで案内しよう」
ソルブスさんはそう言うと、草笛で先ほど俺たちを運んだ怪鳥を二頭呼び出した。
「乗ってみるといい。フラーリア、後ろでサポートしてやりなさい」
言うが早いが僕はソルブスさんに押されて怪鳥に乗り込まされてしまった。そしてその後ろにフラーリアが座る。
「おじいちゃんに貰った実をクチバシの中に入れるんだよ。怖くないから大丈夫!」
成人男性五人分程度の体長の怪鳥に、僕は恐る恐るナナカマドの実をあてがう。すると、意外にも優しく怪鳥は少しだけクチバシを開いたので僕はその中に実を落とし込んだ。
ゆっくりと怪鳥が飛行を始める。ソルブスさんも同じタイミングで飛び始め、僕たちを乗せた怪鳥は足並みを揃えながらゆっくりと飛び始めた。
「悪くない乗り心地だろ? 危なくなったらフラーリアが修正するから自由にやってみるといい」
フラーリアに教わりながら、少しずつ怪鳥の乗り方を頭に溶かし込んでいく。幾分か経って移動が安定してきた頃、ソルブスさんが口を開いた。
「……そろそろカクトス一族の縄張りだな。そろそろ部族の説明をしよう。フラーリア、操縦を代わってやってくれ」
フラーリアが器用に僕の前へと移動する。
「この世界には三つの部族が存在する。順番にコキュラス族、レジスタ族、ルデラル族の三部族だ。この三つの種族は元々は同じ部族だったと言われているが、長い年月によって分裂してしまったとされている」
僕たちの世界で言う人種の違いのようなものだろうか。
「その原因となったのは、特徴の差だ。コキュラス族は軽く説明したな、俺やヴァレダがその例だ。コキュラス族はその大きな特徴を武器に他部族を寄せ付けない。ヴァレダのように邪魔する敵を排除することで食物や栄養を独占することが出来るんだ」
ソルブスさんも謙遜してはいるが、最も強い部族だったことに少し驚く。よく考えてみれば怪鳥を操ることが出来るのだから、その特徴はかなり大きな力と言えるだろう。
「そしてあそこに見えるのがレジスタ族を代表する一族、カクトス族。彼らはコキュラス族に対抗するため、コキュラス族が生存できない劣悪な環境で生きることを選んだ部族だ」
砂漠のような生物の生存を許さない環境。そこにはまるでサボテンのような、ゴツゴツした緑色の特徴的な身体をした人々が集っている様子が目に入った。
「そして最後はルデラル族だが……」
ルデラル族。ヴァレダが僕とフラーリアを見て呼んだ名称である。
「何の特徴もない、一般的な部族だ。フラーリアを見れば分かると思うが、別の世界から来たという君と身体の構造もあまり変わらない。だからヴァレダは君をルデラル族だと勘違いしたのだろう」
一瞬だけフラーリアの顔が曇った気がした。確かにフラーリアの身体は僕とそう変わらない。ところどころに緑色の小さな蕾が生っている程度だろう。
「フラーリアとソルブスさんは血縁者ですよね。生まれた瞬間に部族の違いが出るようなものなんですか?」
「いいや、そんな事はない。基本的にその特徴は受け継がれる。……こう説明すると誤解が起きるな。俺とフラーリアに明確な血の繋がりはない。まあ、保護者のような間柄だと思ってくれていい。フラーリアは部族の差なんて感じさせない程に優秀だ。今は助手として俺の研究を手伝ってもらっている」
ソルブスさんが豪快に笑い飛ばす。
「血は繋がってなくても、おじいちゃんはおじいちゃんだからね!」
天真爛漫なフラーリアに、僕もソルブスさんも自然と口が綻んだ。
「さて、ここからが本題だ。先ほど君の巻き込まれた現象の原因が分かるかもしれないと言っただろう。最近、この当たりの区域でコキュラス族やレジスタ族の縄張りがルデラル族に侵されているという噂があってな。その調査のために俺たちはこの辺りで調査を行っていたというわけだ」
「ヴァレダも言っていたでしょ? 俺をこんな辺境まで追いやりやがったルデラル族を恨むのは当たり前だって」
言われてみればそうだ。コキュラス族の中でも相当力の強そうなヴァレダが、最も弱いとされるルデラル族に縄張りから追い出されるのはどう考えてもおかしい。
「そして、ルデラル族の中である青年についての噂が飛び交っているんだ。――その男は、ルデラル族であってルデラル族ではない。叡智を司り、万物の理を知る真のルデラル族である、と。俺はこの存在がルデラル族に起きている異変の正体であり、君をこの世界に巻き込んだ原因であると睨んでいる」
ルデラル族であって、ルデラル族ではない。
僕にはなぜか、それが僕と同じ世界から来た存在であることを直観することができた。
*
僕がこの世界にトリップしてから三日が経過した。
どうやら目的の場所へはかなり遠いらしく、ソルブスさんたちの拠点で一晩を明かし、僕たちは怪鳥に乗って移動を重ねていた。現在フラーリアは食料や薪を求めて森の探索を行っている。
僕はキャンプの準備をするソルブスさんを手伝い、火に薪をくべていた。
「……フラーリアは、どうしてヴァレダに襲われていた僕を助けてくれたんでしょうか」
たった三日だが、この世界に慣れ始めていた僕は改めてヴァレダは危険な存在であることを理解し始めていた。
「何だ、まだ気にしているのか。どうやら坊主の世界とこの世界では「死」に対する大きな価値観の違いがあるみたいだな」
「……価値観の違い、ですか」
「ああ。この世界で「死」は当たり前のように存在する。だからこそ、フラーリアの行動は正しかったと俺は思うね。それでフラーリアが命を落としたとしても、な」
理屈は分かる。だけど、納得はできなかった。
正直者が馬鹿を見るのはどこの世界でも変わらない。特にこんな、死が身近にある世界では。
「……昔話をしてやろう」
ソルブスさんが果実を幾つか取り出して僕の隣に置いた。
「フラーリアの親はルデラル族じゃない。由緒正しいコキュラス族だ。だけどな、偶にいるんだ。血縁関係にも関わらず咲かすことのできない人間が。フラーリアの親はフラーリアを捨てた挙句、虐めていたルデラル族に復讐された。フラーリアを捨てた直後だったというのも皮肉な話だ。案外、ルデラル族たちはそれで決心をしたのかもな」
「……けど、フラーリアはルデラル族だって」
「俺がそう名乗るように教えたんだ。出来損ないのコキュラス族として一生を過ごすより、ルデラル族として過ごした方が良い人生を歩めるってな。むしろ、コキュラス族がルデラル族を下等な存在として扱っていること自体間違っているんだ」
「ソルブスさんはどうして、コキュラス族なのにルデラル族を差別しないんですか?」
「……昔、ルデラル族に命を救われたんだ。それからは三部族の共同のために運動を行ったが意味はなかった。幸い俺は人望はなかったものの頭は良かったからな。学者として生計を立てている内にこの騒動だ。ルデラル族が力を手に入れたのならば、それを良い方向に導きたい。――どうやら坊主には難しかったようだな、そろそろ飯の時間だ」
ソルブスさんは作業に戻って行く。僕はふわふわした気持ちの中で、ゆっくりと日が沈む光景を見ていた。
*
「……驚いたな。この辺りは群雄割拠のコキュラス族の縄張りだったはずだが、見渡す限りルデラル族だ」
翌日、ようやく目的の場所へと辿り着いた僕たちは調査を始めていた。
ルデラル族が活気を見せるその場所は現在、ルデラルの都と呼ばれているらしい。誰がどう見てもルデラル族にしか見えないらしい僕とフラーリアと、白い花と実を隠せばルデラル族に見えるソルブスさんはすんなりと入ることが出来た。
「駄目だ、どこもかしこもお祭り騒ぎで話にならない」
活気溢れる街の中を、僕たちは噂の男を捜すために情報収集しながら前に進んでいく。
「どうやら部族のリーダー格以外に情報は出回っていないようだな。少しリーダー格を見つけて話を聞いてくる。お前らはここで情報収集を続けておいてくれ。おい坊主、フラーリアをよろしく頼むぜ」
ソルブスさんはそう言って人込みの中へ消えて行った。
「アキト、先に何か食べようよ。お腹が空くとやる気が起きないよ」
いつの間にかフラーリアもお祭り気分になっていたようだ。確かに小腹が空いてきている。適当な露店を見つけて少し休憩してから調査を開始しても許されるだろう。そう考えながら辺りを見渡し始めた矢先だった。
「君、日本人だよね。ボクはアインシュタイン。多分君がこの世界にトリップした原因は俺の発明品だよ」
一瞬、何も反応できずに固まってしまった。フラーリアも理解が追い付いていないようで、何やら既に口にくわえていたイカ焼きのようなものをモシャモシャと咀嚼する音だけが辺りに響いている。
「アイン、シュタイン……?」
目の前に現れた青年は見るからにこの世界にとっては異常な存在だった。明らかに外人と分かる顔立ちに、古き西洋を感じさせる洋服に包まれたその青年はニコニコと僕の顔を見て笑っている。その姿を見て、僕はそういえばアインシュタインはドイツ人だったな、なんてことを思い出していた。
「そうだよ。もしかしたら君の時代の教科書にも載っているかもしれないね」
僕はすぐにこの青年が、僕と同じ世界から来た存在であることを直観することができた。
「……ちょっと待ってください。トリップって言いましたよね。一体ここはどこなんですか? それに、アインシュタインはもうとっくに死んでいるはずです」
「ここはボクたちが元いた世界の並行世界さ。君も薄々気付いているとは思うけど、彼らは僕たち人類とは別の進化を遂げた存在だよ」
並行世界。僕たちの生きている世界と並行して存在するとされるイフ世界のことである。
「そして次に、君の居た世界のボクはボクであってボクじゃない。彼は別の並行世界で戦争によって巻き込まれて死ぬはずだったボクだ。君の世界のボクは戦争に対して非常に批判的だっただろ? そりゃそうだ。彼は戦争で死ぬはずだったからね。そんな慈善活動に燃える彼を残してボクは並行世界の旅に出たというわけだ」
何とも荒唐無稽な筋書きだった。
「最後に、君がこの世界にトリップした理由に繋げよう。これはボクがここで無為な時間を過ごしている説明にもなるしね。この世界における彼らは、ボクたちの世界における人間とは別の進化を遂げた人間だというのはもう言ったね。その中で、君も知っている植物の特徴を持った人物もいただろう。ボクが並行世界へトリップに成功した際、最初に出会ったのがルデラル族だったんだ。彼らの存在はボクにとって非常に興味深いものだった。コキュラス族に対抗する特徴を持たず、それでも必死に生に縋りつく彼らを見てボクは確信したんだ。彼らはボクたちの世界で言う『雑草』なんだと」
「ざっそう……」
驚きの余り、僕とフラーリアは同時に反復してしまう。
「ボクが彼らに持っている知識を見せびらかしていると、彼らは次第にボクを利用しようと考え始めた。彼らはボクのマシンを奪い取り、ルデラル族の興隆のために協力するように恐喝したんだ。彼らも必死だったんだろう。ボクは幸い『中程度攪乱仮説』というものを知っていた。『中程度攪乱仮説』というのは、悪条件が中程度で揃うと番狂わせが起きやすいという理論なんだけどね。例えばテストで数人が下剤を呑んで腹を下すとするだろ? そうすれば頭の悪い生徒でも順位が上がる可能性が出てくるわけだ。これは小さすぎても大きすぎても駄目だよね。腹を下した生徒が少なすぎるとあまりにも小さな変化だし、多すぎるとテストが延期される可能性が出てくる。君たちも既に番狂わせに出くわしているんじゃないかな? 君の存在だってその一つだからね。運勝負となると生き残るのは攪乱耐性の高いルデラル族だ。この辺りを牛耳っていたコキュラス族やレジスタ族は逃げてしまったようだね」
どうやら僕は、番狂わせでこの世界にトリップしてしまったということらしい。
「……おっと、話が長くなってしまったようだね。ボクはこれから君を元の世界に帰すためにマシンを使用していいか交渉してみることにしよう」
言いたいことだけ言い残してアインシュタインは去って行ってしまった。
「これで帰れる、のかな……?」
何とも言えない表情でフラーリアが僕に微笑みかける。詳しい事情は分からないが、どうやら僕は元の世界に帰れるらしい。余りにもポンポンと話が進んでしまったために未だに実感はできていなかった。
現在、僕たちは公園のような場所でソルブスさんを待っている。来る途中に集合場所として決めておいた場所だ。
「それはそれで、少しだけ寂しいな」
フラーリアが真顔でそう呟く。
やめて欲しい。そんなことを言われたら帰りたくなくなってしまう。
考えてみれば、帰る理由なんてどこにもないのだ。何もない世界に帰るよりも、この世界で過ごしていたいと思ってしまう。フラーリアと、ソルブスさんと三人で。
――いいや、僕は元の世界に帰らなければならない。そうしないと、永遠に彼女たちに世話をかけることになる。
「――向こうが騒がしいけど、どうしたんだろう?」
フラーリアが立ち上がって遠くを見渡す。言われてみれば騒がしい。僕も同じように立ち上がって視線を向ける。
その先に広がっていた光景を見て確信する。この世界は僕を簡単に返す気は更々ないということを。
轟音。悲鳴。そしてその繰り返し。
目の前で何人ものルデラル族の人間が血飛沫を上げて死んでいく。そして、その先に見えるのはヴァレダだった。他にも同じコキュラス族らしき青年たちが暴れ回っている。まるで地獄絵図の様だった。
ヴァレダは僕たちを視界に入れると、口元を釣り上げて僕たちへと少しずつ近付き始めた。
「……復讐に来たんだね」
「ああ、ここは元々俺たちの都だ。それをコイツらが奪ったから取り返しに来た。当たり前だろ」
「……そうだね、当たり前だ」
静かな笑みを見せるフラーリアに、ソルブスさんの話を思いだす。
フラーリアはヴァレダの向けるトゲに一切怯えずに前へと一歩踏み出す。
「復讐は連鎖するよ。次の復讐を生み出すんだよ。それならわたしは、苦しむのは、わたしだけで良い」
「お前はバカだな。そんな奴らから真っ先に死んで行くんだ」
フラーリアに視線を向ける。表情だけで「逃げて」と言っていることが分かった。泣きそうなその顔で。僕の罪悪感を和らげるために笑顔まで残して。
だから、身体は自然と動いていた。
「何で……」
「いいから早く逃げろ!」
ヴァレダの蔓を思い切り引きちぎり、全体重を持ってヴァレダにのしかかる。トゲが掠って尋常じゃない痛みが全身に蓄積してい
く。
「フラーリアはバカなんかじゃない。馬鹿なのはフラーリアみたいな人間を苦しめる世界の方だ」
目の前を血飛沫が飛んでいく。どうやらあれは全部僕の血らしい。僕にしては思い切った最後を迎えれたことに何故か少しだけ安堵してしまう。
僕の存在が少しでもフラーリアの力になれるなら、僕のこの命は惜しくない。だから……、フラーリアはこの世界に必要な存在なんだ。
僕は今、思っているのか。喋っているのか。
朦朧としていく意識の中、僕は確かに見た。
フラーリアの全身を不思議な光が包み込み、緑色の蕾が白い花へと生まれ変わっていく。そして見たことのある赤い果実が生り始めた。
空間そのものが、その果実が放つ特有の酸味に包まれていく。
「バカな、お前はルデラル族のはずじゃ……」
怪鳥が、獣が。その香りに引き寄せられてフラーリアを守るように集まっていく姿が見えた。
ありがとう。
フラーリアの口が、そう動くのが見えた。
*
「――そろそろ閉館の時間ですよ」
聞き慣れない声の女性に起こされ、僕は眠りから目覚めていく。
「痛っ……」
寝違えたのか、全身に強い痛みを感じた。長い夢を見ていたらしい。携帯を見るととっくに閉館の時間は過ぎていた。いつの間にか身体に毛布が掛けられている。
「心地良さそうに寝ていたわね。館長がもう少し寝かせてやってくれって。このジュースは私からの奢りね。それ飲んだら早く帰りなさい」
どうやらこの世界もまだまだ捨てたものじゃないらしい。全く進んでいなかったレポート用紙を鞄に仕舞った僕は、植物図鑑の貸し出しを済ませるとお礼を言って館内から退室する。その姿を見て館長らしき女性が一握りのバスケットを僕に手渡した。
「近くの農園からお裾分けに沢山戴いたの、勉強の合間に摘まんだらどうかしら」
バスケットの中には、一杯にイチゴが積まれていた。
「……ありがとう、ございます」
それを見て、僕は何故か少しだけ泣きそうになったのだ。