8 「風まかせ」
〜第一章 緑〜
考え事に耽っていた私の前には、いつの間にか、私より幾つか年下と思われる子供が立っていた。
その子供は、少し色の濃い髪を二つ結びにして、ダボっとしたシャツに短パン、革のブーツを履いている。男の子のような服を着ているが、くりくりした猫目で、可愛らしい顔立ちの女の子だ。
「あ、ごめん、びっくりしたぁ? ボクは、ラス。よろしくねぇ」
「わ、私は……」
「知ってるよ、虹色のお姉さん。ボクもセオみたいに、パステルって呼んでいい?」
「え……? は、はい、大丈夫です」
……何故、私の名を知っているのだろう。セオのことも知っているの? それに、いつの間に、どうやってここに来たのだろうか。
ラスと名乗った子供は、何故か呼び捨てにしてはいけないような気がした。何だろう……見た感じは普通の子供のように見えるのだが、逆らってはいけないような、ちょっとした威厳……というか、オーラを放っている。
色々質問したいことはあるが、私は、とりあえず現状を把握することにした。
「あの、ラスさんは、どうやってここに……?」
「やだなぁ、君のお友達に出来て、ボクに出来ない訳ないじゃない」
「えっと……」
「色々聞きたいことがあるのは分かるんだけどさ、ちょーっと急ぐんだよね。君のお友達のセオ、今少し困った事になってるみたいなんだけど。ボク、今からセオの所に行くけど、パステルも一緒に行く?」
「セオが……!? 行きます……!」
「へえ、即答だね。おうちのことはいいの? 誰かに言伝する時間ぐらいなら取れるけど」
「……では、書き置きだけ、急いで置いてきていいですか?」
私はポケットからメモ帳とペンを取り出してみせる。
「んー、それなら、ここで書いてくれれば君の部屋まで飛ばすよ。幸い、窓が開いてるみたいだから」
「……わかりました」
やはりラスと名乗る子供も、魔法使いのようだ。私は、外出する旨をさらさらと記して、それをラスに差し出した。
「お願いします」
「はいよ、任せて」
ラスはメモを受け取ることなく、指先をくるりと回す。ぴゅん、と一瞬強い風が私の指先を掠めると、メモは私の手を離れ、私の部屋に向かって飛んでいった。
「テーブルの上でいい? 窓は閉めとく?」
「はい、テーブルの上でお願いします。窓も……お願いします」
「はいはいーっと。ラスたん大サービス〜♪」
セオに会いに行くのだから、窓を開けておく必要はないだろう。私がそうラスに頼むと、すぐさま部屋の窓が閉まった。ラスは、もしかしたら、セオよりも力のある魔法使いなのかもしれない。
「じゃあ行こっか。パステル、ボクにつかまって」
「は、はい。あの、セオは何処に……?」
「それ聞くぅ? 着いてからのお楽しみにしよーよ?」
「は、はぁ……」
「行き先はぁ〜風まかせ〜♪ さて行っくぞぉ〜♪」
私がラスの手を取ると、ラスは楽しそうに歌いながら、ぶわりと宙に浮いた。セオの時と同じく、私達は光に包まれる。セオの魔法よりも眩しく、濃い色の光だ……これが何色なのかは判別出来ないが。
「ところでパステルさぁ、君の嫌いな『外の世界』へ行くけど、抵抗ないわけ?」
「あ……そういえば……」
ラスは宙に浮かんだまま私に聞いた。横目で、私を探るように見ている。
私達の周りは眩しい光に覆われていて、今自分が何処にいて、どういう状態なのかも見えない。音も完全に遮断されていて、ラスの声と自分の声が響くだけだ。
「セオが困っているって聞いたら、居ても立っても居られなくて……。考えていませんでした」
「へぇー。正直言うと、パステルが来るか来ないかは半々かなって思ってたんだ。まぁ、ボクとしては来てくれた方が楽しそうだったから、良かったけどね」
「……あの……」
「あ、ボクが何者かって? それはダメダメ、タブーだよ。今明かしちゃったら面白くないじゃん?」
「……そう、ですか……」
とにかく只者ではない事は確かである。そのうちラスが何者なのか、分かる時が来るだろうか。
「さて、そろそろ着くよ。んー、先に言っとくけど、普通の御令嬢にはすこーし怖い場所かもしれない。心構えしといてね」
「……はい」
……何だろう、心構えとか……ちょっと怖い。
でも、セオのため、セオのため……と心の中で繰り返すと、少しだけ勇気が湧いてきた。
そうしていると、辺りを覆う光が一層強くなり——少しして、パッと消えたのだった。徐々に周りの景色が見えてくる。どうやら、石のような煉瓦のような、硬質な素材で周りを囲まれているようだ。
まだまだ地面まで距離があるようだが、ラスと私はゆっくりと降下していく。降下するにつれて、陽の光は届かなくなってゆき、視界が徐々に悪くなっていった。
ふわりと着地すると、ラスは私の手を離した。何だか、薬品のようなツンとする香りが漂っている。ただでさえ不安なのに、この視界の悪さと香りが、恐怖を掻き立ててくる。
「ここは……?」
「長居は出来ない。サクッと行くよ」
その瞬間、ゴゴゴ、という石がずれるような、低く重い音が辺りに響く。ラスが扉を開いたようだ。ここは普通に歩くにはあまりにも暗くて、私にはもう殆ど何も見えない。
「あの、ラスさん、見えないです……」
「あ、そっか。パステルには暗いね。でも、見つかるとまずいから、明かりは点けられないな……じゃあパステル、ボクに掴まってて」
「はい……。ごめんなさい、私の眼がこんなだから……」
「……ねえパステル。その眼……」
「……?」
「……いや、何でもない。さあ、ボクに掴まって。ほら」
私はラスの声を頼りに、手を伸ばす。そしてラスの左腕に掴まると、ラスはゆっくり歩き出した。私が躓かないように、足音を立てないように、と苦労しながら歩いていると、隣を歩くラスがくくく、と笑いを零す。
「言うの忘れてたけど、あいつ、歳取ってて耳は聞こえないから、会話も足音も気にしなくて大丈夫だよ。ついでに言うと、この匂いのせいで鼻も馬鹿になってるみたいだから、明かりさえ気をつければ問題ナシ」
「そ、そうなんですか。……あの、あいつ、って?」
「番犬だよ。ここの主が飼ってる」
「犬……?」
「くふふ、犬なんて可愛らしいものだったらこんなに警戒しないって。さて、そろそろだ。この扉の向こうだよ」
私にはまるっきり見えないが、ラスはそこにあるらしい扉を開いて、私を誘導した。今度は木の扉だったようだ。キイ、と小さな音が鳴る。
扉を閉めると、ラスは手に小さな明かりを浮かべた。魔法の明かりだろうか、明るいが熱は感じない。外に明かりが漏れないように、ラスは扉を背にし、胸の前で抱えるようにして、最低限見える程度の明るさで照らしてくれている。
そこは、完全に閉ざされた部屋だった。部屋の中には何もない。石造りの、小さな部屋である。
――その無機質な冷たい部屋の真ん中。
セオは壁に背をもたれて、力なく床に座っていたのだった。