65 「名も無き闇」
唐突に誘われた過去の世界は、同じく唐突に終わりを迎えた。
ここは、藍色に染まった世界。
点々と、夜空に瞬く星のような輝きが周り中取り囲んでいて、世界は真っ暗なはずなのに、目に映るすべてが燦然としている。
「――我が闇の神殿は気に入って貰えたかな」
突如、何もない所から低く深い声が聞こえてきた。
辺りを見回すと、明るく輝く星の海で、一箇所だけぽっかりと穴が開いているかのように暗い部分がある。
声は、そちらの方から聞こえてくるようだ。
「闇の精霊様……?」
私がぽつりと問いかけると、闇は収束し、人の形を取った。
それは人の形を取ってはいたが、全身が藍色で、不確かである。
ただ、強烈な存在感だけがそこに在った。
「左様。我は姿も無く、名も無き闇。名無しの、精霊」
名無しの精霊――闇の精霊ナナシは、ゆったりとした深い声で続ける。
「闇は、光と対逆。光が未来への希望なれば、闇は過去への悔恨。
汝らは今回、過去から学び、自らと向き合い、上手く立ち回った。楽しませてもらったぞ」
闇が、嗤った。
「汝に過去に戻りて何を望むかと問うた時のことを覚えているか?」
――『汝、戻りし先で何を望む?』
そう問われた時のことを思い出し、私は、深く首肯した。
――『私は、セオのいる未来しかいらない。セオが助かるのなら、どんなに大きな代償を払っても構わない』――私はそう答えたのだ。
「我はその代償に、虹の眼に宿りし全ての魔力を貰い受けた。
さらに、戻りし地点までの記憶と、大切な思い出をひとつ、預かった」
その大切な思い出というのが、セオと婚約を結んだ時の記憶。
だから、私はセオを友達だと言って――セオを傷つけた。
闇は、セオの方へと視線を向ける。
「そして我は空の神子を試した。汝は、虹の巫女の強さに釣り合う覚悟と、深い信頼を持っているのだな。
――くく、実に良い余興だったぞ。我は、満足した」
闇は、ひとしきり嗤うと、ゆったりとした余韻を持たせて、再び話し始めた。
深く深く、引き込まれてしまいそうな声だ。
「闇。過去への悔恨。後悔からの学び」
曖昧模糊としたその輪郭を揺らし、闇は大仰に手を広げるような動作をした。
「人は失敗すれば後悔する。
それを活かすも殺すもその者次第。
そして人には文字があり、歴史があり、先人達の知恵がある。
――それを活かすも殺すも人間達次第」
闇が、ゆらめく。
闇はゆるりと、手を下ろす。
「人は斃れて、星になる。
星は人を導く。
過去を重ねて、現在がある。
それでも上手くいかぬ時は、人を導く巫女の呼びかけになら応えよう。
ただし、汝の魔力を以てしても、過去に戻れるのはあと一度きり。そして、あまりに長い期間は戻せぬ。よく考えて使え」
闇が、光を呑み込んで膨らんでゆく。
「虹の巫女よ。汝の眼に宿りし魔力、なかなか上質な物だったぞ。
『旋律の巫女』の音よりも純で、『調香の巫女』の香よりも優しき魔力だ。
また我に魔力を捧げに来る日を、楽しみにしている」
世界が闇色一色に包まれ――
ふっと、呆気なく消えた。
後に残された景色は、見覚えのある秘密基地だった。
石造りの地下室。
落書きの跡。枯れ果ててバラバラに散らばった花束。
虫取り網と、空っぽの虫籠。古ぼけた人形、色褪せた布切れ。
転がっている二脚の丸椅子。
中央には木のテーブル、そしてその上にポツンと置かれている、女児用の可愛らしいおもちゃ箱。
私はおもちゃ箱を恐る恐る手に取る。
この中に、母から託された鍵が入っているはずだ。
「パステル、開けてみたら?」
なかなか動かない私を不思議に思ったのか、セオは私の顔を覗き込みながらそう促した。
「……うん。開けるよ」
古いからか、開ける際に小さな抵抗があったが、おもちゃ箱は難なく開く。
中に入っていたのは、おもちゃの宝石、可愛いボタン。
レースのリボンに、毛糸で編まれた花のブローチ、よく跳ねるボール。
父と母と私の三人の絵姿が描かれたロケットと、母に託された小さな鍵。
それから、子供の頃にセオが描いたと思われる絵と、私が描いたらしい絵が、小さく折り畳まれて入っていた。
私は、ひとつひとつ、ゆっくりと手に取って眺めていく。
だが、思い出が蘇ろうとする度、途端に靄がかかってぼやけてしまう。
笊で水を汲んでいるように、いくら掬ってもこぼれていって、後には何も残らない。
やはり封じられた残りの『色』を解放しないと、記憶も戻ってこないのだろう。
それでも、ロケットが手に入ったのは僥倖だ。
磨いてチェーンを交換すれば、これからはいつでも父と母の顔を眺めることができる。
「この絵……」
セオは、子供用の画材で描かれた二枚の絵を見て、恥ずかしそうにしている。
私も一緒に覗き込むと、二枚ともセオと私が描かれていた。
手を繋いで、にこにこしている絵だ。子供らしく、拙いが可愛らしい。
描かれたのが『虹の巫女』を継承する前だったため、私の髪はロケットの絵姿と同じく、黄色で塗られている。
確かに、自分が描いた拙い絵を見るのは、少し気恥ずかしいものがある。
「……確かにちょっと、恥ずかしいね」
私が思わずそう呟くと、セオはこくりと頷き、二枚の絵を丁寧にたたみ直した。
「……ねえセオ。あの時、月が綺麗だねって言ったでしょう? それって――」
「い、言わないで」
セオは珍しく慌てて、私から顔を背けた。
……これ、知ってたな。
この言い回しは、とある異国で口説き文句として有名なのだそうだ。
セオも王族だから、外交教育の一環で、こういう言い回しには注意しろとか習っていたのかもしれない。
「死んでもいい――」
「――え?」
「そう返せたらお洒落なんだろうけど、二人で生きて、幸せにならなくちゃ。ね、セオ」
「……うん。そうだね。その方が、ずっといい」
セオは振り返って、一瞬驚いた表情をした。
しかし、すぐに柔らかく微笑み、私の頭を撫でる。
「僕、改めて気が付いたよ。僕の心には、ずっとパステルしかいなかったんだなって」
「セオ……」
セオは、私の髪を一房手に取って、愛おしげにその髪に口付ける。
その仕草ひとつひとつに、確かな想いが込められていて、幸福感が私を満たしていく。
「私も、だよ。セオ、約束を守って、迎えに来てくれて――ありがとう」
「うん」
セオは、嬉しそうに笑った。
その笑顔が、九年前の笑顔と重なる。
豊かな表情を見せてくれる、私の大切な人。
――セオの感情は、もうほとんど完全に戻っているのだろう。
地下室から外へと出ると、柔らかな日差しが降り注いでいる。
少し肌寒いが、湖から吹いてくる風は、優しく穏やかだ。
二人で地下室の扉を丁寧に戻す。
もう、一度開けた扉は、その室内を守ってはくれないだろう。
持ち出せる物だけセオの魔法の家に収納し、もう一度四つの墓碑に祈りを捧げて、私たちは立ち上がった。
――その時。
「にゃーん」
背後から猫の鳴き声と、がさりという小さな音が聞こえてきて、私とセオは後ろを振り返る。
「……セオドア殿下」
そこには、ぽかんと口を開けている大柄な男性が立っていたのだった。
年齢は、三十代後半だろうか。
よく鍛えられた筋肉質な体つきで、濃い色の髪は短く刈り上げられている。
その逞しげな顔立ちに似合わず、なんとも間の抜けた表情をしている男性——その手には花束が抱えられ、肩には真っ黒な猫が乗っている。
「……カイ?」
カイと呼ばれた男性は、セオの一言で我に返ったようで、その場に跪いた。
猫は驚いたのか、「ふにゃっ」と一声あげて、カイの足元にするりと着地した。
……この人、どこかで見たような……?
いや、それよりも気になることがある。
「セオ……ファブロ王国の騎士様と、知り合いなの?」
そう、この男性の着ている服は、紛れもなくファブロ王国の騎士服なのだ。
ファブロ王国はエーデルシュタイン聖王国と国交を持たない。
セオとこの人物が知り合いなのも、彼がセオに跪いている理由も、謎である。
「カイは、何年か前まで聖王国の騎士だったんだ。元気そうだね」
「ええ、ええ……! 殿下こそ、よくぞご無事で……!」
カイは、精悍な顔いっぱいに笑顔を浮かべ、喜びを顕にしている。
足元にいた黒猫はしばらくこちらをじっと見ていたが、再びカイの背中を登っていき、澄まし顔で定位置に収まった。
「……あ、思い出した」
その顔を見て、私は突然思い出した。
カイという騎士は、過去の記憶でエレナと話していた男性——セオを馬車に乗せ、聖王国へと連れ帰った人物、その人だ。
ここにある四つの墓を造ったのは、彼なのだろうか。
王都から遠いこの地に、わざわざ墓参りに来たのか。
そもそも、彼がなぜ聖王国を離れ、ファブロ王国の騎士団に所属しているのか。
数々の疑問が渦巻いてくる。
——私は、私とセオが何か大きな流れの中に既に組み込まれていることを、感じざるを得なかった。
それは、運命というべきか、宿命というべきか。
空はどこまでも繋がっている。
今はただ穏やかに遠く澄みわたって、風が薄い雲をゆっくりと運んでゆく。
けれど、何かが大きく動き出すその時は、案外遠くないのかもしれない。
〜第四章・終〜