29 「聖王」
「聖王、フレデリック様……!」
メーアは、大きな亀と共に海岸に佇むフレッドを見て、震える声でそう呼んだ。海岸には間断なく高い岩の壁が聳え立っていて、打ち付ける波をしっかり防いでいる。突然現れたこの岩壁は、恐らくフレッドの土魔法によるものだろう。
——聖王。
それは、エーデルシュタイン聖王国を治める王の称号である。
エーデルシュタイン聖王国は、ここベルメール帝国からはるか北、ファブロ王国よりも更に北に位置する国だ。
聖王国には不思議な伝承が多く伝わっており、精霊信仰も王国や帝国より盛んである、と古い資料に記されていた。だが、近年の情報については入手することは出来ていない。私の生まれ育ったファブロ王国が、周辺国と国交を断絶しているためである。
「……懐かしい響きじゃのう」
フレッドのその言葉は、聖王であるということを肯定するものであった。
「え……聖王? フレッドさん、いえ、フレデリック様? 聖王様……?」
「元、じゃよ。面映いから今まで通りフレッドでいいぞい、パステル嬢ちゃん」
フレッドは笑いながらも、気まずそうな表情を浮かべている。私の頭の中は大混乱である。
——入国する時に提出した封筒に捺されていた印璽。何処かで見たことがあったような気がしていた。
あれは、聖王国の、王家の紋章だったのだ。
だからこそ、あれ程スムーズに入国出来たのだろう。聖王国の王家のお墨付きを貰った人間だ、というこれ以上ない身分証明なのだから。
「フレデリック様……あなたは十年以上前に亡くなられたと聞いていましたが」
メーアもまだ動揺しているようではあるが、流石に冷静な対応だ。高慢な態度は見せず、丁寧な物腰でフレッドに問いかけた。
「ああ、巷ではそうなっとるようじゃな。風の精霊を助けるために出かけたら、数年かかってしまってのう。戻ったらすでにワシの兄が即位しておった。ワシは死んだことになっておったし、いきなり戻っても混乱するからのう。そのまま国を出て、静かにスローライフを満喫しとったという訳じゃよ」
フレッドの説明を聞きながら、私は考えを巡らせた。
フレッドが元聖王。
聖王は聖王国の王様。
フレッドはセオの祖父。
つまり、セオは……
――セオは、本来、私なんかが望んでも、近づくことすら出来ない身分の人だったのだ。
「それでメーア嬢。セオから聞いたんじゃが、お主は相変わらずワガママを言ってるらしいのう? ワシが思うに、お主のためにも婚約者の挿げ替えなんぞしない方がいいと思うぞい。まるで物語から出てきたような悪役令嬢じゃわい」
「な、あ、悪役ですって? そんな訳ないですわ、私は」
「『権力を持っている私が正義なのよ!』という奴かい? 正直言って、感心しないのう」
「……ですが、セオも承諾しましたわよ。私が水の精霊の元へ連れて行く手助けをする代わりに、セオは私と婚約するのですわ」
「……ほほう?」
メーアのその言葉に、フレッドの目に剣呑な光が宿った。片方の眉を上げ、不敵な笑みを浮かべたフレッドは、いつもより少しだけ低い声で言葉を紡ぐ。
「ふむ。ならばワシは今、水の精霊の神子達の力不足で起こった大津波から、皇帝陛下の騎士団員を救ったのう。なんなら、あの大きさの津波では陛下の治める帝都にまで被害が及んでいたかもしれんぞ? それにお主、魔力が空じゃろう。今お主が海に呑まれたとして、お主は本当に自分の身を守ることが出来たのか?」
「うっ……そ、それは」
「ふむ。ならば、ワシはお主と同じように、対価を要求する。お主と騎士たちの命、そして帝都を守った対価として、お主は何を差し出す?」
「…………」
メーアは、唇を噛んで悔しそうに俯いた。普段の高慢なメーアからは想像もつかない態度である。
「まあ、よく考えておくんじゃな」
その時、北の空がキラリと輝き、フレッドの目はそちらを向いた。
白い光は徐々にこちらに近づいてきて、あっという間に私たちの真上までやって来た。セオとルードである。白く輝く風のバリアを消して、二人は空から降りてきたのだった。
「おお、セオにルード。湖の方はどうじゃった?」
「あれ、お祖父様、出てきて良かったの?」
「まあ、仕方ないのう」
そう言ってフレッドは、岩の壁を目線で示す。セオもルードも、何があったかすぐに察したようだ。ルードは、丁寧に頭を下げてフレッドに謝罪した。
「フレッド様、私共の力不足でお手を煩わせてしまったようで、申し訳ございません」
「よいよい。それで?」
「湖の近辺で、大規模な採掘作業が行われておりました。作業中に大きな爆発事故があったようで、地面や木々が削れて流れ出したほか、作業用の機材や油、化学薬品を含む人工物が流出した模様です」
「ふむ……採掘……? まあ良い、続けてくれ」
「湖に到着した時、現地の作業員たちがすでに清掃活動を始めていました。問題は、河川に流出してしまった汚染です。複数本ある支流に流れ込む瓦礫はセオ様の風魔法で、薬品や油は私と妖精たちの力でなんとか取り除けそうでした。ですが、この本流に流れ込んでしまった分までは、手が回りそうになかったのです。幸い本流は緩やかに蛇行していて、河口に汚染水が辿り着くまで時間がかかります。それで帝都にいる妖精たちに念話で連絡を取り、メーア様、フレッド様、パステル様にそれぞれ伝えてもらいました」
「なるほど。湖と、ここ以外の河川はもう落ち着いたということじゃな?」
「ええ、お陰様で。今は湖や川に住んでいた妖精達がこちらまで来て、浄化作業を続けてくれています」
「そうか……なら、妖精たちを信じて待つしかないかのう」
岩壁で遮られた向こう側で、妖精達が今も頑張っているようだ。ししまるは力を使い果たしてしまったようだったが、無事だろうか。
「パステル」
澄んだ声で呼びかけられて、私は声の主と目を合わせた。
「セオ……おかえり」
「……ただいま」
セオは優しく目を細めて応えてくれる。私は自然と笑顔になっていた。
セオが他国の王族でも、メーアと婚約する予定だとしても、今この時は、私と友達でいてくれている。
少しだけ胸の奥に寂しさを感じるが、私にはそれだけで充分だった。
騎士たちはメーアの護衛を務める二名を残して、帰城を始めた。メーアは力の使い過ぎで休息が必要とのことで、砂浜に座って休んでいる。
先程メーアも言っていたが、皇城には『湖の神子』が待機していて、メーアがいなくても海や河川の状況が把握できるそうだ。
高齢の『湖の神子』が皇城にいるのは、フレッドの働きかけによるものらしい。
どうやら私が宿で待機していた頃、ルードに『湖の神子』の居場所を聞いていたフレッドが、彼に接触を図ったようだ。
フレッドは病気の『湖の神子』を城門まで介助していたところで、隣にいる亀の妖精と出会ったらしい。
私が『虹の巫女』であることを知っていて、ルードに教えたのもフレッドだ。更にこの事態を受けて、ルードがメーアに私のことを伝えたとの事である。
「あーのぉー」
私たちがお互いの状況を把握するために会話をしていると、突如、ゆったりとした低い声が響いた。
私が声の出所を探っていると、皆の視線が大きな亀の方に向いていることに気が付いた。先程フレッドと一緒に現れた、黒に近い灰色の亀である。
「どうした、亀助」
「川とー、海のお掃除がー、終わったみたいですよー」
そういえば、先程から岩に打ち付ける波の音が聞こえなくなっている。聞こえるのは、ざあ、ざあ、という穏やかな音だけだ。
「おお、そうか。岩を引っ込めるかのう」
フレッドが川の方向に手を向けると、聳え立っていた岩の壁が、川の上流から河口に向かって順々に消えていった。
出てくる時と同様に、大きな音を立てて大地を揺らしながら、岩は大地に還っていく。
全ての岩が消え去ると、そこには穏やかな海が広がっていた。河原は、先程までと少しだけ形が変わっている気がする。
海や川からは妖精たちがぴょこぴょこと顔を覗かせていた。イルカやトビウオ、コイにナマズ……魚型の妖精がほとんどだが、変わった種類も沢山いる。
川にはドジョウに似た妖精やヤドカリのような妖精、ゲンゴロウのような妖精。
海にはクラゲに似た透明な体の妖精、カニのような妖精、水鳥の妖精……更には大きな二枚貝のような妖精や、海藻らしきものがモジャモジャと絡まっている謎めいた妖精。
可愛らしいものから一見不気味なものまでいるが、皆一様にこちらを見ている。
「みんな、ご苦労様」
メーアが声を掛けると、それぞれがヒレを振ったり跳ねたり回ったりしてから、海や川へ戻って行った。
最後に、ししまるが海面からちょこんと顔を出して元気にヒレを振った。私は一安心し、笑顔で手を振り返したのだった。