16 「よく来たね」
私はセオと共に崖山の麓を訪れていた。ロイド子爵家からここまで真っ直ぐ飛んできたが、一旦休憩を挟むようだ。私は、セオにカップを渡し、持って来ていた水筒からお茶を注ぐ。良い香りの湯気が、ほわほわと立ち上っている。
崖山は切り立った崖に阻まれていて、普通の人間には登ることが出来ない。なんせ、この山は一万メートル級の山であり、道中の殆ど全てが崖になっているのだ。休む場所もなく、ハーケンを打って登るようなことは、どう考えても不可能である。
ひと息ついたところで、私は水筒とカップを仕舞い、目の前の山を見上げる。崖山の頂上は、雲よりずっとずっと上にある。急勾配を通り越してほぼ直角に聳えている崖を見ていると、目眩がしそうだ。
そうしていると、セオも準備が整ったようで、こちらを見ていた。私がセオと目を合わせると、セオが話しかけてきた。
「パステル、準備はいい?」
「うん、大丈夫だよ」
「風の神殿の近くには、地上で暮らせなくなった妖精たちや魔物たちも住んでる。避けて通らないといけないから、バリアを張って進む。少し揺れるかも」
「わかった。襲ってきたりはしないの?」
「巣の近くに行ったり、驚かせたりしなければ大丈夫。……ただ、鷲獅子だけは、ちょっと危険。見つからないように祈るしかない」
「そ、そうなんだ」
「普段は巣穴にいて、外を飛んでるのは稀。もし見つかっても、全力で風の神殿に逃げ込む。心配しないで」
「わかった。セオを信じるよ」
「……!」
私がそう言った瞬間、セオは目を丸くして息を呑んだ。だが、それも一瞬のことで、次の瞬間にはセオはいつもの表情に戻っていたのだった。私は、気のせいだったかと思い直して、セオの手を取ったのだった。
風の神殿までの道のり――とは言っても、『道』はないのだが――は、思っていたよりも穏やかだった。途中で進行方向を変える時にはセオが声を掛けてくれたし、ゆるやかな進路変更だったので、恐怖や不快感は感じなかった。
前にラスと飛んだ時、暗黒龍に追いかけられたらしいのだが、その時のようにガタガタと揺れることもない。繋いだ手はしっかり握られていて、安心感がある。
そして、懸念していた鷲獅子にも遭遇せず、私たちは無事崖山の頂上に到着したのだった。
「これが、風の神殿……」
その神殿は、予想と異なり、無骨で堅牢な建物であった。風の精霊の住処なのだから、柱が細く風が通り抜けるような建物を予想していたのだが、まるで大きな岩石をくり抜いたかのような、荒々しい造りになっている。それでも風を通すためだろうか、出入口には扉もなく、数カ所ある小さな正方形の窓にも、ガラスは入っていない。
「……思ってたより、なんていうか……厳しいね」
「お祖父様が建て直す前は、もっと違ったらしいけど」
「た、建て直した!?それはどういう……」
「ラスが、以前寝ぼけてうっかり神殿を壊したらしい。それでラス自身も風の通らない場所に埋もれちゃって、風が吹かなくなった事があった。お祖父様は、まだ幼かった『空の神子』の僕に代わってここに来て、土魔法で神殿を建て直した」
「そ、そうなんだ……。それで、ラスさんはフレッドさんに恩があるのね……」
セオは頷いた。ラスは寝起きが悪いのか……精霊にも人間と同じように、個性があるのかもしれない。
そしてフレッドは、風の魔法なしでここまで登ってきて、この神殿を建てたということだろうか。もしそれが事実なら、フレッドもやはり只人ではない。
「さあ、行こう、パステル」
「うん」
私たちは神殿の入り口へと歩みを進める。
ここはかなり標高が高いはずなのに、空気は薄くない。逆に、濃密で澄んだ空気が満ちている。風の精霊であるラスのお陰なのだろう。
岩で出来た頑丈な建物の中は、やはり無駄のない無骨な造りになっていた。照明もないのだが、ところどころ天井が抜けている箇所があるので、暗く感じない。もしかしたら、夜でも月や星が近いから明るいのかもしれない。
時折、ぼんやりした何か……小さな雲のような、霧のようなものがふわふわと浮かんで、移動していく。白いもの、灰色のもの、薄いもの、濃いもの……実際の雲のミニチュアであるかのように、様々な濃淡や形があった。
「わぁ……セオ、あれは何?」
「妖精、モック。実体がないから、存在するけど触れない」
「へぇ、不思議ね」
「でも、身体の中を通り抜けないように気をつけて。特に黒っぽいやつは気性が荒い。驚かせると小さい雷や水を出すことがある」
「そうなんだ。わかった」
「お祖父様は、身体が大きいから何度もうっかりすり抜けちゃって、大変な目に遭ったって言ってた」
「ふふふ、なんか想像できる」
そうこうしていると、あっという間に目的地に到着したようだ。
天井のない、大きな部屋である。部屋の中央が一段高くなっていて、そこには無骨な建物とは相反する、繊細な意匠の施された大きな椅子が一脚、置かれていた。
その素材は、建物に使われている岩や土のような物とは、明らかに異なっている。金属でも、木でも、布でもない……私の知識にはない素材だ。背もたれだけで、三メートル近くあるだろうか。蝶のような羽の付いた人型の妖精や、半鳥半獣の魔物、長い身体と二本の角を持つドラゴンなど、空に棲む者たちを描いた細工が施されている。
そして、その大きな椅子には、風の精霊であるラスが、ぽつんと座っている。
ラスは以前と全く同じ子供の姿で、以前と全く異なるオーラを放っている。私は、自然と膝をつき、頭を垂れていた。
——目の前にいるのは王である。
本能的に、そう感じたのである。
「楽にしていいよ。よく来たね」
隣で同じように膝をついていたセオが、頭を上げ、立ち上がった。私も顔を上げると、セオが手を差し出して、立ち上がらせてくれる。
「風の王、アエーラス様。本日は、約束の条件を満たしましたので、お伺い致しました」
「セオ、いつも通りでいいよ。パステルもね。ボクは堅苦しいのが好きじゃない。自由でなくちゃ楽しくないでしょ?」
「……じゃあ、お言葉に甘えて。ラス、パステルを連れてきた」
「うん、見ればわかる」
話が全く見えないので様子見をしていた私に、二人の視線が集まり、少し気後れしてしまう。
「ボクの予想通り、自分から来てくれたね。セオと一緒に」
「は、はい」
「セオと約束してたんだ。パステルが、自分からセオを助けたいって気持ちになったら、二人でここに来いって」
「……そうだったのですか……」
「それで、ラスが知ってる『真実』って、何?」
「えー、いきなりそれ聞くぅ? 順を追って明らかになるのが楽しいんじゃないのー?」
セオの単刀直入な質問に、ラスは大袈裟に肩をすくめた。ラスは悪戯っぽく口角を上げる。
「……約束守ったら、『真実』を教えてくれるって……」
「まーそりゃあ教えるけど。その前に、さ」
ラスは私の方へと視線を移す。その瞳が、さらに悪戯な光を帯びる。
「——パステル。痛みと引き換えに、君の眼に『色』を戻すことが出来るって言ったら——どう思う?」