富士子編 88 晩餐と朝餐
シーン88 晩餐と朝餐
玄関に入った富士子は「ただいま」くっきりとした声で言い、すぐに2階に上がって本棚の目の高さにある本を抜いてスペース作り、両手を添えた墨色の紙袋を供えるようにして置いた。
「少し…時間を下さい」小さく、 とても小さな声に言って上着を脱いでリビングに降りてゆく。アイランドテーブルでお茶を飲んでいた国男が「おかえり。宗弥は帰ったのか?」と言った。「ただいま。ええ、帰ったわ。明日も朝早いんですって」富士子はカラリとした言い方をする。
浮子は椅子から立ち上がり「お嬢様、顔色が青いですよ。大丈夫でございますか?」と言いながら富士子に歩み寄り、富士子は「大丈夫よ。寒さを用心してダウンを着て出たらのぼせてしまったの。お腹が空いているからだわ。浮子、夕食は何にしたの?」滑らかな嘘をつく。
浮子は「何か飲みますか?」と言いながら冷凍庫の前に立ち、扉を開けて「何か、ああ、そうでした。漢方茶がありました」と言って 扉を閉め、食器棚から富士子のマグカップを取り出して、漢方茶煮出し専用のポットをシンクから取り上げて注ぎ入れつつ「九条ねぎが届きましたので 、今夜は鶏肉のうどんすきに致しました」と言って富士子にマグカップを手渡した。
富士子は「あっ、ありがとう浮子。夕食の準備、手伝うわ」と言って飲んだが、顔をしかめ「苦いわ、浮子。種類変えたの ?」と聞いた。
「トチュウとシナモンのお茶でございます。寒くなってきましたので。冷え取りの効能があるそうです。お嬢様、グリル鍋を出して頂けますか」と頼んだ浮子は冷蔵庫から九条ネギ、鳥の胸肉、 傘に飾り包丁の入ったドンコ椎茸、えのき、ピューラーを使って薄く長く削り落し、均等な長さに切った人参と大根、結び糸蒟蒻、三角に切り揃えたお揚げを彩りよく盛った大皿を出して「準備は出来ております、お嬢さま」と言ってカラリと笑う。
大皿に広がる色彩の美しさは今の富士子には響かず、「美味しそう」と言ってはみるが食欲はなく、霜柱が立った心が欲するままに富士子は「ねえ 浮子、ゴミ袋はあるかしら?」とテーブルに新緑色のランチョンマットを引きながら訊ねていた。
「どのくらいの大きさがようございますか?」浮子が冷凍庫からポン酢と胡麻だれを出しながら聞く。「1番大きいのを。うん、そう。分別用と5枚ずつ欲しいわ」 と言ったが、今更片付けなどして何になると、凍てついた感情が富士子に投げやりな提案をする。
浮子はシンクの引き出しを開けながら「随分、多くございますね。お手伝い致しましょうか?」と言った。
しんしんとした目で浮子の顔を見ていた富士子に脳はまた一つ「ありがとう。ゆっくり1人でやるわ。いい機会だから整理整頓しようと思って」と嘘を重ねさせ、富士子に階段の1段目に受け取った2種類のゴミ袋を置きに行かせる。
箸を箸置きに置いている富士子に国男が「どうした?寒いのか?」と聞いた。父の視線の先にある自分の手が微震しているのに気づき「ああ。お腹が空いているからです」と咄嗟に答え、国男に「温まる鍋でよかったな、富士子」と言われて顔を上げながら「そうよね」と返すが、父の目を直視したくない富士子は「 あっ、グリル鍋よね」と言って浮子に振りかえった。
富士子は食事中、明るく振る舞い、よく食べ、よく話して、時を過ごす。浮子は「お野菜足しますか?」と国男に聞き、国男は「えのきをもう少し頼む、富士子はどうする?」と富士子に視線を向け、富士子は「私は蒟蒻をあと2つ欲しい、浮子は?」と聞いて、会話が食卓をクルリと1周した。
深海に落ちたっきりの・・尾長さんへの想いに、団欒が作用する。心に砂塵が乱舞する。ごめんなさい・・・・。
助けられた身でありながら、ごめんなさい。
羅針盤を・・失ったのです。
どこかで、生きていると思っていたの。
私ではない誰かがそばに居て、たまに気まぐれの様にあのオオカミみたいな笑顔で、隣の誰かに話し掛けている。そんな日々があの人にはあるのだと思っていたんです。隣の誰かさんが羨ましかったけれど・・・・それで良かったんです。
あの人にとって、私は仕事で・・・
片思いで・・
もしかしたら、逢れるかも知れなくて・・
それで良かったのに。
あの人を・・・ 失ってしまった。
一緒にいたいのです。
私が迎えに行くしかないでしょう。
自室に戻った富士子は粛々(しゅくしゅく)とクローゼットから断捨離を始める。静かに、ありとあらゆるものを手に取っては思い出をたどり、綺麗に畳んでゴミ袋に入れてゆく。わずかに残した服は浮子が着れそうなものばかりだった。
ハンガーラックの乱れを直し、白の衣装タンスの引き出しを一段ずつ開けては中にある衣服を選別していき、そのほとんどをゴミ袋に入れる。
1番上の引き出しにある寄木細工の箱をバレンシアガのトートバッグに入れ、服が入ったゴミ袋をクローゼットの片隅にまとめておく。クローゼットの入り口に立ち、こざっぱりとした衣装部屋を見渡した。
自室の洗面台を掃除して拭き清める。
ベットの左脇にあるサイドテーブルから、処方された安定剤と睡眠導入剤を取り出してトートバックに入れ、引き出しの中を整理する。ドアをノックした浮子が「お嬢さま、明日、浮子といたしませんか?」と声をかけた。「あっ!そうするわ。おやすみなさい、浮子」と返事を返す。浮子は鋭い、私の心情の機微に不穏を感じ取っている。だが、口にするような愚かさは犯さない。浮子は言葉の力を知っている。不吉を口に出せば神に聞こえて真実になるのを知っている。だから声にするのをためらっている。誰もがそれを本能で理解していて、不吉を聞いた途端に無意識の内に眉を顰めて口を噤む。人はなぜ死を恐れるのだろう。自由への解放だとは思わないのか・・・尾長さんが言っていたというように、申し開きできないことが一つもなければ、なにも怖くない。不誠実にも理由がある。それを説明すれば、することが出来れば許されるはずだ。神の教えと御心は寛大だ。人は死の間際に陽気になることがよくあるという。最後を看取る人はその状態を“ 今際のきらめき“ と呼ぶらしい。ごめんなさい、浮子。
本棚の前に移動して、背表紙の高さに乱れのある本を並べ替えてゆく。そうしながらたまに手を止め、思い出のある本を読み返したりもする。本棚にあるどの本も富士子の知識を育て、富士子の孤独を慰めた本だった。
なだらかな曲線を作る本棚を感慨深く眺め、空が白み始めたのに気づく。ホワイトベージュのカーテンを開け、丁寧に折り目をつけたカーテンをタッセルでまとめ、フック掛けして観音開きの窓を開け放つ。
朝日の位置はまだ低く、濃紺の空に黒いうろこ雲があった。
時間の感覚が飛んだのはいつ以来だろう。
ベットの中央で寝ているねこを抱き上げ、丸まった背を右手で撫でながら、朝焼けの空を見上げる。漆黒の雲があの人の瞳を思わせる。何もかもが懐かしい。あの人が蘇る。あの瞳で私は見守られていた。これまで私は徹夜明けの空を見上げることもなかった。新鮮な朝の香りも知ろうとはしなかった。繊細な四季の移り変わりに関心を向けたこともない。家族旅行に行った覚えもなければ、北欧にも、ホエールウォッチングも、青の睡蓮も見ていない。未練が残る。思いを残すくらいの方がいいのかもしれない。全てを手にした人間は下品を知りたがるようになるという。見上げている空に真紅の太陽が上がってゆく。
ハウスにねこを寝かせると、ねこが眠たげな目を薄く開けて見上げ「ニャー」と鳴き、きゅっと身体を丸めて尻尾の中に顔を埋めた。その様子を見て、ねこのお陰で私は目覚めたと感謝する。左手首の傷に触れてみる。ふと「綺麗なお姉さん」と呼ばれた気がして、本棚に置いてある墨色の紙袋に振り返った。
赤い朝日を浴びた富士子から笑みが溢れ落ちた。
トートバックからスマホを取り出して、雪山情報を検索する。
ベットメイキングしてパジャマから、袖元がゆったりした白のソフトモヘアカーディガンのトップスと、左右のポケット口と裾が白で全体が黒のニットパンツに着替えた。脱いだパジャマを畳んでベットの上におき、自室の洗面台で歯磨きと洗顔を済ませて髪をポニーテールに結ぶ。
1階の家事室へ行き、パジャマを洗濯する。父と一緒に参拝した神社で交わした会話を思い出して立ち尽くす。鏡が視界に入った。私と目が合う。目の縁が赤く、頑な眼差しに憂色の唇が語りかけてくる。「どこを探してもいないの、ブルーもいなくなった。あの人も亡くした。私は1人になった」と。
私はわびしく笑い、涙を落とした。
キッチンに入って米を3合研いで炊飯器のスイッチをいれ、コーヒーメーカーにノンカフェをセットする。カーテンを開けて引き戸を開け放ったら薔薇が目に映った。父は茎の節が曲がり、あるがままに自生する薔薇が好きで、浮子が育て始めたのを思い出し、薔薇は新鮮な色合いの花弁で私を魅了する。
「お父様。確かに、美しいわ」しばらく佇んで魅入る。
まな板の上にキッチンペーパーを2枚重ねておき、冷蔵庫からさわらの西京漬を3尾取り出して、指先を使って丁寧に白みそをとり除き、軽く水で流して、キッチンペーパーの上に置く。焼き魚グリルにさわらを入れ、小鍋を取り出して水を張り、煮干しと昆布入れて出汁をとる間に豆腐を切り、玉ねぎを刻みながら小学校3学年の時、図工の授業で家族の絵を描く課題が出て、母のお墓を描いて持ち帰った。その絵を見た浮子は「嬢ちゃま、お父様が悲しまれます」 と言った。
あの時の浮子の顔を、今でも覚えている。
なぜ、いつも、そんなことばかりをしてきたのだろう。
コーヒーメーカーのブザーが鳴る。マグカップに砂糖を3杯入れてノンカフェを注ぎ入れる。煮干しと昆布を取り出して玉ねぎに火が入るまでゆっくりとノンカフェを飲んで、徐々にクリアに なっていく脳を感じたが芯には鈍痛にも似た重さがあった。
失った悲しみは一夜開けて、空虚に変わっていた。
グリルを弱火に設定してサワラを焼き始め、タイマーを13分にセットする。
授業参観に来た浮子はいつも恥ずかしそうで、出入り口近くの1番後ろの列に居た。振り返えるといつも目が合った。帰り道「どうして、いつも恥ずかしそう にしてるの?」と聞くと、「皆さん、お若い方が多くて穣ちゃまに申し訳なく」と浮子は答え、「富士子のことが恥ずかしいから、浮ちゃんは隠れているのかと思ってた。よかったぁー」と口にした。浮子は一瞬、目を見開き、懺悔するように私を見た。次の授業参観から浮子は中央の真前に立つようになった。
愛情はいつも、手の届く所にあった。
意を汲む心の器が、私のは欠けていた。
紅色の菊割中皿を食器棚から3皿出して、小口切りしたネギと千切りした生姜を盛つけながら中学2年の秋、発熱して宗弥に付き添われて早退した。浮子と宗弥の3人で病院に行き、インフルエンザと診断されてベットに横になっていると、ドカドカと部屋に入ってくるなり、父は私の額に右手をあて「だから、学校から書類がきた時に、予防接種を受けろと言っただろう。注射が怖いくらいなんだ」と怒り、その父の剣幕に布団に潜った。「熱は何度だ?」と聞かれ、「39.6度です」と小さく答え、父は「薬は?」と畳みかけるようにして聞き、「の、飲みました」と答えると、そばにいた浮子に「お前がそばについていながら!」と言ったきり、口を閉じた父は憤慨のまま会社に戻って行った。
ただ、しかりに帰って来たと思った。
怖いだけだった。
あれは、心配の怒りだった。
そのあと1週間、私は寝込み、宗弥もその日から寝込んで、感染させたと謝る私に宗弥は「富士子菌get、光栄の極み」と笑った。
小鍋で茹でている玉ねぎの色が透明になったのに気づき、火を止めて豆腐を入れ、テーブルにネギと生姜を盛った菊割皿をおく。食器棚から紺色に銀の錦柄が入った小皿を3つ取り出して、うめぼし、昆布の佃煮、浮子が作り置きしていた薄切りにんじんの塩揉みを盛って胡麻をふる。
テーブルにシルバーグレーのランチョンマットを敷き、桜の花びら型の箸置きと箸を整え、紺の小皿と紅色の中皿の柄が正面になる様におく。3つのマットにのる食器が完璧なシンメトリーになるようセットした。
毎年、父の誕生日前後に商店街の写真スタジオに行き、記念写真を撮っている。写真に入ろうとしない浮子を父は毎年呼び入れ、父との確執があった私の顔はどの写真も乗り気ではなく。父が呼び入れるとわかっていながら、浮子を自分からは誘わなかった。
やっぱり私は、優しさが断然たりなかった。
父や浮子の何を見て、生きてきたのだろう。
タイマーが鳴る。さわらは上手く焼き上がっていた。長方形の皿の中から黒檀色に大筆で大胆にシルバーのラインが2本、斜めに描かれている物を選ぶ。その皿をコンロの隣の作業台に並べ、魚焼きの内台の取手を握ってコンロから引き出し、菜箸でさわらを盛り付けていく。
不意に母の笑顔がフラッシュバックした。
スルーする。
簡単だった。
声を聞いたこともなく、髪に触れた感触も知らなければ、好みも、人柄も、喜怒哀楽も見た事がない。
さわらがのる皿をランチョンマットに置いて位置を整え、だし巻き卵を作ろうとガラスボウルに卵を割り始める。そこに浮子が現れ、浮子は私を見て驚いたが至って平静に「おはよう御座います」と言って、カッシーナの応接セットの テーブルから、TVのリモコンを取り上げてBS-NHKをつけた。
その背に「浮子、なにをそんなに驚いたの?私だってやろうと思えば、作れるのよ」気取った声で言う。振り返った浮子は 「存じております。お教えしたのは、わたくしでございますから」ツンとした声で返し、私の顔をチラリと見た浮子は「ゆっくり、おやすみになれましたか?」と控えめに聞く。
「ええ、とても」と微笑んで返す。
隣で手伝い始めた浮子に「お魚を焼き出すのが早かったわ。硬くならないかしら」と聞くと、味噌をとき始めた浮子は「漬けなので固くはなりません。大丈夫でございます。昨夜はどのくらいお休みになれましたか?」とさりげない口調で言い、「4時間ぐらい熟睡したわ。浮子、研究していた頃は徹夜なんてしょっちゅうだったの知ってるでしょう。それに比べたら完璧な睡眠よ」と言いながら、ねこの食事を準備する。
「ねこー、ご飯できたよー」と呼ぶ。食事しているねこの背を撫でる。柔らかい毛並みが私に生を教えた。
「おはよう」と言った父も私を見るなり「富士子、早いな」と言い、さわらがのる皿を見て満足気な顔をした。「お父様までなんなの。たまに早起きしたからって、そんなに驚かないで下さい」クスクスと笑う。
「確かに、私は朝が苦手ですが」と言い添える。
「旦那様、おはようございます」浮子は丁寧に頭を下げ、父の洗顔を待って、3人揃って朝食を摂る。浮子は味噌汁に口を付け「ちょっとお味噌が足りなった」と独り言を言い、「お嬢様、玉ねぎのおみおつけ、甘味が出て美味しゅうごさいますね」と、だし巻き玉子を食べていると話しかけられ「浮子から教わったのよ。お味噌の加減、ちょうどいいと思うわ」微笑んで、父に視線を移し「この前、神社の桜が綺麗だって言っていたから、季節外れだけど桜の花びらの箸置きにしてみたの 」と言った。「そうか、今年は3人で花見に行こう」と言った父がさわらを頬張る。
「ええ」と小さく応える。
「西京漬けうまいな。また注文しといてくれ」父が浮子に頼んで、私に「これは誰にもらったんだったかな」と聞いた。箸で白米を取り上げながら「頂いたんじゃなくて、ねこのおもちゃを買いに行った時、丸山商店で買ってきたの」と言うと、「ああ、そうだったか。やっぱり丸山商店の魚は美味いなぁ」と父が言い、私は「生姜の千切りを添えて食べてみて。丸山商店の店主さんに教わったの」父と浮子に伝えた。
父の横顔を見ていると、父はさわらに生姜をのせて食べていた。
「お嬢様、またお願いします」と言った浮子が芝居がかった頭の下げ方をする。私も「あそこの店主さんは浮子のお友達でしょう。今度は浮子が買って来てらっしゃい」芝居がかった声でピシリと返す。「一緒に参りましょう」と言った浮子が私の横顔を見る。
顔を上げず「ええ。そうね」明るくも、後味の悪い返事を返す。
和やかな朝の時間が過ぎ、父が出勤の支度をするのに自室に入ると、浮子は「お嬢様、何かお悩み事がお有りになるのでございましたら、わたくしにお話して下さいませんか?」と注意深く言い、「どうしたの、浮子。ただ思い立って整頓していたら、時間を忘れてしまっただけよ」と答えた。
浮子が「そういう事ではなく、、」と言い淀んだ。
「ねこのトイレの掃除をしてくるわ。浮子、梨を切ってもらえないかしら?食べたいの」と言ってその場から立ち去り、トイレの始末をしながら浮子の今日の予定はと考える。
社用車の迎えを待つ間、お茶を入れ、3人で梨を食べた。
出社までの時間を寛ぐ父に、私は「お父様、いってらっしゃい」頭を下げて椅子から立ち上がる。足元にいたねこは身体を横たえ、両の前足で私のニットパンツの裾を押えては、離しを繰り返して遊んでいた。
ねこを抱き上げて階段に向かう。
父に「朝ごはん美味しかった。ありがとう。行ってくる」と声を掛けられ、3段上がって振り返る。浮子は「良い朝食でした。お嬢様」心配気な表情をしてはいたが、柔和な声で言ってくれた。
父と浮子をしばらく見つめ「どういたしまして、たまの気紛れでした」頭を下げて階段を上がる。




