富士子編 84 画用紙に向き合う理由
シーン84 画用紙に向き合う理由
出社する国男を見送り、朝食の後片付けを浮子と済ませた富士子は自室に上がる。
昨日、買い求めた画用紙ブックを取り出してベットの足元がわの毛足の長い絨毯に座り、事件前後に関わった人たちの時系列を作り始めた。そう思い至ったのは父と浮子の話を聞いていて、断片化して散らばった記憶の破片を、見たような気がしたからだった。
表紙をめくり、横使いしにして、左端に日付と時間を書くスペースを作るのに縦線で区切ってゆく。横一列に名前の記入欄を作ってふと右手のペンを止め、日付をいつからにしょうかと考えたら脳裏に要の顔が浮ぶ。
ズキリと心が痛む。
今、どこに居るのだろう・・・。
元気だろうか・・
私の事は任務終了と共に・・過去のものとしたはず。
お願い・・よ。
私は・・ここにいる。
その答えを得られる術は今の富士子にはなく、あの人との関係は終わってしまったのだ・・と・・納得するしかなく、現実が心情を赤く染めていく・・・視界が・・・霞みだす。
ペンを握り直して、要と初めて会った日を日付欄の1番目に書く。日ごとに縦線で区切り、要が言ったこと、宗弥が口にしたこと、父と浮子に話してもらった事柄、自分の事を書き入れてゆく。
そうこうしている内に、滲んだ涙が粒となって画用紙に落ちた。涙を右横に払い退け、上を向いて画用紙に向き直る。
ブックの半分が埋まった頃、ドアがノックされ「どうぞ」と返答すると、ドアを開けた浮子の胸にねこが抱かれていた。浮子はドアを背にして富士子の隣に座りながら「お嬢様 、ねこがドアを引っ掻きながら鳴いておりましたよ」、背けていた赤い目を富士子はねこに向け「ごめんね」と言った。
その目を見た浮子は言葉を失い、楚々(そそ)とうつむく。
その視線に画用紙ブックが入り、内容を理解した浮子は富士子に険のある表情を向け、富士子は画用紙ブックのページを最初に戻して説明し始めた。富士子がページをめくるに連れて浮子は辛くなり、3ページ目で堪られなくなった。浮子の「お嬢様、これは必要な事なのですか?」と聞く声が尖がる。
浮子に抱かれたねこの前足の後ろに両手を差し入れて、胸元に引き寄せた富士子はねこの頭を撫でてやりながら「浮子、頭の中で全ての事が整はないと前に進めない気がするの。書くことで整理したいの。そうしないと私はいつまでも囚われてしまうわ。きっと」と話す。
そして富士子はねこに「気づかなくて、ごめんね」と大きく笑い掛けたが、その笑顔は笑い切れておらず、その中途半端な笑みを見た浮子は「何事も細部まで区分して考え、理解して、頭の中のピースを埋めていかなければ、気が済まないご性格なのは承知しておりますが、浮子はこんなことをしては却ってお嬢様が傷つくのでは無いかと心配です」きっぱりした言い方をして富士子を見つめる。浮子の瞳にある沈痛の色に富士子の心はザワザワと騒いだが、それを押して富士子は「浮子、わかっているわ。気持ちを入れないで、書いていくから大丈夫よ」固い声になった。
浮子は富士子の瞳が揺れたのに気がつき「お嬢様、書き終えるまでに何日掛かるのか、浮子にはわかりませんが、昼食の折にこれを持って来て頂きまして 、そのつど浮子に書き込みをしてどう思ったか、何をどう考えたか、お話してくださいますか ?」とやんわりとした口調で問い掛け、「心配を掛けてごめんなさい。 これを見た人の気持ちまで考えていなかったわ。ごめんなさい。そうさせてもらえると、私の気持ちも落ち着きます」と言った富士子は赤い目でうなずく。
沈黙のあと、浮子はねこを抱く富士子の手を取って自分の手を重ね、ゆっくりと摩りながら「ねこにも心配させてはいけませんよ」しんみりと言い、その声色に切なくなって富士子は「気をつけるわ」 と言って下を向き「ごめんね、ねこ」と謝る。
浮子はその様子に「お嬢様よろしいですか 。明けない夜はございません。浮子はお嬢様をいつまでもメソメソするような女性にはお育てしてはおりません。この作業には根気がいります。昼食は上条さんの鰻重を注文いたします」きりりと言って部屋を後にした。
浮子のキレ上がりの良い性格に励まされ、悲観に暮れるためではなく、より理解するためにパソコンに打ち込む無機質さではなく、手書きで手間を掛けて散在した記憶の点を、自分の手で線にしていこうとアナログさを選んだと、画用紙ブックを選択したと、気持ちを新たにした富士子は冷静さを持ってブックに向かう。
1時間ほど時が経った頃、玄関の呼び鈴が鳴り、浮子の応対する鈴のような声が聞こえ、「お嬢様、お昼に致しましょう」と呼ばれた。富士子はブックから顔を上げる。そばで髪ゴムを転がして遊んでいたねこを抱いてブックを持って下へと降りる。
リビングキッチンに入っていくと、浮子は「松に致しました」と言ってニッと笑い、その笑顔には先程みせた心痛のカケラは無く、にこやかで、その心の内を推察した富士子は「ありがとう」と口にするが、そんな言葉では表現では足りないし伝わらないと、サヤとの事を思い出して顔をしかめた。
「さあ、さあ、座って下さい」と浮子に声をかけられて画用紙ブックをテー ブルの上に置く。水の置いてあるトレー前にねこを下ろして椅子に座った。
テーブルを挟んだシンクで、肝吸いをポットから椀に取り分けていた浮子が「お嬢様、生真面目なのは良いことですが、言葉は人間関係のスパイスに過ぎません。いわば風情という名の彩りです。使う言葉は美しい方が良いですが、気持ちが乗っていなければただの飾りの羅列です。浮子にはちゃんと、お嬢様がおっしゃりたいこと伝わっていますよ」と言って振り返り、お椀を富士子の前に出しながら、チラリとブックを見るが、浮子は何も言わず、自分のお椀を置いて富士子の左隣に腰掛けた。
手を合わせ「頂きます」と浮子と声を合わせ、富士子はお重の蓋を開ける。蒸したあと秘伝のタレで焼いた肉厚の鰻がふわりと白飯の上にのっていた。食欲を刺激された富士子の喉がこくりと鳴る。
その様子を目にした浮子は、胸を撫で下ろした。




