富士子編 79 ねこ
シーン79 ねこ
富士子は動物病院までの道順を浮子に聞くこともなく、自分で道を選択して歩いていた。たまに「 車が来るから、浮ちゃんは、ふじちゃんのひだりがわを歩かないとねー」と言ったりしていると、商店街で馴染みの店主や従業員に「盾石のお嬢さん、お久しぶりです」と言われては顔を赤らめて立ち止まり、挨拶を交わしては進む。歩き出した富士子はその都度「うきちゃん、あの人誰ー?」と聞いた。浮子は「あの方は」と説明しながら歩く。
ふと空を見上げた富士子が何を思ったか「あまつそら、くものはたてにいきたりし、きみをおもいて、わがこころのかなめしる。だって、うきちゃん」と言い、浮子は誰を歌ったものかわかり、富士子の背に左手をあて「君思う、白髪まじりて老ゆくも、扇の風 もまた愛おしきかな」と返した。「ありがとう。浮子」富士子が大人びた微笑みを浮子に向ける。
動物病院の前に着くと、富士子は浮子に振り返り「うきちゃん、猫にちゅうしゃしないように、獣医さんにいってほしいです」と表情を強張らせてそう言い、「嬢ちゃまから、お願いしてみてはいかがでしょう 」と応えた浮子に、「違う!!うきちゃんがねー」と言いながら浮子の前に出ようと、踏み出した富士子の右足がマットを踏んで、曇りガラスの玄関ドアがスーと開いた。
室内から漂ってきた消毒液の匂いに、富士子は顔を背けて俯く。固まりつつも玄関マットを踏んだ右足を左足に揃え、胸元の猫を抱きしめ「うきちゃん、おさきにどうぞ」と半歩、横にずれながら言った。
浮子が富士子の顔を覗き込む。
微かに顔を上げた富士子が「せかいのフジヤマは強くなくっちゃいけないから、フジちゃんはがんばるって、いってる。うきちゃん、お先にどうぞだって、うきちゃん、ふじちゃんがんばってるから早く中に入ってよーー」 と言葉を張ったが、その声はカスカスに掠れていて、「お嬢様」と心配を領域展開させた浮子に、富士子は「大丈夫ら!・・入って!!」と急く。
院内の内装はベージュを基調とした暖かさを感じさせるもので、玄関の正面にあるカウンターは横2m、高さ1m30cm程の白木で、その受付カウンターの奥に上下ピンクの看護服に髪を栗色に染め、丸顔にコロンとした目が印象的な、20代前半と思ぼしき女性看護師が中腰になって何やら作業をしていた。
浮子が「お邪魔いたします」と声をかけると、看護師は背を伸ばし「あっ。ごめんなさい。気づかなくて」と出迎え、浮子の後ろに隠れるように立った富士子は看護師を凝視する。
先客はおらず、浮子がカウンターの前に立つと「当院は初めてですか?」と看護師が聞く。「さようでございます」と返答した浮子に、バインダーに挟んだ問診表を差し出した看護師は「お手数ですが 、この問診表に記入をお願いします」と言って手渡した。
受け取った浮子は右手にあるピンクの3人掛け長椅子の5脚の内から、1番後ろの玄関に近い長椅子を選んで、富士子を先に座らせ、富士子の左隣りに腰掛ける。富士子にバインダーを差し出すが 、富士子は「猫が膝の上にいるから、うきちゃんがかいて」と不満げな口調で言い、浮子は開きかけた口を閉じて富士子を気にかけながら、書き進めていき、最後に「嬢ちゃま、猫ちゃんのお名前はどうしますか?」と聞くと、「ねこ」と返され、「猫の名前でございますよ」と聞き返し、「だからね、浮子。 ねこって名前なのよ」と言う富士子を、なるほどと、面白いと、思いながら“ねこ“と記入する。
富士子はバスタオルの上から、微震する右手でゆっくりとねこを撫で、ねこは軽やかにゴロゴロと喉を鳴らす。




