富士子編 74 どこかの国の船籍を持つ貨物船
シーン74 どこかの国の船籍を持つ貨物船
富士子は小さく覚醒する。何回目の目覚めなのか、汚泥化した富士子の脳には何も残っていなかった。
富士子が無意識に立ち上がろうとすると、左手首から続く手錠の輪がガッチリと嵌る隔壁に取り付けられたバーと擦れ、窓ガラスに爪を立てたかのような耳障りな音が響き渡り、脱臼した左肩がグニャリと反り返る。だが、痛みはない。
妙な感覚に垂れた首をガクガクと上げて肩を見ようとするが、腫れ上がった左瞼が視界を阻んだ。アヒル座りの右膝を立てようと食いしばると、右の奥歯に激痛が走り、富士子の口が開く、と、同時に身じろいだ富士子の右脇腹に杭を打たれたような痛みがズンと走る、「クッ!」と声が出て口から糸を引く唾液が垂れ落ちた。
気味の悪い汗がジワリと全身から滲み出し、玉の汗が富士子の額を汚す。
ここに居てはいけない。不透明な意識でそう思う。どうすれば・・・霞がかかった脳からは何の答えも返ってこない。ひたすらにただ怖く、・・・“どうなるのだろう“と考える。為す術が富士子にはなかった。
脳がチリチリと音を立てだす。
髪の隙間から前を見る。
赤い。何もかもが赤い。
悲しみが、足先から這い上がってくる。
抵抗したが意識を失い、目覚めると私はここに居た。
その間、富士子の左手の手錠は一 度も外された事は無く、下半身は汚物まみれで、蒸し風呂のような湿気と汗で富士子は不潔だった。富士子の衛生面など気にかける人間は船内にはおらず、ほんのたまに栄養ドリンクを与え、幻覚を見せ、気力を奪う注射を打つだけで放置されていた。
それも何時間おきなのか、いつの事だったか、そもそも何を飲まされているのか、富士子にはわからない。富士子が意識を取り戻すと決まってサヤとBが姿を表し、決まってサヤはスマホ使って話し始め、富士子を見ようともせず、Bは左手で富士子の顎を掴み上げ、右手に持った栄養ドリンクを与え、注射を施して2人はまた赤い闇へと消えてゆく。
今も2人は、富士子が目覚めたと知ったのであろう。サヤはスマホをいじりながら、Bは己の役割を果たす道具を左右の手に持って富士子の前に立った。
サヤが電話相手に「で、どう?わかってないのね。1つの情報で水1杯か、食事よ。いいえ、違わないわ!どちらかよ。それは私が決める!あなたじゃない。声?何でよ?」サヤがチラリと富士子を見る。Bが富士子の顎を掴み上げ、サヤがスマホを富士子の口元に持ってゆく。
「どう…し…て」かすれた声で、富士子はサヤに問い掛ける。
翻るようにサッと立ち上がったサヤは「臭い!」と顔を背け、「声聞いたでしょう。あんたは私に従うしかないのよ。また、電話するから」と無下に切り捨て電話を切った。サヤを見上げたBが「本当、あんたって悪知恵の宝庫ね」とせせら笑う。
その顔を見たサヤは蔓延の笑みを浮かべ「あんた、やっぱり、馬鹿ね。生きる為の知恵と言いなさい。役立たず」と言って、グニャリと笑う目を富士子に向け「富士子のせいで、うちの家族はバラバラになったのよ。父さんは掛け麻雀に狂って母さんにDVするようになった。繁盛していた店も潰れた」、「あんたが石橋さんと付き合うからでしょう」Bが富士子に栄養ドリンクを飲ませながら口を挟む。「コホ、コホ」と咳き込んだ富士子を見たサヤは、その視線をBに向け「何も知らないくせに。あんたはのうのうと生きてて、私に事情さえ聞こうともしなかったじゃない」と言い返し、富士子に「ほら、こぼすなよ」と言いつつサヤを見上げたBは「私はこの姫が、19歳の頃からちゃんと苦労してるわ」とやり返して富士子に視線を戻した。
サヤが「そういえばさ、あなた時々、おねえ言葉になるよね?」と言った。Bは歪んだ笑顔でサヤをうっとり見上げ「あら、ホント、そうなの。わたし、自分を取り戻しつつあるのねー」と嬉々とする声を響かせる。
横目で富士子を見たBは「プチ・トリアノンだってあんたに何の相談もなく、1人で何もかも決めてたもんね、気持ちわかるわ。楽しい事は独り占め。高みの見物決め込んで、犬に骨を投げてよこすように決定事項だけを教えるのよね。そういう子なのよ、この子」富士子を無関心に見ているBの目は、瞳孔が拡大していた。
サヤとBの言葉一つ一つが、晴れぬ富士子の意識に刺さる。思ってもいなかった2人の憎悪に富士子は虚無感に襲われ、涙があふれだす。
「ああ、泣いちゃった。どうせ、覚えてないのに反省の涙を流す。贖罪はいらない。俺らは走り出したのよ、お馬鹿さん」とBが言い、毎回おなじ場所を選んで針を刺す点を探ろうと、富士子の太ももに指先を這わせ「あった」と言いながら、ゆっくりと針を差し込んでゆく。そして「あっ、もう。また深く入れすぎちゃったわ、サヤちゃん」と笑い声で言った。
富士子の頭が、がくりと落ちる。
サヤは、その姿を見て思う。
生まれながらの特権階級。何不自由なく育ち、親に研究所まで与えられ、好きな事だけをする生活。無理に笑顔を浮かべて人と話をせずに済み、親に泣かれた事もなく、お金をむしられた事もない。家政婦が作る食事を食べ、洗濯や掃除も家政婦任せで、支払いの全てはプラチナの家族カードで済ませ、社用車がどんな時でも待っている。
産まれる前から人の人生は決まっていた。
富士子は親ガチャに当たっただけだ。
私もそういう家に生まれたかった、と。




