富士子編 7 プチ・トリアノン
シーン7 プチ・トリアノン
ここは富士子の父、盾石国男が会長を務める盾石グループの本社ビルだ。そのビルの一階、正面玄関の左手には警備ゲートがあり、そのゲートを抜けた先に富士子の親友、疎下サヤが経営する喫茶店プチ・トリアノンが入店していた。
外での会合や打ち合わせがない限り 、富士子は週5日このプチ・トリアノンで、サヤとの会話を楽しみながら昼食を摂る。ビル内で唯一、富士子が和める場所であった。
サヤは大学を卒業後、神楽商店街にある両親が営む喫茶店を手伝っていたが2年前に突然、父親が店の運転資金と共に失踪した。喫茶店は当然のことながら資金難に陥り、閉店を余儀なくされた。その話をサヤから聞かされた富士子は、本社ビルで喫茶店を再開しないかと提案する。
すでに本社ビル3階にはメニュー豊富な食堂や各階にも休憩室はあったが、サヤの料理の才能と接客の上手さを知る富士子は、喫茶店を辞めてしまうのは勿体無いと考えたからだ。ビル内にサヤの喫茶店があれば、親友がそばにいてくれる環境で、研究に取り組めるという自分都合の思いもあった。
この本社ビルの地下1階にある盾石化学研究所で、富士子が開発した“液体デイバイス“の研究開発と製造を行っている。この液体デイバイスは国から秘匿指定を受け、情報管理の徹底を求められてもいた。そのため本社ビルには元警察官、元陸自の第一空挺、元空自のオペレーター、元海自の潜水艦乗組員だった情報分析官が長を務める保安局があり、24時間、警備員は徹頭徹尾のセキュリティーを敷いていた。保安局は各階、各所の至る所に監視カメラを設置し、正面玄関には厳重な警備ゲートを設けビルへの出入りを管理している。
液体デイバイスの開発が進むに連れて国男は、ビルに高度なセキュリティーシステムを導入していき、保安部を局へと強化し、今では警備ゲートを通過するのに、運が悪ければ10数分かかるようになった。常々、富士子はこの警備の厳重さが、社員とって負担になっているのではないかと心苦しく、責任を感じていた。サヤの喫茶店があれば、ビル内にもう1つ憩いの場を提供できると、富士子がサヤを誘ったのにはそんな理由もあった。
富士子の提案にサヤは歓喜した。もちろん快諾して、富士子は樽太郎経由で国男の許可を取りつけ、破格の賃料でサヤを迎え入れる準備はできたが、肝心のサヤが喫茶店の閉店作業と残務整理に手間取って、オープン前の準備スケジュールが取れなくなった。
富士子は多忙の理由を、サヤに聞かなかった。サヤの両親が作った借金は多額でその返済プランの説明、挨拶まわりに奔走していると察していたからだった。わざわざ尋ねて、サヤを恥ずかしめるような事もしたくはなかった。一度は開業の延期も考えたが、それではサヤの生活に金銭面での心配が起こるのではないかと考え、悩んだ末に富士子は、一人開店準備すると決めた。
設計、ラフデザイン、家具の選択と配置、空間デザイナーとの打ち合わせ等々、諸々を慌ただしく済ませた富士子は、懇親ルームだったスペースの改装に入る。
内装も大いにこだわり、北欧から輸入したオーク材を白くペイントして、その後ダメージ風に仕上げてもらいカウンターとした。そのカウンターに合う白のカッシーナのスツールを選び、5脚並べたカウンターの裏には、最新の人間工学に基づき設計されたシンク、コンロ、調理台の下には食洗機を入れ、鍋や調理器具をおく棚をつくり、後ろの壁沿いには白で統一した大型冷蔵庫と食器棚、整理棚を設置する。
食器はNARUMIで統一し、盾石グループのロゴが入った白磁器、ガラス器、 大小のガラスコップを用意し、カウンター奥にスペースを取って、200lの冷凍庫がある貯蔵庫とサヤの休憩室を作り、くつろげるよう琉球畳を敷く。
店内にはカウンターと同じ木材の大小6つのテーブルを置き、一つのテーブルに4脚〜6脚のカウンター前のスツールと、同じシリーズの椅子を設える。
ビルの外壁がガラス張りなのを生かしたかった富士子は、外にオープンスペースも作った。スカイブルーの日避け天幕を張り、白地の籐テーブル3つと、テーブルごとに白の籐の椅子を三脚おき、一見すると、自生しているように見える英国風の庭園を造園した。
完成した店内を見たサヤは歓喜のままに、富士子に何度も抱きついて「ありがとう」とくりかえし、感謝のあまり泣き出して富士子を困らせたサヤは、この喫茶店をプチ・トリアノンと名付けた。富士子はいつもカウンターの左端のスツールに座り、サヤは富士子の好みに合わせたサラダボウルを用意して、富士子が来るのを待っていた。
今日も内線電話を入れて混雑していないかを確認してから、富士子はプチ・トリアノンに顔をだし、定位置のスツールに座ってネイチャーを読みながら、サヤの手が空くのを待っている。
カウンター越しのサヤは、使用済の食器やガラス器がのるトレイから、丁寧な手付きで食器を取り上げ、シンクに張った水に沈めた後、富士子のために作りおきしておいたサラダボウルを冷蔵庫から出しつつ「今日のメインはオーガニックで育てた日向チキンだよ〜。ねえ、富士子さ。週5日、毎日うちのランチで飽きない?」と聞く。
毎日メニューを思案して、富士子が飽きないようにしているのに、サヤはあえて尋ねる。雑誌から顔を上げた富士子は「食材を工夫した上に、ドレッシングも手作りで、毎日味付けを変えてくれているでしょう。だから私は、あなたのお料理に飽きなどしません、サヤさん」最後は告白するようなおふざけモードで言った。答えに満足したサヤは春風のような華やぐ笑顔で「合格です。富士子さん」と富士子の口調をマネして応えながら、サラダボウルを富士子の前におく。富士子がクスリと笑う。
カウンターに肘をついたサヤが、組んだ両手の上にあごをのせ「仕事うまくいってる?」と心配そうに聞く。同じ大学の理工学部に通っていたサヤは、富士子が開発している液体デイバイスの難解さを理解していた。
一瞬、迷いが出たが、サヤならば問題ないだろうと富士子は「脳からの神経伝達を捕まえる、液体デイバイスの濃度は決まったよ。今は液体デイバイスが体内に入った時、いかに不活性化されないかの研究に入った」開発状況を口にした富士子がため息を漏らす。あとほんの数歩で、完全体・液体デイバイスが完成すると予測しているものの、その糸口が掴めずにいた。もどかしい。右手に持ったフォークで、飾り包丁が入ったミニトマトを転がしながら思いふける。
そんな富士子を見つめていたサヤは「富士子さ、簡単に言ってるけど、それが一番難儀なとこでしょう。人は代謝もすれば病気もするし、風邪を引いたら薬だって飲む。性別の違いに、個体差だってあるんだから、不活性化を数値化して、平均値ってわけにはいかないでしょう。富士子は今の液体デバイスは、不完全と思っているかもしれないけど、70%の完成度って結構イケてると思うよ。富士子にはさ、整わないモヤモヤ感があるだろうけどねー。悩ましいね、富士子ー」と言ってアヒル口の顔を振る。ドナルドダックに似て愛らしい。サヤは富士子がいま取り組んでいでいる課題を、簡単な言葉で指摘してみせた。
さすがサヤ!わかってらっしゃる理系女子!と納得顔の富士子に、サヤは誇らしげにうなずく。両親が喫茶店を営んでいなければ、同じ研究者の道を進んでいたであろうサヤ。実際サヤは進路選択で、随分、悩んでいたのを私は知っている。だか、サヤは両親を手伝うと決めた。なぜ、あの時、サヤはなにも相談してくれなかったのだろう。
「それで⁈」とサヤに聞かれた富士子が「液体デイバイスは外敵じゃないって、認識させればいい話だと思ってる。今の70%の完成度では、一生涯メンテナンスが必要になるでしょう。それが嫌なの。完全体のヒントは製造工程のどこかにある気がするの。そのポイントさえ掴めば後は早いわ。きっと、大丈夫。もう少し、あと少しのとこまで来てる」と希望的観測を明るく弾む口調でいうと、すかさずサヤは「認識させるって言っても、感情みたいなもんでしょう。それを数字にするは無理じゃない。それに」、「数値化は可能だわ!」富士子は無意識にサヤの言葉を遮った。
富士子の声の鋭さに、目をパチクリとさせたサヤの表情が硬くなってゆく。「あっ!ごめん。液体デイバイスの話になると、周りが見えなくなってしまうの。ここは研究所じゃないのに・・・ごめんね、サヤ」謝りながら、富士子自身も自分の声色のキツさに驚く。
ギクシャクとした空気が2人の間に流れた。
そこにガラス壁側にある1番奥のテーブル席から「サヤちゃーん」と常連客の石橋がサヤを呼ぶ。サヤは富士子の顔を見たまま「はーい」と返して、「行ってくるね、富士子。ゆっくり食べててね。私なんかが、口出ししてごめん、富士子」カウンターから出ながらそう言った。うつむいていた富士子が顔を上げ「私こそ、ごめん・・」と言ったが、サヤは振り返らず、聞こえなかったのだろうと富士子は後味が悪い。
石橋さんがサヤに「この間の話なんだけど、どうだろう?間に合いそう?」と聞いていた。サヤは「もちろん、間に合わせてみせる。この場所に因んだ起源のある、う〜ん。 購入した人がネットで検索した時に、あ〜っ、こういうことねって、そうなったほうが面白いと思うの。そういうの考えるの楽しいよ。購入した人は暗号を解いてるみたいな気分になるでしょう。そんな細やかさが大事だと思わない?石橋さん」身ぶり手ぶりをまじえて話している。サヤは本当に人づきあいが上手い。積極的な共感力を持ってもいる。羨ましい。
学生時代、サヤを通じて、私はほかのクラスメイトとの繋がりを保っていた。サヤのおかげで、群れからの異端視を受けずに済んだ。サヤの存在は私にとって、外圧から守ってくれるシールドに等しかった。それなのに私は、自分の意見を押し付けるばかりで、きちんと謝ることすらできない。ただの・・・研究馬鹿だ。
富士子は、食欲を失くす。それでも残すのは申し訳ないと、せっせと口に運んでいるうちに、午後の課題が頭に浮かぶ。気乗りしないまま、庭園を眺めて考え始める。富士子のほとんどは上の空なのにも関わらず、闊達な脳は作業順序を組み立ててゆく。そして思い出したかのように、たまに、事務的に、サラダを口に運んでもいた。
カウンター内に戻ってきていたサヤは、思考する富士子の顔の前で手を振り「もし、もぉーし」と声を掛ける。
ハッとした富士子が「あっ、ごめん。考え事してた」と言うと、苦笑したサヤは「それはいつものことでしょう。ねえ富士子、100%の完全体が完成して欲しいと、私も応援してる親友としてそうは思っているけど、今のデイバイスでも70%の精度があるのよ。実用化には十分じゃない?」と説得を試みる。
確かに、液体デイバイスは今の時点でも運用可能だ。しかし、100%の完成体でなければ意味がない。メンテナンスが必要だなんて不完全だ。サヤの問いに答えたくない。
他の研究員、B、そして父もサヤと同じ意見だ。それこそ耳にタコが出来るほどに。どうして、みんな、わかってくれないのだろう。もう、すぐそこに、完成させる答えがあるというのに・・・諦めろだなんて‥信じられない。完成させてこその液体デイバイスだ。それでなければ利用者さんに、気苦労を掛けるだけの無用の長物になってしまう。
話題を変えたい。「ねえ、サヤ。周りのテーブル席も、予約席にしてくれてありがとう」と言うと、サヤは私にしょうがない子というような表情をした。私が答えたくないとバレバレだ。いつものように。
サヤは「頑固者」と言って、可愛らしく一笑する。そして「どういたしまして、富士子の話はディープな部分もあるし、壁に耳ありって言うでしょう。それにランチタイムを外して来てくれるから、なんの被害もありません」と言って、淑やかに頭を下げる。真似て頭を下げ「ありがとうございます」と言った。
同時に顔を上げ、微笑み合う。
いつもの調子に戻ったと、富士子は安心した。
「サヤ、さりげなく日陰を作ってくれた人に、お礼をしようと思っているんだけど、何を買ったらいいと思う?」気持ちが和んだ富士子は、ハンカチのお礼の相談をする。サヤは富士子らしいと思いながら「富士子。それはさ、物じゃあなくて、その人が富士子にしてくれたような気持ちを、富士子がその人にお返しすればいいんだよ」、富士子はサヤに諭された。
予期していなかった言葉に、私はドキリとした。こういうところが私には足りない。不安を感じ「サヤ、私は... サヤにそういう意味のお返しはできている?」おずおずと聞く。
サヤは少し意地悪な笑顔を浮かべ「何を言ってくれちゃってんの、ハニー。私たちは親友なのよ。そんなこと改めて聞かないで。富士子、研究室に籠ってばかりいないで、たまにはお日様を浴びなさい。お日様を」シャキシャキとしたサヤの口調に、今度は頭をポカンと叩かれた気がした。
わざわざ聞いて、私は何を言って欲しかったのだろう。自分の心の平安のために相手に欲する。浅ましい。そう考えて落ち込んだ。また、自分の事ばかりをサヤに押し付けていた。
「ノンカフェ、入れようか?」黙り込んだ富士子に、サヤが聞く。「うん。ありがとう。頂く」と言った富士子はしおれた花のように俯く。