富士子編 67 富士子と宗弥とサヤ
シーン67 富士子と宗弥とサヤ
軽井沢に行けば1か月は出勤できない。宗弥と約束した時間は迫ってはいたが、サヤに一瞬でもいいから会っておきたかった。
いろんな事がここのところ立て続けに起き、富士子を取り巻く環境は一変しすぎていた。人恋しい。サヤとの平穏で、平凡な、普通の時間に触れて富士子は和みたかった。
昼前なのにセキュリティゲート前には行列が出来ていて、富士子が順番待ちしながらガラス張りの外壁を見ると、黒のレンジローバーを玄関前に停めて待っている宗弥とファイターさんの姿があった。宗弥は右ドアに軽く腰を預け、厳しい表情で地面を睨みつけ、腕組みをして軽く組んだ右足の先でトン、トン、トンと地面を打っている。
イラだちが絶好調。富士子にはそうだとわかる。
顔を上げた宗弥は富士子を見つけ、富士子は右手を上げる。宗弥も右手で応じ、その手の人差し指で左手首のiPhone Watchを指差し、コンコンコンと忙しく叩く。車を挟んで立つファイターさんは真っ直ぐな目で私を見ていた、
富士子は頭を下げ、声を出さずにごめんなさいと謝った。
そこにカーキ色のミリタリーワンピースに薄茶色のショートブーツを合わせたサヤが「富士子、なに見てんの?」と言いながら富士子の右隣に立った。サヤも宗弥に気づいて手を振りながら富士子に「宗弥、帰ってきてたの?海外じゃなかった?」と聞いた。
サヤの横顔を見た富士子が「そうなの?知らなかった」と言うと、サヤは意地の悪い顔して「そうよ。知らなかったの。富士子って以外に、冷たいよね」と魅力的に笑う。
ドキリとした富士子が「だって、宗弥は何も言ってくれないから」と早口で言うと、サヤは「富士子が聞かないからでしょ。宗弥は富士子一筋なのよ、そのぐらいこと聞いてあげなさいよ。宗弥は学生時代からモテたのよ。告白されてもみーんな断ってたわ。私もその内の1人なの、ご存知よね」と言ってツンとすねて見せる。
何も言えずにいると私の顔を見たサヤは「少しは周りの身になって考えないと」と言った。「考えているわ・・・」と言ったか、私の声は小さ過ぎた。
サヤのその言葉は富士子のナイーブな心情の奥を突き、自責を引き出して「そうだよね・・ごめん」という言葉を富士子に言わせ、富士子を暗い表情にする。
宗弥を見ていたサヤは「でもさ、富士子は姫だもん。そのままでいいのよ。無理することないわ。わたしお化粧室に行きたいだけど、富士子もこれから宗弥と遠出でしょう?一緒に行こーう」と甘え、富士子は確かにと思い、サヤは富士子の右腕に左腕を絡ませて歩き出した。
★
洗面台の前に立ち、手を洗う。鏡に写る自分を見る。口紅をつけていなかった。幸い、頬はピンク色で血色が良く、寝不足を感じさせない目は爛々としている。
急いで、オフィスを片付けたからだ。
しばらく研究所に入れない。
そうだった。私は研究テーマを失ったのだった。
これから‥‥、何を…生きがいにすれけばいい。
この手には何も残ってはいない。
鏡の自分に「1からやり直しね」明るく言ってみる。うまく笑えていない。無理に、未来を考える。軽井沢に行けば時間はたっぷりある。この際、親子関係のわだかまりも解消しようと・・・・思うには、思ったが・・・・ビジョンが浮かばず、想像はピンボケだった。
親子関係の解消・・父にどっから、話せばいいかわからない。
一度だけ、母の写真を見た事がある。父は商談で海外に渡航していて、留守だった時。浮子の目を盗み、薄暗いあかりが灯る納戸に入って桐箱に入ったアルバムを見つけた。桜が舞い散る中、和風姿の見返り美人が舞っている美しい色彩の表紙を見て、父の母に対する愛情の深さを思った。
1ページ目の中央に貼ってあった写真の母は、カメラに柔らかい笑顔向けて咲き誇る薔薇の前に立っていた。
自分と似ていた。目元が瓜二つだった。
怖くなった。
次のページをめくる勇気は、そこで途絶えた。これ以上、母を知って、母の死がもっと身近になるのが怖かった。
されど、私も一目惚れの恋をして出会った理由を知り、無残な失恋を経験した。しかも昨日。もう、逢うことはないだろう。誰かを愛し、失う心を知った今とセンチに思い、父が母を亡くして、どれほどの悲壮感を抱えたかとは比べものにはならないが、いや、なる。この喪失感は耐え難い。わたしは父の母への愛情を理解できるようになった、今なら、父と・・・和解出来る。
母のことを聞こう。液体デイバイスの話をしよう。
トートバックから口紅を取り出し、淡く、ほんのりとした薄桜色の口紅を鏡に顔を寄せて塗ろうとした時、鏡にサヤが現れ、鏡の中のサヤが私に微笑む。鏡越しに笑みを返すが、突然、サヤがしな垂れ掛かってきた。
とっさにサヤを抱きとめた富士子の右手から、口紅が離れ落ちる。チクリと痛みが走り、サヤを支えたまま富士子は左の太ももを見た。
注射器を持つ手は、サヤの清潔感あふれる手だった。
その手からサヤの顔に視線を駆け上がらせる。サヤの表情は首を切り落とされた瞬間のメデューサのようだった。赤い目を見開き、濡れた唇の口角は大きく上がり、今サヤの瞳には驚愕の自分が写っている。サヤが笑う。恍惚と笑う。
サヤの笑みに被虐の快楽を見た富士子は強打を受け、血の気が引く。背中に恐怖が這い上がる。富士子の意思に反して首がガクリと落ちた。力なく、うずくまっていく富士子を見下ろしたサヤは「人の不幸は蜜の味」氷の微笑で言い放つ。富士子はサヤに問いかけようとするが、不明瞭な声しか出せない。身体を起こそうともがくが力が入らない。・・立・・て・・・・・な・・い・・どうし・・た・・ら・・・い・・いの・・おな・・が・・さん・・た・・す・・・・けて・・・
ガタリと音を立てて一番奥の個室トイレのドアが開き、Bと三畳ほどの絨毯を丸め、立て持ちしたプチ・トリアノン常連の石橋が出て来た。石橋は富士子の姿を見て、笑う。
出せぬ声で富士子は悲鳴を上げた。Bはその顔を見て「お疲れだね。富士子さん」と言い、石橋は丸めた絨毯を横倒しするや、Bに「俺と同じ場所に立ってどうする。 あっち側に行けよ」と指示した。
絨毯の左右に座った2人は端を80cmほど広げてうずくまる富士子に寄せると、石橋はされるがままの富士子の両脇のそれぞれに左右の手を入れ、Bは富士子の両足首を持ち、石橋が「せえーの」と声をかけて、広げた絨毯の上に富士子を移動させる。石橋はサヤの顔を見上げて「シューズ」と言った。
絨毯ごと富士子をゴロリと転がした石橋は「スペース が足りないが、まっ、最初の巻き込みが上手くいけば問題ないだろう。あとは丸めていけばいい 。サヤ、こっちにおいで」と手招きする。サヤは手にしていた富士子のシューズを放り投げ「はーい」その声はとても初々しく。目尻を下げた石橋は作業着の後ろポケットから取り出した小型無線機を側に来たサヤに手渡し、受け取ったサヤは底光りする目で絨毯に巻かれてゆく、富士子を見下ろしていた。
富士子の自由が奪われていく。息苦しく、遠のく意識を引き戻そうと手を伸ばすが、すり抜け、霞の中に消えていく。
Bが「動くなよ。巻くのが難いでしょうが。動くんだったらもっとキツく巻きますよ。あなたさ、どうしてこうなったかわかってる。おいおい、諸々、等々、徐々に教えていくけどー。精度を上げた液体デイバイスのレシピを私に教えないから、私が、こんなことしなきゃいけない羽目になったんだぞ。これからは私の言うこと聞けよな、富士子。長い付き合いになるんだから」と時に猫撫で声で、笑い話でもするように言った。
しらけ顔の石橋が「お前、しゃべりすぎだ 。今そんな事はどうでもいい。手を動かせ」、「うるさいわね!」Bが棘立つ声で言い返す。石橋は尻ポケットから作業帽を出してかぶり、富士子を巻き込んだ絨毯を右肩に担ぐ。
事もなげに立ち上がった石橋は「サヤ、通路を確認しなさい」と言い、化粧室の入り口から外の様子を伺っていたサヤが「今よ」と後ろに声をかける。
3人は早足に歩き出し、業者用の出入り口へと向う。小型無線機に「出るわよ」と言いながら、サヤは支給されているカードキーでドアの施錠を解除して開け、ゆるい速度でまったりと現れた食品会社のワゴン車は計算したかのように、開け放ったドアにピタリと寄せて停まると同時に後部座席のスライドドアが開き始めた。
座席を上げて作ったスペースに石橋は「ノロマ」と言いながら右肩の絨毯を投げ入れ、石橋、サヤの順で乗りドアが閉まる。助手席にBが乗るワゴン車がスタートする。
エンジン音を聞き、朦朧としながらも富士子はあらん限りの力で暴れた。恐怖が力を貸す。中腰になったサヤが激しく3度、足元の絨毯を蹴る。「あぅ」と発した富士子は意識を失った。




