富士子編 66 黒板の涙
シーン66 黒板の涙
ホテルから自宅に戻って手早く、最小限に、準備を整えて富士子は本社ビルに向かった。本社ビル近くの交差点で宗弥が車を停める。助手席から降りようとするファイターに、「周囲に異常があったらすぐ連絡をくれ。50分後に正面玄関前だぞ、ファイター」緊張感ある声で宗弥が言うと、小さくため息をついて「わかってる。時間厳守で頼むぞ、フレミング」と言いつつ振り返ったファイターは宗弥をジロリと睨んだ。相談もなく予定を変えた宗弥にファイターは苛立っていた。
怒れる背を見送るながら富士子は申し訳く思う。“ですが、ファイターさん、私は開発者なのです、責任があります。ごめんなさい“そんな富士子の表情を見ていた宗弥は「気にするな、ナーバスになっているだけだ」と言った。
「あんなに屈強な人がナーバスになっているって事は、それだけ慎重に行動しなければならないって事でしょう。無理なお願いをしてごめんなさい」と言った富士子はハイヒールを脱ぎ揃えて座席中央の床に置き、トートバッグからシューズケースを取り出して、フラットシューズに履き替える。
正面玄関にローバーを停車させた宗弥は運転席から降り、右手にトートバッグを持ち、ステラマッカートニーの黒地に大柄の色とりどりの花模様が全体にあしらわれたコートを羽織り、正面玄関へと急ぐ富士子に、「富士子!時間厳守だぞ!」と声を掛けた。
宗弥に振り返ってうなずきながら、富士子は正面玄関に入る。足踏みするようにしてセキュリティーゲートの順番を待ち、管理室の手続きにヤキモキしながら、エレベーターホールを目指して富士子は走り出す。
運よく一階で停止していた研究所専用エレベーターにバタバタと乗り、B1に着くと富士子は足音を忍ばせて他の研究者に見つけられないように用心しながら進み、自分の オフィスに到着する頃には神経がすっかり尖り切っていた。
デスクにトートバッグを置いて、コートを脱いで椅子の背に掛け、デスクから見た床面を頭の中でグリッド区分する。くずかごを左手に持ち、ドアの奥端から丹念に見てまわる 。
定期的に清掃業者が掃除している絨毯だった。それでも良く見ると小さなシミが幾つもあった。そのシミがついた時、どんな事を考えていたか、どの段階の研究の時のものだったかを富士子は記憶していた。どのシミにも愛着を感じる。
床の確認を終えてドア側の本棚の前に行き、完全体が完成した前後に手に取った本のページをめくり、何か挟んでいなかったかを確かめる。
記号や数式を書いた付箋が3枚残っていた。
危なかったと思いながら、剥がす。
黒板に書き込みの跡が残ってはいないか、デスク右手の上下式黒板の前に立つ。
浮子が描いた絵が残っていた。
ふと、黒板消しを右手に持った富士子は浮子が書いた太陽の絵を消して、ブルーのチョークに持ち替えて、大小の雨粒を7つと、子供のてるてる坊主の目の下に涙の粒を2つずつ書き入れる。
ハタと何を感傷的な事をしていると、時間がないのにと、平静でいなければと心中をよぎり、デスク正面の上下式黒板の前へと急ぐ。なんの書き跡も残っていなかった。
デスク正面に戻って椅子に座り、右手の引き出しを下から順に確認していく。最上段の引き出しに完全体・液体デイバイスに関する断片ページが残っていたのを見つけて、確認しに来てよかったと安堵する。
ペンケースの上に黒の髪ゴムがあった。それを見て、ホテルのサイドテーブルに髪ゴムを置いたまま忘れて来たと思い出す。髪ゴムを手に取り、両手でサクサクと髪をまとめてポニーテールに結ぶ。デスクの上を見渡して完全体・液体デイバイス製造工程とは直結していないけれども、念のために机の上に積み重なった資料も破棄すると決める。トートバックの中から完全体のレシピノートを取り出す。
デスク左手に置いてあるシュレッダーに向かう。シュレッダーに資料を流し込んでいる最中にバットマンのペンギン男を思い出して、紙を流し込む合間を見てシャツを腕まくりする。最後に完全体のレシピノートを3〜4枚ずつ破りながら、シュレッダーにかけた。
全てを終えて内部のダストボックスを引き出し、溜まった紙屑の中に肘まで入れて10回ほどかき回し、くずかごのビニール袋を外して、底に畳んで置いてある新しいゴミ袋の口を広げ、ダストボックスを逆さまにして中の紙屑を流し入れる。
ビニール袋の両端を結んで封をする。くずかごから外したビニール袋も同じように封をして、それぞれの手に一個ずつゴミ袋を持ち、オフィス外の廊下に設置してあるゴミ投函口に捨てる。
この投函口から捨てたゴミは、最下層にあるゴミ焼却炉に直結していた。ここから投入したものは完全焼却される。
そこまで終えて、やっとホッとする。
腕時計を見る。
約束の時間まで、あと10分だった。
急いで、オフィスに荷物を取りに戻る。
コートを手にした時、ワイドパンツの右ポケットに差し込むようにして入れてあった社内専用携帯が鳴った。通話をONして右耳に持っていき「研究所、総括、盾石」と名乗った。
「富士子、なんだか随分、会ってない気がするんだけど、元気なの?」サヤからだった。
オフィスのドアを閉めながらプチ・トリアノンに最近行っていないなと思い「そうよね。ご無沙汰してた。これから外出するの。時間ないんだけど、サヤ、今から正面玄関で会わない?」と小声で話す。
「もちろんだよ、富士子。ランチまで時間あるし、待ってる」サヤは機嫌良く言った。




