富士子編 65 不安定な身の上
シーン65 不安定な身の上
睡眠時間は少なかったはずなのに、頭の中はスッキリと整っていた。歯ブラシしながら鏡を見る。顔の血色は良く、唇の色も普段みたいにくすんでいない。深く良質な睡眠が取れていた。
けれども、瞳には物悲しさがある。その目が鏡越しに何かを語りかけてくる。強い眼差しを向け、よしてと要求する。そのうずく悲しみは富士子の意志を前にして、引き下がっていく。
脳に刻み込まれた液体デイバイスの暗黒面を、規則正しく歯磨きを続けながら考える。
これから、どうするべきなのか、
何を1番に考えて、行動すればいいのか、
そもそも完全体を発動させるべきなのか、
父と話し合う必要がある。
そう、思う。
まずは社に出勤して完全体・液体デイバイスの痕跡が残っていないか、関連資料の破棄は完璧かを確保しよう。誰かに見つかったら・・・今後を決めないうちに公になってしまいかねない。それだけは防がなければ。
洗顔をしていると、ノンカフェの香りがしてきた。右手でタオルを取って顔を拭く。ノンカフェの香りに「うんん」と声が出た。タオルから顔を上げると、鏡にコーヒーソーサーを手にした宗弥が写っていた。宗弥は昨日とは違うスカイブルーのTシャツに紺のチノパンをローライズ気味にはいて、入り口から鏡越しに私を見ていた。
「おはよう、宗弥。久しぶりに良く眠れた、ありがとう」と言うと、宗弥は手にしたコーヒーソーサーを魅力的に上げ「おはよう、富士子。どこに置いておこうか?」と言った。「テーブルにお願いします」明るく答えて、サクサクっと基礎化粧を施して髪をブラッシングする。
プライベートルームから部屋に出た。
視界の端に見えた隣部屋のベットは使われた様子が無く、宗弥は徹夜したのだろうかと思いながら、窓側のベットに腰掛ける。コーヒーを飲んでいる宗弥に「寝たの?」と聞くと、宗弥は口元に笑みをたたえ「ああ。お前のそばでな」と言ってウインクした。「お役に立てて、光栄です」と軽口で対抗する。宗弥の表情から心痛がなくなっていた。よかった。
ノンカフェを口にした富士子に「朝食は?」と聞く。富士子は「食べたくない」と短く応え、「そうか」と言った俺は、富士子が手にしているソーサー に砂糖ステックを3本のせた。すぐに「太る」と返してきた富士子に、「朝食、食べないんだろう」涼しい顔で言い返してやる。富士子は大人しくノンカフェに砂糖を入れ、手に取ったスプーンを浸してクルクルと混ぜて飲んだ。俺は満足する。
口にしたノンカフェは中近東のとろりとした甘く、ほろ苦いコーヒーの味に似ていた。その苦味を感じながら「軽井沢に行く前に少し時間ちょうだい。会社に行きたいの。完全体・液体デイバイスに関係するものが残ってないか、自分の目で確認したいの。そうしないと安心できない。宗弥、1時間くらいで済むから」私は一気に言う。
「どうしても、行かなきゃならないか?」と固い口調で富士子に問う。「完璧に破棄しないと。宗弥ならこの意味がわかるでしょう」と言った富士子の表情に決意が現れた。その顔を見ながら「本社ビルは完全なセキュリティーが効いているしな」と考えを口に出し、「時間厳守で45分」としぶしぶ承諾する。「ありがとう」笑顔の富士子が頭を下げた。「お前の自宅にも寄るから、そろそろ出よう」椅子から立ち上がりながらファイターに電話をかけ、ワンコールで出たファイターに「おはよう、ファイター。ああ、わかった」と言いながら隣の部屋へと向かう。
仕切りドアのノブに手を掛けた宗弥がスマホに「ちょっといいか」と言って、私に振り返り「準備が整ったらドアを開けてくれ。ここで使った物は構わず置いていけ。身軽で頼む 」と言い、「それで、どうなった?」と言いながらドアを閉めた。
宗弥はピリリとする声でファイターさんとやり取りしていた。その声を聞いて、これからは身の安全を一番に考えて行動する日々なのだと実感した。
寒々しい気持ちで、一面鏡の扉を左に引く。
白綿のオーバーシャツと、紺のワイドパンツが掛かっていた。
部屋着を脱ぎ、シャツを身につける。
柔らかい着心地が心地よかった。
着替えを終えて、鏡を見る。
快晴を思わせる印象だった。これからの私とは真逆だった。
ひと目に付かないように生き、なるべく外には出ず、いつも誰かと一緒で、一人になる自由は贅沢で、研究もしなければ、やることもない。そう考えたら視線が落ちた。
生き方が変わる。
これまでの事が、これからの生き方に影響を及ぼしている。無駄に生きていただけだ。




