富士子編 60 告白
シーン60 告白
いまさら、名前で呼ぶ男に嫌悪以上の軽蔑を覚える。その表情を見てやろうと目を絞るが、その男には影が落ちていた。その不気味さが導火線となり、ここに至るまでに溜まりに溜まった要への不信が、富士子の中で一気に爆発する。その衝撃波は富士子を玄関へと走らせた。
ドアまであと4歩という所で要が「待って下さい」と呼び止め、歩み寄って来る要に富士子は振り向きざまに「近づかないで!!」と叫ぶ。だが、要の歩みは止まらず、要が止められるわけもなく「話を聞いて下さい」となおも言い、要を見る富士子の目が獣のように鋭く尖る。
その目を見た要は、立ち止まった。
なんと美しく、気高いのだろう。
思わず、跪きそうになる。
肩を怒りで震わせ「今更、なにを話すと言うんですか!!!」険しく吐いた富士子に、要は「説明を」と苦しげに言うが、富士子の「あなたは卑怯です!!!」と言った怒号が要の心に突き刺さる。自分に向けられた富士子の目に憂愁を見た要は・・これ以上・・・・無理させたくはないと思い、the end だと決めて毒を飲む。
左の口元を卑屈に上げた要は「それが僕という人間です」悪びれた様子も無くそう言って退け、破壊力満点であろう笑顔で富士子を大胆に見る。
その笑顔を見た富士子は最大限の身体能力を使い、瞬く間に要との間合いを詰めるや、右腕を鞭のようにしならせて45 度に振り上げ、手首を先に返して要の左頬を水平に打ち抜いた。
まともに喰らった要は右に振り飛ばされる。その衝撃は柔軟性の上半身に伝わり、見事な流線形を描いた上半身は右斜め45度に湾曲するが、鍛え抜かれた下半身は身体がフラつく事を許さず、右足がほんの数センチ横にずれただけで難なく富士子の渾身を吸収して受け流した。
打った!!私は自分の怒りの激しさに驚く。だがそれよりも右手のどぎつい痛みにたじろぐ、痛みが罪悪感に変わってゆく、罪の意識が良心に直結する。
感情的な衝動に富士子は気力を削がれ、自責の目で要を見た。
ゆるりと頭を上げた要の顔に前髪が落ち、その隙間には蒼に染る白目があった。漆黒の瞳は氷河期さながらに冷え込み、左唇が切れている。口元から滴る血に狼狽して、怯んだ富士子に、要はニヤリと笑い、富士子の瞳を無機質に見たまま、口の中で半回転させた舌で右頬を膨らませ、ゆっくりと上下させた後、赤い舌で流れる血をべロリと舐め取った。獲物の血の一滴まで逃すまいとするかのように。
この血は、この女性の愛だ。
一滴とて、逃すものか。
要の口元が、かすかに笑う。
富士子は要の振る舞いに衝撃を受け、目を泳がせて下を向く。
要は自らの意思で一歩下がり、斜め後ろに右腕を上げ、店内中央にあるテーブルの椅子を指差して言う。「座れ」と。その声は静かすぎた。
目を見張る富士子に要は追い討ちをかける。「椅子に縛り付けることだって出来るんだぞ。座れ」支配力と傲慢さを含む声でそう言い放ち、青筋を立ち昇らせた目で富士子を見定める。
富士子は男性の本気を目の当たりにして観念した。理由を知りたいと思う気持ちもこの後に及んでさえもあった。
ぽつりぽつりと歩き出してテーブルにじり寄り、テーブルの端に右手の人差し指をおく。その指先を滑らせながら歩き、椅子の横に立つと振り返って、後悔の眼差しで要の顔を見る。青く、氷河期の目は変わりなく富士子を見ていた。富士子はその目を見たまま椅子に腰掛ける。
要は「水を持って来ます」さざなみのような声で言ったものの、富士子をしばらく見ていた。
どこにも行かないと信用できなかった。ただ、富士子を見ていた。富士子の体から緊張が解けたのを見てやっと安心できたが、それでも「そこに居てください」と言わずにおれず、カウンターへと向かった。
カウンターに入った要は富士子が座っているテーブルのライトを、わずかに明るくする。憂いを帯びたといっても富士子は変わりなく美しく、しばらく要を釘付けにしたが、要は意を決して富士子に背を向け、飲み物専用の冷蔵庫から350ml のエビアンを左手で1本取り出し、隣の食器棚の観音開きを右手で開ける。少し迷って薄く細長いガラスコップを選び、左手のペットボトルを掴んでいる拳で扉を軽く押して閉める。
富士子の前にコップをおく。富士子は反応しない。ペットボトルのキャップを開け、締め直してコップの右横に揃えるように置いた。椅子に座る富士子を見つめて思う。頼む、僕を見てくれと。
テーブルにおいたコップがコトッと音を立て、富士子は我に返った。心にある無情さは否めず、無言をつらぬいた。
叶うはずもない。要は椅子に座り「なにか、僕に聞きたい事はありますか。今回の作戦は規定外のことが多くて、僕がわかる範囲でなら、お話しすることが出来ます」普段からはとても遠い、冷え冷えとした声だった。冷たい声だ。そんな声質の僕は富士子という獄に繋がれはしたが、心は死んだ。もう二度と愛されないだろう…、も、う、一度、あ、い、さ、れ、た、い。勝手だ。そ、れ、で、も、そ、う、お、も、う、こ、と、は、じ、ゆ、う、な、は、ず、だ。だけど僕には…その資格が、な、い。
要は富士子からの問いかけられるのを待ったが、無言を悟り、言葉を紡ぐ。「父上と浮子さんは今、宗弥と別のチームが付き添って、軽井沢の安全な別荘にいらっしゃいます。看護と警護体制は万全です。お二人には今後、この件が収拾するまで軽井沢に滞在して頂く予定です。もちろんあなたにも、そうして頂きます」と言って富士子の言葉を待つ。
険のある表情で座っている富士子は心もかたくなで、これまでの経過もうまく飲み込めていない。
父と浮子の安否がわかった今、知りたいことが、聞きたい事が、他に何があるだろうかと考えれば、尾長さんを苦しめてやりたいと思う言葉ばかりが浮ぶ。
誤作動を引き起こした思考が、富士子の理性をぶっ飛ばす。
「あなたを信じた自分に反吐がでる」富士子はもう、もうどうでも良くなる。
「弄んだのよね、 生きたまま殺してやる」と呪詛し、目の前に座っている要に赤く滲んだ目を送るが、どこまでも冷静で気配を消した男が1人、座っているだけだった。
ジッと 黙って聞いている様子も気に入らず、富士子は要から視線を引き剥がしてペットボトルを睨み、右手でペットボトルを取り上げてコップに水を注ぎ入れて飲むが、その味は苦く、喉につかえ、内情の悲しみが競り上がってきただけで、沁みる瞳も情けなく、自己憐憫だけはすまいと決め、たとえ泣いたとしても意見だけはしっかり言おうと、冷静に聞きたいことはともう一度、自分に問い正して富士子はその言葉を口に出す。
「あなたはなぜ、私の前に現れたのですか?」
内心で、絶句した要は顎を固くした。心が揺らいだ分だけ答えるのが遅れ「あなたの脳を守るためです」 と感情を殺した声で答えた。
思わず「脳?」とおうむ返しをした富士子に、「そうです。あなたの脳です 」今度は躊躇なく明確に言い切り、真意を求めて赤い目を曇らせた富士子に、要は「あなたが今研究している完全体•液体デイバイスが完成したら、どう運用されていくか、あなたは考えた事がありますか?」と問いかける。
富士子は迷わず「人間の失われた機能を克服します。 液体デイバイスは老いによる身体の機能低下、柔軟性の退化を取り戻します。そしてもう1つ、液体デイバイスをパネル状にした物を失われた身体の切断面にうめ込み、液体デイバイスで神経形成した特殊部位を装着すれば感覚も取り戻せます」と研究者の面差しで返す 。
その返答に要は「液体デイバイスは電子認識する。意識を持っているという事ですか?」と聞く。「はい」富士子は即答で承知する。
液体デイバイスに関する富士子の返答の高潔さに意を決した要は「メンテナンスを必要としない完全体・液体デイバイスを、あなたは完成させたと聞いています」と口にした。
富士子の表情が挑むような顔つきに変わる。
要は話し続けた。「ご存知でしたか。あなたが不完全と思っている液体デイバイスはすでに運用されています」、「えっ!!」と富士子が声を上げるが、要は淡々と畳みかける。
「完成度70%の段階から運用されています。僕に近いところで言うと僕たちが戦闘時に着用する戦闘服、ボディ・アーマースーツ、防弾装具、内耳モニターらがそうです。例えば、ボディ•アーマースーツに使用されている液体デイバイスは微粒子ほどのサイズに加工され、その形状はサメの歯に似ています。その形に加工された液体デイバイスパネルをナノレベルで少しずつずらし、重ね合わせて布状にした物がボディ・アーマースーツに使用されています。原子が超極小なので伸縮性にも富んでいます。用途、強度を自由自在に変えられる液体デイバイスは熱源探知の遮断、着弾、接近戦で負う負傷から僕らを守っています。何より、液体デイバイスの最大の利点は電磁波も熱源も生命反応ですら感知させない。ですから、液体デイバイスを転用した戦闘装備を着用している限り、僕らは追尾不能となります。追尾不能が現代の戦闘においてどれほど有利なのか、わかりますか?仮に完全体・液体デイバイスを、あらゆる面で軍事転用したらどうなると思いますか?」と聞く。
富士子が首を振る。
「一例を言わせてもらえるならば、完全体・液体デイバイスパネルで覆った弾道ミサイルは宇宙空間からの衛星監視を、地上からのレーダー追尾監視システムを難なくすり抜けるでしょう。完全体は今の世界である意味、威嚇という脅威の上で保たれてる平和の均衡を崩します。弾道ミサイルを撃ち込まれた国はどの国からの攻撃なのか、どこから打ち上げられたのか判別できない。ですから、疑心暗鬼になります。各国が保有している弾道ミサイルの照準は仮想敵国の主要都市、重要施設、インフラに合わせてあります。攻撃を受けた国は躊躇なく反撃します。それを目論んで使用する国だって出てくる。戦争の勝利者が次の世界をつくり、敗者の悪や罪は暴きますが、勝者の悪は闇に葬り去ります。それが戦争の常です。戦争をやるからには何がなんでも勝利しなくては、国は残っても、敗戦国をコントロールするために伝統、思想、意志、文化、言語、歴史認識さえ、勝者の手によって書き換えられる。勝利する為に必須のテクノロジー、完全体・液体デイバイスは世界のパワーバランスシートを機能不全に陥らせます。お分かりですか?大きくいえば国同士の信頼関係を上滑りさせ、大戦になりかねない」、「そんな転用はさせません!! 」と富士子は鋭く言い返す。
「いいえ、転用します。あなたの意思に関係なく。科学の進歩は人間の生活を豊かにしてきましたが、同時にその進歩を人は軍事転用してもきました。近現代史からの戦争の歴史を知れば、誰にでも理解できる人間の性です」要は悲哀が帯びる表情で断言する。
そして富士子に意思ある目を向け「その完全体・液体デイバイスの製造工程があなたの脳内だけに存在する。あなたの脳をどの国もが、欲しがるのは当たり前のことだ。僕たちの部隊は日々暗躍する各国の動きを偵察し、行動して得た情報を分析しています。今も部隊員は各国で我が国に対する不穏を追尾し続けている。この国を守るために。僕があなたに近づいた理由はあなたが他国と内通していないか、あなたを狙う国はどの国なのか、 あなたを自国に連れ帰ろうとする組織はどこから資金援助を受けているか、そんな様々な事からあなたを守り、探るのが目的でした」用心して発するつもりが、いつの間にかに言葉を氾濫させて溢れ散らせていた。
富士子は、その波にのまれる。
要はすでに自分が語った言葉数の多さに後悔しはじめていた。それでも富士子が今聞いた文言を考察し、吟味するのを待った。
眉間に深く皺を寄せた富士子が顔を上げると、要はしばらく富士子の揺れる眼差しを見ていた。その瞳に液体デイバイスの暗黒面を知らなかった己の愚かさへの後悔が滲み出ると、要は「僕はあなたにこの事実を知って欲しかった。乱暴な方法をとって申し訳ありませんでした」と言った。要は権限を超え、越権を犯して話をしていた。要は「理解できましたか?」と富士子に聞く。
富士子はその問いには答えず「あなた方の監視は、いつから始まっていたのでしょうか?」と言った。
「規定上、お答え出来ません」と 冷たくあしらった要は、黙り込んだ富士子に、「あなたが石段から僕に向かって、降ってきた日の以前からです」と言った。その言葉に富士子は自分を手放そうとした事を思い出し、要との僅かな日々を追憶する。
潤む目で要の顔を見返して、富士子は下を向く。
あなたを愛し続けます。要は内心で呟く。
一時が過ぎた頃、俯いていた富士子は振り絞るように「あなたは…私が……、あなたに寄せている好意を…利用しましたか?」と切なくも聞く。「いいえ」要は即答する。
その答えに富士子は顔を一段と赤く染めてしたを向く。振り絞るように「わたしはあなたに対して、下品になる」と呟き、そろりと顔を上げて要を見るが、要の氷河期の目は溶ける気配は無く、その瞳に富士子は絶望的に訴える。
「私はあなたを」、「あなたは、僕の監視対象者でしかない」と要は割って入る。
その言葉を聞いた富士子の左目が微かに痙攣したのを目にしても、要の表情は揺ぎもせず、富士子を目の前に置いて平然としていた。
富士子はそんな要の姿を見て、涙が溢れる。涙が落ちるのを顔を大きく俯かせて見せまいとする。歯を食いしばるが押さえ切れず「くっ」と声が出てしまい、なお頭を項垂れて凌ごうとするが身体が震えだし、その震えに心が悲鳴を上げ、富士子は勢いよく立ち上がって要に背を向け、両手で口を押さえて泣き声を殺す。
その姿をしばらく見ていた要は音もなく立ち上がり、富士子の背後で立ち止まる。嗚咽を漏らす度に、赤く染まる富士子のうなじを黙って見ていた。
漏れ聞こえていた泣き声が、小さくなってゆく。
要は革ジャンを脱いで持ち変え、自宅から上着を着忘れて来た富士子の肩に、指先が触れぬよう気を配りつつ富士子の両肩を包むように掛けた。が、富士子は即座に革ジャンを右手で掴み取り「今さら!!やめて下さい!!!」と激情のままに投げ捨てた。
要は3歩下がって拳を握る。確かにそうだ。富士子さん、あなたは正しい。
カギの解除音が微かに響いて宗弥が姿を現す。宗弥は富士子と要の様子を見るや、鋭い視線で要を刺し、一気に間合いを詰めて要の胸ぐらを掴むや、神速でカウンターへと追いやった。
要はされるがまま、後退する。
身体がカウンターに当たり、ドスっと鈍い音を立てる。
2人は獣のように、雄同士の形相で力で押さえ込む戦いを始める。
要は自分の胸ぐらを掴む宗弥の両手首を左右それぞれの手で掴み、宗弥の胸に押しやりながら絞るようにして肘関節の可動域を固め、宗弥は要の胸を掴んでいる両の拳を要の首に押し込んで圧を掛ける。
2人の男は富士子の目の前で怜悧に睨み合い、重く、静かに相手の死角を狙い、仕留めようと相手の力を殺し合う。
富士子はその姿を見て怯え、青ざめた富士子の顔を後悔の目で見た要は折れ、薄氷を踏む慎重さで「宗弥、もう時間も遅い。僕たちの事はまたにしょう 」と言い、その言葉の意味を瞬時に理解した宗弥は、殺気だった目を富士子に向け、その瞬間を逃さずの要が「金庫室の2階を富士子さんに使ってもらう。お前が付き添って金庫室の扉を閉めてくれ」、「いや!嫌だわ。宗弥!あそこには入りたくない!!」と富士子が叫び、訴え、その声を聞いた宗弥は肩をビクリとさせ、富士子は「家に帰して !!宗弥!!」と懇願する。
間髪入れず「明日の朝、軽井沢に送ります。今夜はここで過ごして下さい」と要が言うと、「ここには居たくありません!!帰ります !」噛み付く勢いでそう言うや、富士子は歩き出す。
その富士子を追った宗弥が富士子の右肩を左手で引き留め「わかった。ちょっと待て」と言って振り返り「ファイターと、あのホテルに入る 」、「ここが1番安全だ!」とかぶせた要に、宗弥は「ダメだ!」と無下に言い、要は落ちた視線で一点を見つめて思案する。宗弥と…ファイターがいて……、あの場所なら…安全だ。だが、僕も同行する。
要は富士子を見る。限界を越えている。これ以上、僕がそばに居てはいけない。
「わかった、そうしてくれ。宗弥、オレンジの鎮静剤を持っているか ?」と要が聞くと、「それがどうした」と投げやりに返した宗弥に、要が「富士子さんに飲ませてくれないか」と聞いた途端に宗弥は大きく舌打ちする。富士子の後ろ姿を痛ましく見た宗弥は首だけで要に振り返り、睨みつけ、その視線に要は「すまない」と謝ったが、無言で睨みを強めた宗弥は“殺すぞ“と書いた鳶色の瞳を要にねじ込んだ。
視線を戻した宗弥は「行こう。富士子」 と声をかけ、富士子の脇を通り抜けてドアを開けるが、富士子は動かない 。クソ、こんな状態にされてもなお、富士子は要を見捨てられないってか、クソたれ!!!濁世に塗れるな!!富士子!!!宗弥は富士子の右肘を左手でガッチリと掴み、富士子を引きずり出すようにして外に出て行った。




