富士子編 58 声
シーン58 声
タクシーに乗った富士子は助手席のヘッドスタンドを、視点の危うい目で見続けていた。脳がアンダーノートの香りに抗えず、香りを追いかけ続けていた。富士子がタクシーに乗ると要は車内に上半身を入れ、運転手に富士子の自宅の住所を伝え、運転手がナビに打ち込むのをそのままの体勢で待った。
残り香が富士子を要へといざなう。
運転手が「この辺りですよねー」と富士子に声を掛け、富士子の無言に振り返り「お客さん!大丈夫ですか?この辺りじゃないですかね?」と再度、大きな声で問うた。
意を突かれた富士子は「すいません!」と答え、運転手から視線を車外に移す。景色を見渡して自宅の3軒隣だと気づき「あ、家の近くです。ここで降ります」と言い、運転手は「あの男の人に、家までと念押しされたけど、まっいいか」と言いながらブレーキを踏むと同時にメーターが上がる。運転手か「あっと、ごめんね、お客さん。2130円になったよ」と言った。
門のパネルに暗証番号を打ち込み、玄関までのアプローチを歩きながら、富士子は自分はお釣りを受け取っただろうかと考えるが記憶があやふやだった。心の友ブルーが『もらったよ』と話しかけてくる。
『ありがとう』と応えると、ブルーが『映画、残念だったね』と萎んだ声で言う。『そうだね。また今度を楽しみにしてようね』富士子が明るく励ますと、ブルーは『今度って、無いに等しくない。なくなくない』と大人びた口調で言う。
確かにと思ったが、認めたくはなく、富士子は『そんな意地悪言わないで』と返す。『ふじちゃんがいいなら、それでいい』と言ってブルーは心の宮殿の奥に歩いてゆく。不機嫌な足取りだった。
トートバックから鍵を取り出して、父が好きな玄関ドアに鍵を差し込もうとして、そこで初めて富士子はドアにA4の茶封筒が貼ってあるのに気がついた。
深く考えもせず、左手で封筒の底を持ち楚々と上に向けてゆき、マスキングテープを剥がしていく。剥ぎ取ったA4封筒をトートバッグに入れて、錠前に鍵を差し込むが上手くいかず、膝を折ってしっかりと錠前見て鍵を差し込んで解除する。
靴箱の上にある赤いサファイアガラス器に鍵を置きながら、封筒は研究所からだろうと思う。「ただいま」と声を掛けるが返事はなかった。浮子は病室の片付けに手間取っているのだろうと考えれば、心が沈む。
アイランドテーブルの上にトートバッグをおき、左肩の書類鞄を床に落とすようにして下ろした。何もかもがうまく噛み合わない日だった。厄災日かと思う。
水切り布巾にのる青色のガラスコップを右手で取り上げ、蛇口のノブを精製水の方向に捻って、コップに水を注ぎ入れてその場で飲み干す。もう一杯、精製水を注ぎ入れてから振り返る。シンクに腰を預けて今度はゆるりと飲む。
トートバッグから飛び出している茶封筒に目がいき、アーバンノートで停止してしまった脳は研究資料に目を通せば回転し始めるだろうか…と思う。水を口にしながらテーブルに歩みよる。左手で取り上げた封筒をテーブルの上におき、内に左手を入れて資料紙を引くようにして外に出す。
制服姿の要の写真が添付されていた。
一驚した。尾長さんに何かあったの!!右手に持っていたコップをテーブルに置くが、テーブルの端に当たってコップが落下する。パッリーンと砕け散る。両手で持った資料を走り読む。
尾長さんのこれまでの経歴と…、尾長さんの…現在が…指揮している作戦、なんの事!…父と私の経歴、監視警護の目的が書いてあった。
どういうこと…頭がついて行かない。尾長さんの仕事。……、今までの全てが仕事で。…この人は誰なの!………何の為に。ついた…、嘘をついてた……ウソだった!!作戦指揮者ってなに!!!!
最後の1枚には日付が半年前からの富士子と国男を、遠撮した写真が3枚ずつコピーしてあった。
もう一度読んで、富士子は呆けたように椅子に座り込む。茫然として、テーブルの上にある資料を眺め、嘘だと思う。理由が思い当たらない。私は、監視されるようなことはしていない。監視・・警護・・父だ・・・また・・父!!!
またしても父・・・富士子の目が座る。
記憶のパーツを繋いでゆく。
出会い、宗弥の紹介、宗弥の職業。いつも偶然、尾長さんは現れた。
見ていた。
私を。
脳内で監視警護の文字が踊る。
全てが崩れて、理解する。
仕事のために、私の前に現れた。
脳に爆雷が落ちる。
閃光が、身体を貫く。
屈辱的だ!!!!私の心を利用した!!!!!!!!
屈辱が、憤怒に裏返る。
自分のプライドのために3枚の資料を3回熟読したが、心が押し潰れただけだった。心が固くなる。もういいと、破り捨てようと資料を手にした瞬間、スマホが鳴った。
トートバックに入れてあったスマホを右手で取り出して、血しぶきの目で画面を見る。
非通知表示だった。
鳴り続ける着信音に嫌悪を覚え、スライドさせてOFFにする。
スマホを投げるようにテーブルにおく。
スマホがまた鳴り始める。
見えている画面には非通知の文字、憮然と無視する。
今度はメッセージ受信の音が鳴り、憤怒の鉾先がスマホに向く!
乱暴な手付きで画面を開く。
“お父様の事故の件で、お話したい事かあります。電話でお話し致します。通話に出てください“
また、スマホが鳴り始める。
怖れを抱くが、激憤に押されて通話をONにする。
いきなり相手が話し始めた。
「資料は読みましたか、会って説明させて下さい。 ご自宅の前に停めてある車の前で、私の部下が待っています。その車に乗って、こちらに来て下さい。案内する者はあなたも数回、見掛けている者たちです。安心して下さい。それから、これからはスピーカーフォンでの会話でお願いします。車に移動して頂けますか」
一方的な要求ばかりする声は、尾長さんだった。




