富士子編 50 話をする
シーン50 話をする
外に浮子の姿がなかった。富士子は心配になり、玄関ドアを少々乱暴に開けた。微かなピアノ協奏曲4番が聴こえ、詰めていた息を静かに吐いた富士子はキッチンリビングへと入って行く。アイランドテーブルの椅子に浮子は着替えもせずに座っていた。その姿に、富士子は普段とは違う雰囲気を感じ取る。家族の帰宅に気を配る浮子が、玄関ドアが開いた事すら気付かず、一点を見つめていたからだ。
違和感とピアノの音も手伝ってか寂しげに見え、浮子自身も自分の存在を霞ませているようにも感じ、富士子の嫌な心持ちがソワソワと動き出し、心に不安が降り始める。
浮子の愁眉を開きたく、富士子は「浮子、 ただいま。ちらし寿司美味しかったわ。尾長さんと3人で食べたのよ。それから明日の夜、映画を観に行きませんか?って尾長さんに誘われたの。行くことにしたわ 」くっきりとした声を少々大にして言った。
ハッとした浮子は取り繕う様に「お帰りなさいませ、お嬢様。まあ、まあ、それは 、それは。よかったですね、お嬢様」繰り返した単語を繋ぎ合わせながら立ち上がる。
富士子と向き合った浮子は「先ほどはお先に失礼しまして、申し訳ございませんでした」と言いつつ富士子からお重を受け取り、調理台で風呂敷きを解きながら「浮子はあの方、好きでございます。特にお顔が。狂った果実でデビューされた時の石原裕次郎さんに似ていらして、浮子の好みでございます 」最後はいつもの調子を取り戻していた。
アイランドキッチンのそばの床に、富士子はトートバッグと書類カバンをおきながら、浮子の後ろ姿を見る。浮子は着替えもせず、何を考えていたのだろう。だが、今の浮子の佇まいはそれを聞かれる事を、拒否しているようにも見える。
沈黙を破るように、お重を洗い始めた浮子が「お嬢様、お車無くてお帰りは大変ではございませんでしたでしょうか?」と聞く。富士子は「大丈夫よ、子供じゃないんだから」あっけらかんと言い、浮子の背中を見つめたまま椅子に座った。そして「お重ありがとう。どのお料理も美味しかったです。会長にも、尾長さんにも好評でした」とかしこまった口調で言うと 、笑顔の浮子が振り返り「お嬢様、浮子のお重はいつも好評でございますよ」と言った。
富士子は浮子の考え事を、聞き損ねる。
泡を洗い流しながら浮子は「お1人でお帰りでございましたか?」と尋ね、富士子は「そうよ。会長が尾長さんにタクシー乗り場まで、私を送ってもらえないだろうかって言ったのよ。会長もそういう事いえるんだって、聞いていて驚いたわ。送ってもらってる時に映画に誘われたの」さらりと話す。
その富士子の様子を途中から見ていた浮子は「さようでございましたか、よろしゅうございましたね、お嬢様。明日は、どちらの映画館にいらっしゃるのですか?」と喜色を露にして聞く。
富士子は「あっ」と小さく声をあげ、「病院の正面玄関で待ち合せしたの。尾長さん、わざわざいらっしゃる事になるのよね 。ほんと気が回らない」と早口で言い、うつむいた富士子の心に後悔の波紋が立つ。
隣に座った浮子は富士子の横顔を覗き込んで「嬢ちゃま、尾長さんがそうしたいと思われたのではないですか。そういう風に嬢ちゃまを扱って頂けて、浮子は嬉しゅうございます」語り掛ける様に言った。
富士子が、切なげな顔をする。
その表情を見た浮子が「どうされました?」と聞く。「浮子。私、こういう事、慣れてなくて、言葉も上手く出てこないし、恥ずかしくて気後れしてしまう。スマートじゃないって思ってしまうの。あとで、あれこれと考えて、バツが悪くて悔やんでしまうの。今もそう」と、富士子がしぼり出すようにいうのを聞いた浮子は「お嬢様、研究ばかりに夢中になっているお気持ちが、外の世界に向くのは大切な事でごさいます。先回りして考えず、時の流れに任せてみてはいかがでしょう」と言って、淑やかに微笑む。
「何かお飲みになりますか?」と聞かれた富士子は、浮子の前にあるカップを覗き込んだ。すると浮子は「漢方茶でございます」とツンとする調子で言い、富士子がその顔を見て「どうしてそんな顔するの?身体に良いことよ」というと、浮子はわずかにひるんだ。
今度は富士子が「どうしたの?」と聞く。浮子は富士子の顔をしみじみとした目でみると「行き届かない事ばかりが増えてきましたのに、わたくしは歳をとったと未だ認められずにいます。ぼんやりとした老いへの不安が、時々ゆらりと浮かんで、マゴついてしまうんです」と打ち明けた。
富士子は初めて浮子の弱音を聞いた。浮子がさっき考えていた事だと直感する。
気づいた富士子は浮子がする仕草を真似て、左手を浮子の背に添え、ゆっくりと上下させながら「浮子、歳は誰しもが取るものよ。ごめんなさい。こんな当たり前のことしか言えなくて、けれどもね、私、浮子を見ていていると気持ちがいいのよ。清らかでやんわりとしているけど、心は揺るがない。自己をきちんと確立しているのね、浮子は。羨ましいわ。私は浮子の様になりたいと思ってるのよ。今まで浮子の不安に寄り添えなくて、ごめんね」と正直な心で話す。
浮子の瞳から涙がポトリと落ちた。
べトリとせぬよう富士子は何も言わず、浮子の隣に座ったまま背を撫で続け、浮子の気持ちが立ち上がるのを静かに待った。
誰しもが、いつも幸せなわけではない。起きた事を、どう受けとめるかで幸か不幸を選択できる。誰かのせいにするか、別の道を選ぶか、粛々と受け入れられるか、無関心に受け流すか、寂しく思うか、何かのサインと感じて行動に移せるか、心の平安は自分で作り出すものなのかも知れない。




