富士子編 5 本堂前
シーン5 本堂前
毎年のことながら、母の墓前に立つのは辛い。どうして私ではなく、母だったのか・・・。そう考えずにはいられない。富士子は頑なにそう考える。
いらない子。親殺し。疎まれっ子。父と母の間には断ち切れないほどの愛があった。それを破壊したのは私だ。何ゆえ、私はこうして生きている。
沈む気持ちで歩き出す。宗弥と待ち合わせしている。また心配をかけてしまう。暗い顔で会ってはいけない。笑っていなければ…。贖罪として唯一、この世で私ができる“事“なのだから……。
誰かが般若心経を唱えていた。その声には低音が厳しく響くも、慈愛の引力があった。枯渇し飢えた心で、私は愛を求めて本堂へと歩く。
目を細めて、お堂の中を見る。唱えているのは尾長さんだった。カサブランカの花束が経机の上に備えてあった。何故か、大輪の花から清楚な悲しみを感じた。
尾長さんの右後ろに手を合わせて正座する宗弥。その隣にもう一人男性がいた。3人の背中は鉄板でも入っているかのようにピシリと伸び、広い。上着越しなのに鍛えられた背筋が見て取れる。足音を立てないよう、気をつけながら三段の階段を上がり、毘沙門天さんに背を向けて切目縁に座る。
朗々と続く、般若心経を聞きながら目を閉じる。降り注ぐ太陽に顔を向けてみる。目の前に照柿色の光がぽっと現れ、その光が全身を包んでゆく。
暖かい。瘡蓋が剥げ、未だ母の死を痛む心が治癒されてゆく。許してほしい。もう疲れた。金木犀の香と共に…私は……ママ、ごめんね…。
いつの間にかに訪れていた静寂に瞼を開けると、視線の先に尾長さんがいた。隣に宗弥が座ってもいる。太陽の眩しさに目を瞬たかせると、宗弥は「日焼けするぞ」と言い、スッと身体をずらして私を日陰にした尾長さんが俯いた。
いつとはなしに隣に座っていた宗弥にも、お堂から外に出ていた尾長さんにも私は気づかなかった。そうだ、この2人からは生活音がしない。さっきもそうだった。すぅーっと現れて、すぅーっと消える。幽霊みたいだ。だとしたら、なんと心強い亡霊たちなのだろう。いけない…、思考がまだ暗い。
顔を覗き込んで来た宗弥が「車あるのか?送って行こうか?」と私に聞く。左手の腕時計に視線を落として「そろそろ車が帰って来ている頃だから 、大丈夫。ありがとう」と微笑む。宗弥が尾長さんをチラリと見る。
そして、私に顔を向けた宗弥が「そうか。 じゃあ、駐車場まで送るよ」と言った。私が「ありがとう。ねえ、宗弥達は今日、誰かの何かだったの?もう1人の方は?」と聞くと、宗弥は「帰ったよ。ちょっとな、日本も久しぶりだったし、たまたまだよ」と言って視線を落とし、コンバースの靴紐の先を、右手の親指と人差し指で摘み上げていじり始めた。
深くは言えないのだ。触れてはならなかったのだ。人にはそれぞれに、心の中にしまっておきたい事がある。それをたまに覗き込んでは一人感傷に浸る。今日の私がそうだったように…。
「ごめん。余計なこと聞いちゃったね」宗弥にそう言って、尾長さんの顔を見る。瞳に翳りを宿していた。宗弥と尾長さんは願いではなく、思いでもなく、誰かの死を弔っていたのだ……、ごめんなさい。
私は沈んだ。尾長さんが私に遠慮がちに微笑む。きっと私は、尾長さんを憐れむ表情で見てしまったのだろう……共感を求めて、不躾に。またも、ごめんなさい。
うつむいて立ち上がろうとすると、先に立った宗弥が私に手を差し出した。思わず、宗弥の顔を見る。宗弥はニヒルに笑い「今回は、わたくしめが 」と言って思いっきりカッコつけて、紳士のマナーを真似たポーズを取った。宗弥の気取りは、宗弥の魅力を最大限に引き出して嫌味にはならない。羨ましい個性だ。
「もう、なんなのよ、いつもはそんなことしないのに」笑い声で言ってしまう。宗弥がウインクしてくる。宗弥はこうして、いつも私を笑わせてくれる。心を読んでいるかのようなタイミングで…、ありがとう、宗弥。
淑女のごとく私はうなずき、宗弥の手を取って華麗に立ち上がってみせる。もう、大丈夫よという様に。宗弥の口元が緩んだ。安心したのだ、良かった。
3人で毘沙門天さんに一礼する。今年もありがとうございました。
要と宗弥は、富士子を真ん中にして歩き出す。