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国守の愛 第1章      作者: 國生さゆり  
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富士子編  49 要の決断


   シーン49 要の決断



 浮子のちらし寿司はやっぱり最高だった。銀杏切いちょうぎりした人参はあごだしのお出しに、薄口醤油と砂糖控えめの味付けでしんなりとさせ、別鍋で煮込んだはずのどんこ椎茸と干し大根は、しっかりとした歯応えを残して甘めに仕上げてあった。いつも通り。浮子さん、さすがです。♪( ´θ`)ノ



 浮子のちらし寿司は硬めに炊いた米に鹿児島産の薄口醤油、きび砂糖、壷造りの黒酢と少々の岩塩で手作りした三杯酢を加えて、小さく乱切りした作り置きしてある酢レンコンと、煮込んだ具を入れて軽く切るようにして混ぜ合わせ、その上に厚めに切った錦糸卵と“なぜか浮子は厚く切る。どうしてだろう?“桜でんぷと細く千切りしたスナップえんどうと茎を取った山椒の葉を散りばめて飾り付けてある。



 頬張ほおばると椎茸から染み出したお出汁だしじるが、全ての食材とからみあって、その中で錦糸きんし卵と桜でんぷが甘味を主張し、酢レンコンのシャキシャキとした歯応えがアクセントになる。そして決めては三杯酢の風味だ。絶妙な味わいが口の中でハーモニーする。浮子のちらし寿司は味覚の宝庫だ。



 ちらし寿司は盾石家のお祝い日には欠かせない定番料理で、その日以外でちらし寿司が食卓に上がると、富士子はなにか良いことがあったのかと浮子に聞く。



 今日はなぜ、ちらし寿司を作ったのだろうと考えながら廊下を歩く。心当たりはなかった。帰ったら理由を聞いてみようと思いながら、富士子は前をゆく要の姿を見る。左手に風呂敷包を下げ、右肩には富士子の書類鞄を掛けていた。



 私が食事の後片付けをしていると、父は「尾長さん、タクシー乗り場まで、富士子を送ってもらえないだろうか」と頼んだ。尾長さんは快諾した。私の口はOの字になりかけ、2人の会話を聞こえなかったフリをした。



 廊下に出ると尾長さんは私の左肩から下げている書類鞄と、右手で抱くようにしてかかえていたお重を見て「綺麗なお姉さん、僕が木偶でくの坊に見えてしまいます。その書類鞄と風呂敷包みを持たせてください」と言った。


 

 病室の前で尾長さんと押し問答しているのを、父に聞こえてしまうと思いながらも、警備をしている川上さんが口元に笑みを浮かべ、事の成り行きに興味を示している様子だったけれども、尾長さんはいつもそう言ってくれるけれど、それでも申し訳なく。そんな私を見た尾長さんは「トレーニングをさせると思えばいいのです。僕は日々、鍛えなければならない公務員なのですから」と言った。あの犬歯の笑顔を見せられて、私は承諾した。



 「ありがとうございます。お願いします」と言った私は、左肩の肩掛けショルダーに左手の親指をかけ、左手に持ち変えて差し出し、尾長さんは私の手から遠い場所を選んだ右手で掴み、右肩にショルダーを掛けた後、風呂敷包みの結び目を左手で掴んで180度くるりと身体を反転させ「タクシー居るかなぁ」と呑気に言って、スタスタと歩き出した。



 私は尾長さんを追うように歩き出し、前を歩く尾長さんの歩調はハイヒールでも十分ついていけるテンポで、いつもみたいに数歩あいては一歩小走りして追いつく必要はなかった。気遣ってくれていると勝手に想像した私は、そんなことまでもが嬉しく。



 5階から乗ったエレベーターが2つ下の3階で止まり、介助者が押す車椅子のおばあさんが乗って来た。



 おばあさんは尾長さんを見上げると、ニコニコと顔をほころばせ「まあ、まあ、今日もお見舞いに来たの?ご苦労様です」 聞いている方が笑顔になるような可愛らしい声で尾長さんに話し掛け、介護者さんは「すみません、息子さんと勘違いしているようです 」と尾長さんの耳元で小さくげ、尾長さんは「元気だった、母さん。しっかり休むんだよ。明日またね」と声をかけ、無言で介護者さんに会釈した。



 エレベーターが1階に到着し、要は車椅子が通りやすいように脇にれながら右手でドアを押さえ、車椅子を先に通す。おばあさんは去りぎわに僕の顔をジッと見て「明日もまたね。ご機嫌よう」と上品な口調で言った。ゆっくりと頭を下げたが、介護者に車椅子を押されて顔を上げきれぬまま行ってしまった。包丁を取り上げた母は元気にしているだろうか。要は遠い目で車椅子を見送る。



 断ち切るように富士子に振り向いた要は「どうぞ」と固い声で言い、富士子は会釈して先に降りた。要は富士子後ろを歩き、正面玄関フロアへと繋がる廊下を、富士子と要は前後を入れ変わって歩く。



 フロア手前で要は「止まってください 」と前をゆく富士子に声を掛け、富士子は立ち止まって振り返る。富士子の顔を見た要は「すみません。シューズのひもほどけてしまいました。ちょっと持ってて下さい」と言って、左手にあるお重を富士子に差し出し、富士子は「はい」と返事して、風呂敷包みに右手を回すようにして受け取る。



 富士子の前にひざまずいた要は、左足の黒革ハイカットコンバースの靴紐くつひもを結び直す。一歩後ろに下がろうとした富士子を、要は「富士子さん」と呼び止めた。富士子の右足はピタリと止まり、結び目から視線を上げた要は富士子を真っ直ぐに見つめ「綺麗なお姉さん、僕と映画を観にいきませんか?」と宣言するように誘う。



 いきなりのことに富士子は驚く。その富士子の表情を見た要は端正な顔立ちに微笑を加えて「明日のナイトショーはどうですか?」と魅力的な目で再び誘う。



 すくっと立ち上がった要は左手で風呂敷の結び目を掴んでお重を持つと、186cmの背を折り、富士子の煤竹色すすたけいろの瞳を捕らえて「断りますか?それとも、行きますか?」と今度は挑戦的な声で誘う。



 漆黒の瞳の尾長さん。その眼差しの強さに私は戸惑った。迷いのない瞳だった。私はその目を真っ直ぐに受け止めて「はい」と小さすぎる声で返事した。途端とたんに頬が熱くなる。心が勝手に顔をうつむかせた。ひどく恥ずかしい。



 尾長さんに「行くという“はい“ですか?」トーンを落とした独特な低音で聞き返され、私の顔は暖炉の前にいるかのように火照りだし、うつむいたまま「はい」と答えるのが精一杯だった。



 僕は身体を起こし、視線を床に落とした。富士子と向き合ったまま黙りこむ。さよならへの第一歩を踏み出しただけだ。後悔はないかと問われれば…ある。今やこの女性ひとに対する気持ちは仕事ではなく、作戦と同じ目的に向かってはいるが、発信点が違う。



 この女性にその違いがわかるだろうか・・今更、それを考えてもどうにもならない。先人の方々と同じだ。しかばねになっても、この国を、家族を、愛する人の未来を守る。その意志に違いはない。

 


 そうだ。これでいい。

 あなたに出会うまで、僕の人生は単純だった。

 僕はあなたと・・・を、僕の意思で捨てる。



 私は尾長さんを眩しく見上げている。尾長さんはうつむいている。ゆっくりと顔を上げた尾長さんは私を見て「明日は何時頃、病院にいらっしゃるご予定ですか?」氷が張り出しそうな静けさだった。



 私は顔を俯かせ「18時には、病院に来ることが出来ると思います」声がかすれた。「では、19時半くらいに正面玄関の外で待っています」尾長さんは染み込むような静かな声でそう言った。尾長さんはとても冷静だ。こういう事に・・・慣れているの?



 私のホワホワとする気持ちが浮遊する。

 胸が一杯で言葉が出てこない自分は、まだ許せる。

 嬉しいしから。



 だけど、耳まで真っ赤に染まった自分は呪う。

 恥ずかしいから。



 勇気を出して顔を上げ、私は「はい」と返事する。

 きちんと顔を見て、お返事したいから。


 

 「約束です」と言って、尾長さんは誠実な笑みをこぼした。恥ずかしさに負けず、なんとか微笑み返すことができた。うなずいた尾長さんが歩き出す。誠実という名の不誠実を僕は武器にした。あんなにも無垢な表情で「はい」と言ってくれた人に、僕は最低だ。



 己を爆破してやりたくなる。いや、爆破は簡単すぎる。

 

 一生、このとげかかえて苦しもう。


 僕の心は甘く、切なく、膿むだろう。


 その甘美かんびを想像しながら、フロアーへと僕は歩く。



 富士子は要の後を追いかける。2人でフロアーを横切って、要は停車しているタクシーに左手を上げ、富士子が乗車したあと、書類カバンを渡し、左手に持っていたお重を富士子の膝の上にそっとおく。



 ドアから一歩下がった要は、車窓越しに頭を下げる富士子を見ていた。


 要も会釈を返し、タクシーが走り出す。


 後ろに流れる尾長さんを振り返って見送る。富士子は要の姿が見えなくなると、寂寥感せきりょうかんとらわれた。



 “ いざ我ら降り、かしこにて彼等かれらの言葉を乱し、互いに言葉を通ずることを得ざらしめん“ 人は言葉を使う。その分、下等だ。今日僕は、それを体現してみせた。





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