富士子編 33 第一大隊宿舎
シーン33 第一大隊宿舎
国防大学への立ち入りは、一般開放される行事の日以外は原則禁止となっている。
広葉樹が両サイドに植えらた校内路の所々には、意図的に起伏が作ってあった。有事の際、校内への侵入をすんなりとは許さない目的と、敵の体力を削ぐのが狙いだ。国防大学の後方15kには自衛隊駐屯地があり、地理的に海に近い国防大が、専守防衛の最前線になる可能性が大だった。
正門から30mほど歩くと、葉の生い茂る樹々がぐるりと、一周するように植えられたグランドが見えてくる。
グランドには高さ60㎝、幅2mの芝観覧席が3段構えで設てある。この観客席も有事の際、掘切や土塁、切岸の役目を果たすよう設計されていて、グランドを取り囲む樹々は迷彩効果を高める為で、その際にはフィールドに装備車両や重火器、もしくは各主目的のテントが設置されたりもする。そんな諸々を念頭に入れ、周到に準備されたグランドだった。
富士子たちはグランドを右手に見ながら、ダラダラと続く低斜面の校内路を上がってゆく。
視線の先にグレーの5階建てコンクリート建築物が、その全容を現し始める。4棟の建物はハの字に配置されて建っていた。次第に細くなってゆく校内路が、建物を2棟ずつに分けるように通っていて、校内路に接している前の建物は後ろの建物より20mほど後方に下がっていた。その配置は見る者に待伏せして敵を懐近くまで誘き寄せ、左右から包囲して殲滅する鶴翼の陣を思わせる。玄関屋根の柱は太く、一辺が2mほどの正方形で、その影に人が二、三人身を隠す事が出来そうだった。
行き交う人の中、玄関前に立ち止まった富士子はゆっくりと顔を上げて見ていく。富士子の両隣に立った要と宗弥も、感慨深く建物を眺め始めた。
要は建物から目を離さず「ここは学生舎居室棟です。第1学年から第4学年まで、1学年2人ずつの計8人を一班として生活する棟です」厳格と落ち着きが共存する声で説明する。そして右手の人差し指で差し「ほら、窓が4つ並んでいるでしょう。窓2つが一部屋です。班ごとに2部屋与えられます」と言った。要の横顔を見上げていた富士子は視線を建物に戻し、眩しげな目で「広そうですね」と口にする。
要は無意識に左手をかざし、富士子の顔を日陰にしつつ「2段ベットに、私物を収納するロッカー、整頓されていましたが、そうは感じなかったな」と言った。好奇心あふれる富士子からスッと視線を逸らした要は、その目を建物に戻し「班内で下級生は上級生の指導を受けながら、ここでの集団生活を学びます。この棟には他に集会所、シャワー室、洗濯室も完備されているんです。同期の卒業生は総勢588人。僕達の青春は他校の大学生とは、随分違う青春の味だったと思います」と説明しながら富士子の瞳は毒だと思う。全てを見透かされているような気がして、落ち着かない。見つめられると呼吸すら忘れてしまう。一線引くんだ馬鹿野郎、余計なことするな。
宗弥は富士子の横顔を見ていた。富士子の顔を正面から見たくて宗弥は話し出す。「俺は医学課程だから卒業まで6年かかるだろう。だから俺は要と同期卒になれたんだ。規律、掃除、座学、訓練。毎日が一生懸命じゃないと付いていけなかった。6年間、いろんな意味で汗まみれだったよ。富士子、青春真っ盛りの汗は香ばしいぞ」と言って富士子の笑いを誘う。俺を見ている富士子の瞳は、何て無垢なんだろう。最近、一段と美しくなった。富士子、俺はそろそろ限界だ。
「写真撮ろうぜ」宗弥が要にスマホを手渡す。玄関前に立つと「富士子」と呼び、富士子を隣に立たせた宗弥はBIGに笑う。いつかこの写真を見ながら思い出話をしよう。そう思って俺は、いつも富士子と写真を撮る。
要に駆け寄った宗弥はスマホを受け取りながら「お前と富士子のも撮るぞ。俺の大事な2人だからな」と言った。「いいよ」と即答した要に、宗弥は「それは富士子に失礼だぞ」と言い返す。「いや、そういう意味じゃなくて ・・・」慌てて富士子の顔を見た要に、宗弥は「どういう意味でも、もう、いいから。並べ」と急かした。宗弥が立った富士子の反対側に、要は無意識に立っていた。
スマホを構えた宗弥に「笑えよ、富士子。なに意識してんの」と言われた富士子は、意識と言わたことが気恥ずかしかった。そんな富士子の横顔を要が見る。富士子はクールを装って前を向く。偶然にも、その瞬間に宗弥はシャッターを切った。
先頭を歩いていた青年が汗だくになって富士子たちを見つけ出し「すみません。自分だけ先に行きまして」キュッと背を伸ばして頭を下げる。その姿を見た富士子は尾長さんも宗弥も、学生時代からこんなふうに背筋を伸ばしていたから、背が高くなったのかなぁと思ったが、そんな非科学的な事がある訳ないでしょとすぐに打ち消して、研究者らしくからぬ自分の考えに笑みを浮かべた。
「いや、僕たちこそ、すまん」と言った要は、いくらここが安全だとしても全集中しろと自分に要求する。
中庭に到着すると、第一大隊の棒倒し出陣式はすでに始まっていた。シンボルカラーの深紅に塗られた朝礼台に、守備隊・隊長が登壇して訓示を述べている最中だった。
深紅の長袖Tシャツ姿の一群と、白の長袖Tシャツに、緑のカーゴパンツ姿の一群、応援学生、選手補佐、主計、偵察班の総勢300人強が朝礼台を取り囲んでいた。その総員を幾重にも重なって見守っている観客は、爛々と瞳を滾らせた大隊総員が立ち昇らせている熱気にあてられいた。
観客の最後尾に、富士子たち4人は陣取った。
朝礼台に目を向けたままの要が左側に立った青年に「偵察班は、その遊撃人のことをなんと言ってるんだ?」と聞く。青年は「撹乱が目的なのではないかと言ってます。なぜなら、その遊撃人は先陣を切って飛び出し、多様な威嚇行動を見せながらも、味方の攻撃部隊がサークル近くまで来ると、その中に紛れて姿が見えなくなります。毎回、偵察班はそこでその遊撃人の行方を見失ってます。次にその遊撃人はありえない方向から現れて、時に単独突攻したり、有力なキラーをサークルから遠ざける囮になったり、単騎でサークルの中に紛れ込み、棒持ちの弱点を突いたりもします。ですが、その遊撃人はそんな行動を取りながらも、キラーには絶対に掴まらないんです。尾長さん、この遊撃人は特性が豊富なのでしょうか?」と説明して、「長くなりました。すみません」と付け足した。
「気にするな。大丈夫だ。時間はある。それで、1ヶ月の練習期間の間、偵察班がその遊撃人の動きに気付いたのはいつからだ?」と要が聞く。「5日前からです」と言った青年の顔を見ていた要は「それは面白い情報だな」と言って左の口角を上げ、唇に左手の親指の腹をあて、その親指で唇を撫でながら前を向く。そして「その動きをわざと偵察班に見せて、陽動工作にしているな。そいつが自己判断できる遊撃人なのか、突撃人の中に、全体を見て指示を出している指揮者がいるかもな」ニヤリとしながら推察を口にする。
すかさずの青年が「勝負時間は2分です。瞬時に変化する状況下で、突撃人と伝達し合うのは可能でしょうか?」と聞く。「出来る。宗弥と僕がそうだった」と要は言い切る。富士子の右隣に立って話を聞いていた宗弥が「ふふ〜ん。俺たち、以心伝心なんだ」と自慢げに言った。
富士子は3人が何の話をしているのか、使っている言語もさっぱりわからなかったが、機密めいた会話にワクワクする。
右の口角を上げニタリと笑った宗弥が、要を見る。宗弥を見た要がうなずく。その視線を青年に移した要は「その遊撃人は行動を起こす前に、何らかの癖はないか?自分でも気づかぬうちに人はパターンをさらす。それが分れば対処しやすい。すまん」そう言うと、要はスマホを取り出して電話に出た。
宗弥が要の話を引き継ぎ、熱い目で語る。
「ボディーランゲージだ。えっと、指を鳴らしてるとか、タタラを踏んでるとか、太ももを手で叩くとか、そんなサインはなかったか?身体でリズムを刻んでる感じだ。それから、その遊撃人は毎回、同じ奴と重なった時、消えてるんじゃないか?ビデオ観せろ」と言って要を見た。
宗弥と視線があった要は、左手に持ったスマホをチラリと見て「宗弥、ちょっと外す。いいか?」と聞く。宗弥の瞳から沸き上がっていた熱気がフッと消え「大丈夫だ。行ってこい」と言った。うなずいた要は身ををひるがえしてスマホを左耳にあて直し「失礼しました。それで」と言いながら建物の中へ入ってゆく。
建物の中へと歩き出した要を見送る富士子は、まるでパックリと口を開けた闇に要が消えていくように見えた。不吉な姿だった。富士子は瞼を抑え込むようにして瞬きし直し、要を見送り直した。




