富士子編 26 要の動悸
シーン26 要の動悸
A2出入口前でスマホを使って電話をしている要の右耳に、パタン、パタン、パタンと、不規則な足音が聞こえてくる。振り返ると、富士子が緩やかな右カーブの嘆き坂を駆け降りてきていた。
誰が見ても一眼で、運動音痴だとわかるフォームで、富士子は懸命に走っている。微笑ましい。子供みたいだ。振り出す腕は見事なまでにバラついて、均等さに欠け、足は制御不能のままに踏み出している。足を外側から回すな。真っ直ぐ振り出せ。走り方を教えてやりたい。それにしても致命的に遅い。
やめろと言いたい。また、転ぶと叫びたい。下り坂でアスファルトにダイブなんてシャレにならん!下手したら骨折する。あの運動神経では、手を付くのもままならないだろう。見ていて心臓に悪い。
ホワイトデニムに黒のカットソーを合わせ、グレーのジャケットを羽織った富士子の足元は、いつものあの忌々しいハイヒールではないが、足首に柔軟性がない。捻挫しないかとヒヤヒヤする。
だが、懸命な人の姿は神々しい。
見惚れていた。咄嗟に対象者が安全か見ているだけだと心に言い訳する。「切るぞ」とスマホに一言つげ、細身のブラック・ストレートパンツの後ろポケットに、スマホを入れてその場で待つ。「もういい」と、「時間はある」と駆け寄りたい衝動に耐えつつ。
息を切らせた富士子が要の前に走り込んで「お待たせしました。すみません」ペコリと頭を下げる。「綺麗なお姉さんの走る姿を、見ることが出来て光栄です」本音が溢れ落ちた。自分に舌打ちしたくなる。
呼吸を整えている富士子に要は「宗弥もまだ来ていません。大丈夫です。今日の綺麗なお姉さんの出立ちは、キリリとしてますね。似合ってます」安心させようと掛けた言葉に、余計なことを付け足していた。自分に蹴りを入てやりたくなる。僕は浮かれているのか・・と、心情を探るが計りかね、解らなくなって投げ出した。
富士子が要の光沢のあるブラックジャケットに、黒ベースに白のボーダーシャツ姿を見て「尾長さんも素敵です」富士子は走って血色が良くなった頬を林檎色に染め、躍動の余韻を残す口調で、笑顔のままに言った。
天使の如き笑顔。心の奥まで溶け入りそうだ。
富士子から目をそらす。「ありがとうございます」平たく言った僕は自動販売機の前に行き、パネルにApple Watchをタッチして水を買う。監視対象者だぞ、私情を挟むなと自分を戒める。
屈んでペットボトルを取り出していると、目を丸くして見ていた富士子が「お金を使わずに買えるんですか?」と聞く。「ネット上で、電子マネーの金額を決めて購入すると、僕の場合はアプリが入っているiPhoneにチャージされて、同期させているこの時計で買えるようになります。見ていてください」と説明しながら、もう一本水を買う。
電子マネーの存在を知らないとは…。この女性が研究者ではなく、ただのお嬢様で、安穏とする籠の鳥生活を望めば、日々の天候すら知らずに生きていけるのだろう。今度は小さなペットボトルにする。
差し出した手のひらの上で、転がるボトルを見た富士子は「このサイズのペットボトルもあるんですか?」と驚いた。手渡しながら「綺麗なお姉さんのショルダーバッグにはペットボトルは入らないし、あなたの手のサイズを考えると、持って歩くのには350mlは大きい。ですから、これにしました。あっ、水でよかったですか?」僕はダラダラと話し過ぎだ。
この女性といると自分が崩れ、いつもの任務のように傍観者ではいられなくなる。そう思うと若干、いや、大いに腹立たしい。
「はい。ありがとうございます」と答えた富士子は、両の掌の上で転がしているボトルに視線を落として、話す要の声を聞いていた。手のサイズまで見られていた。頬が熱くなる。私は尾長さんのことを何も知らないのに。興味ある?ある。聞きたいですか?はい、尾長さんを知りたいです。ですが、恥ずかしいです。どうすれば良いですか?自分で考えましょう。そうですね。でも、たまに、尾長さんは私を遠ざけようとします。きっとお付き合っている人がいます。私など出る幕もないでしょう。
「待たせた、すまん」富士子の後ろに姿を現した宗弥は、要と富士子の姿を見るなり笑い出し「俺たちトリオみたいだ!やっぱり、気が合うだな」笑い声の合間にそう言い、立てた両手の親指で自分を指す。
宗弥は黒のストレッチパンツに、白ベースに黒のボーダーシャツ、上着はガンメタルグレーのジャケットを羽織っていた。三人そろって斜めにがけにしたバックは、ボディーショルダーとクランチバックの違いはあるにせよ、艶消しブラックだ。
笑う宗弥に富士子は「うちから一番遠い地下鉄の出入り口を、どうして待ち合わせ場所に選んだの?」と聞く。「富士子、何事にも備えろだ」軽快に答えた宗弥は、背筋を引き上げて鉄板背をつくると「移動を開始する!」と宣言するように厳格に言った。それに乗った要は意思ある背で「はっ!」と返事する。
2人を真似た富士子も「はい!」と歯切れ良く返す。
要と宗弥は富士子を真ん中にして、太陽の下から人工灯が照らす地下へと降りて行く。
書き換えが多くて、申し訳ございません。コロナ禍の日々、どう書けばと考えると楽しく、日々、自責して改稿しております。すいません。




