富士子編 21 浮子とBの気持ちと女王陛下の騎兵隊
シーン21 浮子とBの気持ちと女王陛下の騎兵隊
昼過ぎ、浮子は「お邪魔いたします」と大きな声で言いながら、富士子のオフィスに入ってゆく。
黒板の前に立ち、資料を手にした富士子が振り返って「あっ!浮子、ごめんなさい。ノックに気づかなかった」と言うと、浮子は「何度もいたしましたよ、お嬢様。ご所望のお弁当でございます。旦那様と取り分けて召し上がってください」と言いながら、デスクに歩み寄りお重をおいた。
それを見た富士子は「一個ずつの、お弁当箱にしてくれたらよかったのに」不満げな声と無愛想な態度を取る。そろそろ父は浮子の料理が食べたい頃だろうと、自分も仕事に忙殺されてお昼を取り損ねてるしと、富士子は浮子にお弁当を頼んだ。
「目で楽しみながら、食べるのも治療の一環となります。それにはお重が一番です」とりすました態度でお返した浮子は、今回の事故で富士子と国男の間にあった溝が、以前よりも深くなったと感じていた。2人の距離を縮めようと一案してのお重弁当だった。
「分かったわ。浮子の言うとおりだと思う。いつもの時間には病院に来るでしょ?」富士子がすがるような顔つきで聞く。お重だと父には介添いが必要となる。どうあっても、浮子には居てもらいたい。父と2人でお重は気まず過ぎる。
女傑なみに白け顔の浮子は「わたくしは参りません。今日はこれから用事がございます。ですから早めにお持ちしました」きっぱりと応えた。富士子は言われてみれば確かにそうだと思う。この時間に浮子が会社に来るのはおかしい。はたと浮子の魂胆に気づいた富士子は、目を細めて浮子を見る。心の友ブルーも腕組みをして、富士子を真似て目を細めている。それでも浮子の表情はどこまでも涼しい。
拗ねるか、父と二人で食事するのは気まずいのよと、正直に打ち明けるかで迷うが、富士子は結局、素直にはなり切れず「分かったわ」とぶっきらぼうに言った。
浮子はにっと笑い「では、わたくしはこれで失礼致します。あっ、お嬢様、お仕事に夢中になるのは大変結構なことではございますが、病院へは時間厳守でお願い致します」と忘れず言い添えて、富士子の遅刻癖を暗に指摘した。あごをツンと上げた富士子は「承知いたしました」と平坦に言って不服を表す。
富士子の顔を見た浮子が「ホッホッホッ」と軽快に笑い声を上げ、富士子は浮子をエレベーターホールまで見送り、父と2人で夕食かとため息をついて、トボトボと研究所に向った。
ここ数日の富士子は、発見した特異的な抗体を異なる環境で培養し、抗体が最も好む触媒を突き止めようと躍起になっていた。どうすれば最短の時間で最強になるのか、それしか今の富士子には興味がない。
今日も時間は飛ぶように過ぎていて、研究所の内線に「ご予定のお時間を過ぎております」と秘書からの2度目の電話が入り、慌ててオフィスに戻って帰り支度をしていると、ノックなしで入室してくるなりのBが「毎晩、病院に行った後、研究所に戻って深夜までいますね。何かお手伝いできることはないかな?」と聞いた。
富士子はドキリとする。なんで……しっ、知っているの…。
お重の影になってBからは見えないであろう、特異的な抗体の数値資料を富士子は咄嗟にサッと拾い上げ、サクッとファイルブックに挟み込んで、ブリーフケースの中に入れながら「会長の事故があってから眠れなくなって、どうせ眠れないならって、研究所に来てるだけよ。手伝ってもらうほどのことはしていないわ」と微笑を浮かべて答える。
富士子は病院から研究所に直行し、特異的な抗体を製造していた。自分にしか見分けられないマーキングをつけ、既存のデイバイスペトリデッシュと混ぜて、日中、分析作業していた。
Bが家政婦シリーズの市原悦子並みの目で、富士子を見る。三白眼、怖いから!!!そんな目で見ないで!
ニヤリと笑うBは「眠れないのはいけませんね 。精神的なこと?体調的なこと?サヤさんに相談しました?あなたには、液体デイバイス完成体を完成させる、義務があるんですよ。このプロジェクトに会社が幾ら投資しているか、ご存知ですよね、富士子さん。分かっていますか?」と各パートで語尾を強調する言い方しながら黒板の前に行き、今度は舐め回すように黒板を見始めた。
Bの嫌味な口ぶりも、笑い方も、気持ちの良いものではなかったが、富士子は「環境と生活習慣が変わったからだと思います。Bさんが おっしゃっている意味も、十二分に理解しています」笑顔を浮かべて明るく返す。
いつもと勝手が違う富士子の口調が、声が、態度が、逆に癇に障ったBは、一気に振り返って「そんなに、デリケートでしたっけ?」と言いやがる。
厳しくなる視線を抑えようと、富士子は内心で笑顔と思うが、さっぱり上手くはいかず、半笑いの顔で「Bさんが知らない私だっています」と言ってしまった。しまった!!と思うがもう遅い。
その表情を見たBが内心で馬鹿にしてる?と思った瞬間、Bの顔色が勝手にサッと赤らむ。その朱を隠す為に、黒板に視線を戻したBは「困ったな」と呟く。そろそろ、このお嬢さんには限界だ。
富士子が「そろそろ、病院に行かないといけません。いいですか?」と聞く。早く解放されたかった。Bは富士子を表情の無い目でジッーと見返した後「ところで、会長が入院しているから、液体デイバイスの国への納期を遅らせているのですか ?」と言い返すように聞き返す。「そうなのよね。私も会長の指示を待っているのに」こう答えた富士子は国男と顔を合わせても、納期の話はしていない。
父も納期や液体デイバイスの話をしてこない。自分が不在のうちに、契約が整うのを嫌って触れないでいるのだろう。引き渡しの際、液体デイバイスの利権は盾石科学にあると、受領相手にやんわりと主張する機会を、父が逃すはずもない。父のそういった考えなど簡単に想像できる。
“何かを得るためには”でしょう。お父さま。
デスクの電話が鳴る。「今行きます。ありがとうございます」と言って受話器を置いた富士子に、Bは「いってらっしゃーい」馬鹿に大きい声で言いながら後ろ手を振り、オフィスから出て行った。
閉められたドアを見て、富士子はフゥーと息を吐く。深夜に研究所にいると、どうして知っていたのだろう。監視カメラ・・いや、、、そんなはずは無い。ここの監視カメラをハッキングするのは不可能だ。深夜、研究所を使用したあとは、細心の注意を払って片付けてもいる。知っている理由に思い当たらない。考え、下げた視線に、左手首の腕時計が入った。「あっ!」バタバタと準備を整えて、富士子はオフィスを後にする。
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病院5階のエレベーターホールで立ち止まった富士子は、男を観察していた。視線の先いる男は細身だが背が高く、一見で、筋肉に包まれた身体だとわかった。白ワイシャツに紺のネクタイ、黒のスーツ姿で、国男の病室前にピシりとした背を保って男は立っていた。
会長室で会ったことがある政府高官のSPにも似ていたが、凛とした雰囲気はそれとは違い、深海のような静けさで、海の底のような圧を感じる沈黙が備わっていた。近寄りがたいと富士子は思う。
だが、富士子の右手には仕事の資料が入ったブリーフケースと、イヴ・サンローランの黒革トートバッグ、左手には浮子が会社に届けたお重と水筒、取り皿等々を包んだ風呂敷を下げていた。重い・・・それでも男の圧を感じる雰囲気はいただけない。・・が、やはり重い。風呂敷に包んであるお重の傾きも気になる。富士子は慎重な歩みで進む。
病室のドア前に立って、男の横顔を凝視した富士子は「あの国際警備の方で、よろしいでしょうか?」と尋ねる。前を見たままの男は「はい。秘書の素水樽太郎様からご依頼を受けました。国際警備の私は小淵沢慶介です。本日から会長の警備を担当させていただきます。よろしくお願いします」頬を赤らめてそう言い、ピシリとした背で頭を下げた。
その横顔は歳若く、面長の顔にクリッとした印象の目を持ち、小ぶりの鼻は筋が通って、日焼けしすぎなのだろうか肌は浅黒く、細かいソバカスがあって、目尻にはちりめんしわが刻まれている。イギリス女王陛下の騎兵隊を思わせる印象の男だった。厳格さと幼さが共存していて、近くで見るとなんだか可愛いと富士子は思う。
「素水から聞いています。私は娘の富士子といいます。よろしくお願い致します」と言った富士子はお辞儀する。小淵沢は「はい!承知しました!」病院にはそぐわない大きな声で言い、富士子の驚いた顔を見て、自分が発した声が廊下に反響したのにも気づき「しっ、失礼しました」今度は小さすぎる声で言った。
その様子を監視カメラ越しに、監視病室から見ていたファイターはオイオイと思う。風呂上がりだった。
富士子は「いいえ」と朗らかに微笑んで会釈する。小淵沢の視線を感じつつドアを見つめ、笑顔を引き締めてからノックした。




