富士子編 2 男の素性
シーン2 男の素性
水場は小高い丘の上に作られていた。パインニードルが香るそよ風に包まれて、富士子は眼下に広がる町を眺めていた。頬にあたる心地良い風に気持ちが和む。盾石家の菩提寺であるこの寺を生まれた頃は浮子に抱かれ、歩けるようになってからは父に手を引かれて、ここ十数年はひとりで訪れている。
水場の横にある大石の上に背筋を伸ばし、きちんと足を揃えて座る富士子の佇まいは、ハイクラスのオフィスデスクに座っているかのようで、この場の雰囲気には気真面目すぎた。
キラウエアだったり、ドーム型だったり、成層火山のようだったりする不揃いな小山を、あぜ道が形作っている田んぼに、鈍く黒光りする瓦がゆるやかな曲線を描くのを見ながら、富士子は考えていた。
見ず知らずの男の腕に抱かれたままここに運ばれ、座らせられてしまったと。
男にそれを許した気持ちは、なんだったのだろうと。
確かに、好ましい男ではあった。
慎ましやかな野生美を持ってもいた。
珍しく富士子の脳は誤作動を繰り返して、浮かぶ思考の整理も出来ず、あちらこちらへと飛ぶ思案は入り乱れ、戸惑いのスパイスも加わって、富士子は出した答えのどれもがしっくりと来なければ、浮き立っている心にも納得が行かない。頷けず、腑に落ちず、違和感させ感じて、居心地が悪い。
言葉の数だけ、複数解答が可能な文系は苦手だ。
解答が多様になるのはスッキリと揃わず、美しくない。
答えを考えた末に余計な言葉を削ぎ落として解答すると「どういうこと?」と説明を求められたりもする。あれこれと言葉を捕捉するうちに、脳のクオリティーを披露しているような気分になって、不快と不安に駆られるという始末を引き起こす。
何事も推察して、ほっといてほしい。
もともと、深い関心があるわけでもないのだから。
暇潰しか、会話を途切れさせたくないだけだろうに。
それに相手に答えを求めるのは簡単だ。理解なんてお節介もいらない。そう思っている。正直な気持ちだ。
反対に解答が一つに絞られる理数の世界は数式や記号 に則って、きっちりと答えが組み上がっていき間違えようがない。だから、好きだ。導き出された解答の姿は明快で、整然とした生来の美しさを持っている。
答えが姿を現した時、惚れ惚れと魅了されもする。集中して解答へと突き進む自分の姿も好ましい。
人間関係は、数式に似ている。
相手の動向を観察して、発する言葉を頭の中でデータ化して分析し足したり、引いたり、掛けたり、割ったりすればほとんど対処に迷わない。
たまにそれが不可能な人もいるが、そういういう人は、はなからこちらの言葉など求めてはいない。
下手に話の途中で言葉を挟もうもんなら、頭から否定を浴びせられるか、無能と判断されるか、自分の話を肯定するのに夢中になるかして、話のロジックはずれていき、目の前の人は透明人間と化す。
そんな時は話を聞き、微笑を称え、たまにコクリと頷いて同意の景を見せればいい。そうした方が感情的な衝突も生まず、お互いの心証も平和だ。
人は、人に認めてもらえると安心するし、上げ言葉を求めて⤴︎耳を傾ける。群れの同意を重要視する。
それには共感できない。並列化されるのはごめんだ。自身を鼓舞して結果を出し、自身を高めていけばいい話ではないか。なぜ、人の行動や言葉に左右される。
努力を点にして点と点を結んでゆけば線になり、線は我道となっていく。そうして出来た道には汗の裏付けがある。後悔はないと思えるし、後押ししてもくれる。
そうやって、私は心を守ってきた。
アドリブはもっとも楽しくない分野で嫌いだ。無限大の複数解答になりえるし、機転とセンスとウイットが必要で、時節やネットで話題の流行を取り入れ、相手の興味をかき立て時に笑いを誘い、時に辛辣さを演出しながら、小気味良い言葉を連ねてアピールしなければならない。わかっているのよという表情を、浮かべるのも忘れてはいけない。実に面倒臭い。
そんな“気をきかせる“は苦手だ 。
会合、会食、打ち合わせ、会議で人に会った後、あの時こう言えばもっと理解を引き出せたのではないかとか、あの時のあの言葉は余計だったとか、相手の返答から内容が正確に伝わっていないとわかって、慌てて修正したりもする。自己の話術が誤解を招いたのかと後になって考える。そして、やっはり、私はイケてないと疲れだけを感じる。
そういう風に考えるようになったのは、父の言葉に影響されているところもあった。
盾石化学に入社した初日、会長室に挨拶に出向いた。父は開口一番に「自分のありのままの感情を、人に示すのは愚かな行為だ」と言い放った。今なら社会人の心構えとして授けた言葉だとわかるが、当時の私は存分に傷ついた。「おめでとう」でもなく、「歓迎する」でもなく 「よく頑張った」でもない、父の言葉に。
その言葉を聞いて、今までの自分は父にそういう風に見えていたのかと、愕然としたのを覚えている。
その後、外のことをブルーに任せて心の宮殿にこもり「まぁ、父の言葉など、どうでもいい。いつものことだ。父はあの人は、やっぱり私をただの研究者としか見ていない」とまとめて、それまで以上に父の事を突き放して思考するようになった。そして心の壁をより強固にして挑むように対峙した。物理的にもよりいっそう距離をあけ、親しい人の前でも父とは言わず“会長“と呼ぶようになった。愛情を求める感情を今でも父に抱いてはいるが、それも今更だ。
大石に座り、男に対しての答えを求めていたはずの思考が、いつの間にかに父への思いになってしまっていた。また自分が痛むと警告して、思考の視点を現実に戻す。
右手の指先で石の表面を撫でて、感触でも今へと帰る。隣に置いてあるカサブランカの花束に、視線を移してもみる。男性が持つには意味のありすぎる花だ。花言葉は確か・・・純粋、無垢、雄大な愛。どの言葉も私には無縁で不釣り合いでしかない。カサブランカの甘い香りに嗅覚をくすぐられ、華やぐ高貴を薫る。
ガラリと本堂の勝手口が開いた。カサブランカへ抱いた興味がブツリと途切れた。男は借りて来たのであろう、救急ボックスと手ぬぐいの入った桶を左手に持ち、大柄な身体を器用に使って小ぶりな勝手口から出て来た。
そして漆黒の瞳を私におく。歩みを進めて近くでも遠くでもない所で立ち止まり「僕は尾長要といいます」と低重音の声で名乗った。
「盾石富士子です」と名を口にする富士子の声を聞きながら、要は富士子の背後にある水場に進み出て、桶に水を張る。
水音だけが、2人を包む。
水を止めた要は「あなたを、どうこうしょうとは思っていません。あなたが空から降ってきたので、受け取ったまでのことです」澄み切った声でそう言い、水切りした手ぬぐいを富士子の左後ろから差し出した。
要を見上げた富士子は「ありがとうございます」 丁寧に、慎重に頭を下げる。手ぬぐいを受け取ろうとした富士子の右手の指先が要の右指先に触れ、通電したように要の指が跳ねる。
気づいた富士子はそっと、要の表情を伺い見た。
要は涼しくも殺風景な眼差しを貫き、今度は指先が触れぬよう手拭いを差し出す。富士子も何も無かったと装って「ありがとうございます」しっかりとした発音を心がけて受け取る。
手ぬぐいを広げて富士子は額をおさえ、首筋に当てる。冷んやりとして心地良かった。富士子の肩から緊張が解けたのを見た要は、ポケットからハンカチを取り出して、富士子の前に回り込んでひざまずいた。
惹かれて一連の動作の規律性に魅入る。富士子は気づく。目が追ってしまう、と。
富士子の足元にハンカチを広げた要はその傍らに救急ボックスを置き直し、富士子の右足首を壊れものでも取り扱うような手付きで、そーっと左手で持ち上げ、履いているハイヒールの底に右手をあてて脱がせ、ハンカチの上にのせる。
成徳的であった。精密機械のような男の指使いはとても美しかった。
左足のハイヒールも同じ様に脱がせた要は、皮膚が捲れ上がった赤い血マメ、水疱を孕むいくつかのマメを観察する。
今になって名しか知らぬ男のハンカチに足を乗せ、足の指を凝視されていることに富士子は羞恥を覚えて、足の指をギュッと丸めた。
「かわいいなぁ」と要が呟く。微笑んで富士子を見上げた要は「このマメでよく歩けましたね。痛かったでしょう。ハイヒールは女性を美しくもするし、時に男心をくすぐるものでもありますが、あなたの負傷を見る限り、ハイヒールは凶器に近い」その口調はとても軽やかで、富士子に初夏の風を思わせる。
要は救急ボックスから消毒液を出して慣れた手付きで治療をし始め、富士子は要の口調に心も軽くなり「ハイヒールは女の戦闘靴です。多少のリスクは覚悟の上です」と要の口調を真似て答える。要は治療をしながら微笑む。面白い女だ。
平然としている富士子に、要は「消毒液がしみて痛みを感じているのでしょうが、我慢できなくなったら言って下さい」と言った。その声には色もなければ、艶もない。その気遣いのない口調が返って富士子の心に響く。
この男は、やはり私のペース を乱す。そう思いながらも富士子は「我慢できます。痛みは生きている証だから。むしろ心地よくもあります」心の内側が見える言葉で応えていた。もう、余計なこと言わないで!普通に、最小限の言葉で、返事すればいいから!黙れ、盾石富士子!富士子は自分に呆れた。
治療を続けながら、静かな苦笑を浮かべた要は「今の時代、男とか女とか口にするとしかられてしまうご時世ですが、僕は女性の苦痛を受け止められる器量くらいは、持ち合わせているつもりです。それに綺麗なお姉さんが我慢する姿を、目にするのは僕の好みではありません」紳士的な口調の最後に男気を乗せて言い、富士子の顔に視線を上げた。
ポカンと口を開けた富士子は、目をぱちぱちとさせながら「お姉さん?!」と抗議する。
そんな富士子に要は両手を上げて降参のポーズを取るや「そこですか。綺麗なお姉さん」とからかう。少しいじめてやろうじゃないか。
釣られた富士子は「さっき会ったばかりなのに、どうして私が年上だとわかるんですか?!」と弾む調子で言い、「こうして叱られながらも、僕はあなたが無茶して作ったマメを治療しています。そしてあなたは今、僕のハンカチを踏みつけてる」最後はハンカチを哀れむように見た。
「あっ 」小さな声を上げ、富士子は口に手をあてる。要は勝ち誇った笑顔で富士子を見上げる。
右肩にからタスキ掛けにしているグリーンのルブタンクのトップバックから、スマホを取り出した富士子は「新しいハンカチを買い求めてお返しさせて頂きます。ご連絡先を教えてください」と言って、要の目の前にスマホを突き出した。
笑みを引きしめ、真剣な顔つきになった要は「どこの誰だかわからない男と、簡単に連絡先を交換するんですか、あなたは。ホント、迂闊だな。僕の彼女がそんなことしたら、僕は全力で叱りつけますよ」若干、強めた声と口調で言い返す。
富士子はその支配力に息をのみ、言葉をのんだ。そして自分の張り合う気持ちから発した素直さにかける言動を思い返して、気まずさを覚え、うつむいて黙り込んだ。
その富士子の背後から、「要!みんな集まってんぞ。お前待ちだ」と声が掛かり、声に聞き覚えがある富士子は振り返る。
富士子が「宗弥!」と驚きの声を上げた。
宗弥は品のある光沢がシックに映る紺のシングルスーツ上下に、インナーはホワイトVネックシャツを合わせ、荷物を入れる部分を前にしたボディショルダーを、右肩からタスキ掛けにしていた。足元はローカットの白のコンバース。変わらず元気そうで、かっこいい宗弥だ。
宗弥は振り返った富士子の顔を二度見して驚き「富士子!」と言ったものの、確認するように見返して「お前、ここで何してんの?!」と弾む口調で尋ねる。
富士子は迷いつつ、要を気にしつつ「この間の母の法事に来れなかったから、近くに用事があって、今日寄ってみたの」モゴモゴと歯切れ悪く応えた富士子に、宗弥はハッとして「あぁっ、 今日だったな。おやじに聞いてた。そうか、、今日だったよな 」と宗弥も煮え切らない調子で言い、視線をコンバースに落として、所在なさげな足先で柔らかい土をゴシゴシと撫でつけた。
ギクシャクとした2人の雰囲気と不明瞭な会話を聞いた要は「宗弥、 どういう事だ?」と聞く。視線を上げた宗弥は「俺の幼なじみの富士子 。あの盾石グループ会長、盾石国男さんの1人娘だ。この寺にお母さんのお墓があるんだ」一気に説明する。
「そうか。知り合いだったのか」要のその声音には肩書きなんぞ、何の興味もなければ、それがどうしたという気持ちがあらわだ。宗弥は「ところで、どうして、お前が富士子といるの?」と要に詰問調で聞く。要は「空から降って来たから、ありがたく頂いた」と返して富士子を見た。
視線が合った。やはり、私の転落の理由に気付いていた!!そうです。お察しの通り、私は…死にたかったのです。富士子は視線を落とす。
「頂いた」と唸った宗弥は、一 瞬、含む表情で要を見たが「俺も頂きたい」とおどけた口調で天を拝む。
両手を合わせ天を仰ぎ見ている宗弥に、自我の闇に気付いた男の素性が知りたい富士子は意を決して顔を上げ「尾長さんと宗弥はどういうお友達なの?」と要の視線に、素知らぬ知らんぷりをして宗弥に聞いた。
富士子を両手を合わせたまま見た宗弥は「国防大の同期だ。俺は医学部過程だから6年かかるだろう。だから俺が2つ年上だけど同期卒になるわけ。要は俺の親友」簡潔に説明した宗弥は、現役の陸上自衛隊の医務官だ。
そう聞いた富士子は「そうなの!じゃあ職場も一緒なの?」、「ああ。同じ部隊だよ」宗弥が要を見る。
富士子も要に視線を向けるが、すぐに宗弥に移して「すごい偶然ね!!」と言って目を丸くする。宗弥は「そうだな。びっくりだよな」と平坦な声で言いつつ歩き出し、要の右隣に座り込んだ。
宗弥は要の手元を見るや「ガンダムのカットバン」と声を弾ませ、富士子は宗弥が小学生の頃から、ガンプラファンなのを思い出す。要の表情を見た富士子は尾長さんもファンなの⁈ と思い、笑顔を大きくした要は「カッコいいだろう。綺麗なお姉さんの護衛だ」声のトーンが上げる。
富士子は【お姉さん】と形容詞をつけて話すが気に入らず、目を大きくグルリと回して要に向かって口を開きかけるが、宗弥の「またか!」にタッチの差で負け、出鼻を挫かれた富士子は宗弥に「うるさい!」と噛み付き、ツンとさせた顔を横にプイと向けた。
拗ねる富士子を見て、宗弥は大笑いする。
笑う宗弥に要が「終わった」と言い 、富士子の左足に要が、右足に宗弥がタイミング良くずらしてハイヒールを履かせ、二人はシンクロして立ち上がり、同調して富士子に手の平を差し伸べた。要と宗弥は互いに顔を見合わせて、一拍おいた2人はダ チョウクラブのネタを始めた。
ひとしきりやった要が「では、わたくしめが」と右手を胸に当て富士子を見やるや、狼の笑みでその手を恭しく差し出す。
憮然とした私は尾長さんの手を取った。どういう顔をして、いいのかがわからなかったからだ。だから自分の気持ちから、1番遠い態度で接した。
手の平の感触を富士子の指先が感じ取る。ギョッとして覗き込んだ。その富士子に宗弥が「近接戦の達人」と一言つけ加える。富士子は要を見上げたが、太陽を背負った要は逆光となり、光を受ける富士子には要の表情をうかがい知る事はできなかった。