富士子編 19 プチ・トリアノン
シーン1 9 プチ・トリアノン
富士子は久しぶりにプチ・トリアノンを訪れた。ここのところ、早めに仕事を切り上げる為に昼食時間を押して仕事をし、国男が入院している病院に通っているからだ。店先に立った富士子はいつものテーブルに座っている常連客の石橋と、話し込んでいるサヤの背中を見つけた。
サヤは普段テーブル席に座って、話すようなことはしない。富士子は不自然さを感じながらも、LOUIS VUITTON のトートバッグをスツールに置いて、さりげなくサヤを見返す。
サヤはリーフ柄のポケットアルバムの写真を、右手の人差し指で石橋さんに指し示して、熱心に何かを説明していた。きっと石橋さんに誘われて、参加するチャリティーイベントのメニューを相談をしているのだろうと、富士子は思う。
スツールに座った富士子は、カウンターの上にガラス製の蓄音器形スピーカーが置いてあるのに気付き、その精密な形状に見入る。ラッパから伸びた空洞の円柱は一旦、南下して楕円を作り、北上してまた同形の楕円を形作って下に伸びて、その途中で直径5㎝ほどの円形皿に広がり、また細く繊細な円柱に戻り、確か、ステムと呼ぶプレートになっていた。そのステムにサヤの愛らしい丸文字が並ぶ、付箋が貼ってあった。
“ 富士子、お疲れさま!カウンターの上に置いてある音楽専用のiPhoneから、好きな音楽を選んで円形皿の溝にiPhoneを置いてONね。今日のメインはマグロの赤身炙りだから。新鮮な赤身のgetに成功したのだ。フルーツジュースもあるよん“メモを読んで富士子は振り返る。サヤ、また面白いものを見つけたのねと微笑んだ。
早速、蓄音機の横にあるiPhoneを取り上げ、ライブラリーをクリックして、画面をスクロールしてゆく。トレイシー・チャップマンのアルバムで指先が止まった。学生だった頃、サヤと一緒に帰宅すると、女性シンガーが歌う曲が聞こえてきた。ギターソロの伴奏に深みのある声。その声は低音に僅かなガサつきがあってそれが返って魅力的で、貧困とその環境にあえぐ日常を無機質な雰囲気で歌っていた。
サヤと顔を見合せた。互いが曲を気に入ったのがわかった。玄関先に立ち尽くして聴いていると浮子が現れ「あっ、お帰りなさいませ。サヤさん、いらっしゃいませ。今夜はお泊まりのご予定でしたね。召し上がりたいものはございますか?」と言った。
せわしく「この曲 、誰が歌っているの? なんていう題名?」と私が聞くと、浮子は「ただいまをお忘れございますよ、お嬢様」と言って左眉を上げ、「ただいま戻りました」と早く知りたかった私は抑揚なく早口で言い、浮子は「トレイシー・チャップマン、First Carという曲でございます。わたくしの若い頃の曲です」誇らしい表情でそう答えた。
部屋に入ってすぐに、iPodにアルバムをダウンロ ードしてサヤと聴いた。そんな思い出があるジャケット写真だった。これにしょう。受け皿の溝にiPhoneを慎重において再生する。
ガラスの蓄音器から聴こえてくる曲は、薄く引き伸ばされたガラスに共鳴して繊細さを増していた。トレシー・チャップマンが富士子を思い出に誘う。
映画に誘われてサヤが選んだ“悪の法則“を観た時、ストーリーの終盤に左右を警戒して歩くブラッド・ ピットが、ランニングを装った暗殺者に、背後から首に輪になった針金の自動巻き上げ機を掛けられ、逃れようと針金と首の間に入れた指が容赦無く、規則正しく精密に作動する機器に切断されて、血だらけの針金が首に迫った。そのリアルな描写に身震いが出て、両目を両手で覆った。それを見たサヤは「創作よ、富士子」と言った。それからしばらくの間、私は時折り、何度も、後ろを振り返るようになった。
それを宗弥に指摘されて理由を話したら、「俺のそばにいればいい。そんなことはさせない」と宗弥は自信満々で言い、「確か、あの映画、ライダーの首も飛ぶよな。死にかけの人から装飾品盗ったり、ゴミ捨て場に死体捨てたり、かなりエグくなかったか。そんな映画を観るか女子2人で。相変わらずの悪趣味だな、サヤは。なぁ、富士子、今度から俺と2人でラブコメ観に行こう。同じキャメロン・ディアスなら、絶対ラブコメだよ、可愛いんだ。お前みたいに抜けたとこあってさ」と言った。
自宅でサヤと試験勉強していると連絡なしで宗弥が来て、得意科目を教え合った。浮子は夜食に力うどんを作った。なんの記念日もサヤと祝って、写真を撮っていると宗弥が割り込んで、3人で記念写真を撮った。
サヤが宗弥に告白して振られたのを知らず、翌朝、校門前で停車した車窓からサヤを見つけて駆け寄り「おはよう」と声を掛けたら、振り返ったサヤに睨まれた。「どうしたの?」と聞くや、手を取ったサヤに校舎の裏に連れて行かれ、泣きながら事情を話し終えたサヤは「宗弥は!富士子が好きなのよ!!」と詰った。「そうじゃないわ。幼馴染なだけよ」と言ったが、サヤはなお号泣した。その日、2人で授業をサボり、一日中、校舎の屋上で過ごした。宗弥は私を探し回って1人大騒ぎしていたと、あとでクラスメートに聞かされた。電源をOFFにしていた携帯には宗弥からの着信78件、メール20件が残っていた。私はしばらく、宗弥と口を聞かなかった。
カウンター内に戻ってきたサヤも曲に聴き入っていて、ポツリと「懐かしいね」と言った。ハッとした富士子が「びっくりした」と言うと、サヤは「ごめん。あの頃は自由だったね」とどこか寂しげに言った。サヤの言葉に懐かしさ以上の切なさを感じた富士子は、サヤの顔を覗き込む。サヤはツンとした顔をワザと作って見せ「何の心配も、無用よ」と可愛らしく笑い、ランチの準備を始めた。
サヤの姿を見ながら富士子は考える。確かに昔は自由で何もかもが新鮮で、未来は希望に満ちていると思っていた。行手を遮られたら打ち砕くと、無知な勇気も持っていた。早く大人になりたくて、大人になって自立すれば、もっと自由になれると思っていた。でも、歳を重ねる程に不自由になっていく。世界を旅したいという夢も未だに叶えていないし、クラッシックコンサートにも行けていなければ、お花のお稽古にも通えていない。だから、私は液体デイバイスの開発に執着するのか。人生で私が唯一、誇れるものだから。何の為に生きているのだろう。生きるに見切りをつけたいと思う時がある。希望とは何だろう。日頃の不道徳さを棚に上げ、困った時だけ神に願う。勝手だ。サヤも喫茶店を継ぐ気はないと公言していた。なのに、どうして継ぐ気になったのだろう。社会生活は少しずつ、人の生気を殺す。水が入ったバケツに顔を入れ、根を上げない競争に似ている。バケツの水を飲み干すほど、私には生に対して屈強も不屈でもない。嫌になる。生きるは毎日が修行で、力なき自分との向き合いだ。
サラダボウルを富士子の前に置いたサヤが「会長、入院して一週間になるけど、具合はどう?」と聞く。父の事を考えると重くなる気持ちを無視して、手作りドレッシングをかけながら明るく答える。「相変わらず事故の経緯と、どこに行こうとしていたのかは、覚えていないの一点張りで、何も教えてくれないの。睡眠も取れてるみたいだし、食欲もあるから、順調に回復していると思う。だけど、私とは前より話さなくなった。て、言っても元々、会話があったわけでもないけど」と。
サヤは富士子の微妙な心情を汲み取って「それでも富士子は、毎日病院に顔出しているんでしょう」と励ますように言ったが、富士子の「そうだけど、病院に行ってもお互い無言で、何か別々なことしているのよ」と言ったわびしげな声を聞いて、哀れむような表情をしてしまう。
それ以上、サヤは詮索しなかった。冷蔵庫からカットフルーツの入った容器を4つ取り出して、調理台の横に出しておいたミキサーに、グァバ、スターフルーツ、ジンジャーを一片入れ、絞ってあったオレンジとグレープフルーツのジュースを注ぎ入れて、レモンとライムを2滴ずつと蜂蜜を加えてスイッチを押す。
二人の会話はそこで途切れた。
富士子はもう少しだけ、サヤに話を聞いて欲しかった。相談したいこともあった。父が事故にあったあの日の予定を、誰も知らない。父も話さない。樽太郎さんも浮子も、父の行き先や目的を知らずにいる。
人を雇って調べた方がいいのかと思う一方で、あの日に触れない方が良いとも思う。不吉さを秘めている勘にも似た直感が、足元を砂上と化すように、富士子を不安へと誘う。