富士子編 18 私は馬鹿だ
シーン18 私は馬鹿だ
泣き止み、静かにおずおずと顔を上げた富士子に、要は「大丈夫ですか?」と周りの静けさに似つかわしい声で聞く。コクリと頷く、富士子。
その仕草はどこか危うげな気配を感じさせるものだった。要は「どこへ、行こうとしていたんですか?」と心に沈着さを持って尋ねる。「歩いて家に帰ろうと。1人で考える時間が欲しかったんです」富士子はどこか所在なげに応え、再度要は「まだ、時間が必要ですか?」と慎重な面持ちで聞く。またも童女のようにコクリと頷いた富士子を、要は無理もないと思う。ERの待合室での富士子の有り様を、要は宗弥と共に見ていた。
「よかったらですが、このあと近くの喫茶店で、国内で行う海外部隊との演習について宗弥とすり合わせする予定なんです。待ち合わせの時間まで余裕があります。よかったら、お茶しませんか?どうですか?」いまだ憂色の濃い富士子を、1人にしておくわけにはいかないと危惧して誘う。富士子は「はい」と小さな声で承諾し、要は音もなく一歩下がった。富士子の心にあった温もりが北風に吹かれ、急速冷凍の心に富士子は耐える。
街灯が照らす歩道を要はゆるりと歩きだし、数歩あるいて立ち止まり、富士子が追いつくのを待った。駆け寄った富士子が右隣に並ぶ。歩き始めた要が、ふと夜空を見上げて話し出す。
「日本の夜は静かでいいですね。久しぶりに帰って来ました。僕が派遣されている場所は、いつも、どこかで、何かしらの音がしています。見上げた夜空は日本と変わらないのに、騒々しい」、そう話す尾長さんの顔を見たかった。でも私は泣いたあとで、顔を見られるのが恥ずかしかった。だから、前を見たまま尾長さんの話を聞き、前を向いたまま「お帰りなさい」と言った。
尾長さんが連れて行ってくれた喫茶店は整頓された図書館を思わせる印象だった。ブラウン色のオーク木材で作られた本棚が玄関から見た正面、左右の壁に作りつけてある。どんな本を収集してるのだろう。背表紙の装飾はどれも古典的だ。歴史書なのかもしれない・・。
店内は本棚と同じ素材の拭き込まれた4人掛けのテーブルが、、、玄関そばの窓に沿って縦に並んだ2つのテーブルを一列目とするならば、隣り合うテーブルとの空間をゆったりと開けて奥へと向かって3列続く、計6卓。テーブルを照らすライトは天井から2m30㎝ほど下に伸びた黒色のケーブルの先に、濃藍色の円形ガラス細工の傘が吊ってあって、その傘から放たれた光は三角円錐で、その色はテーブルに近づくにつれて淡く、どこか深海を思わせる色光だった。
富士子の後ろに立った要は「誰もいません。好きな所に座って下さい」と声を掛ける。富士子はしばらく考えて、玄関に一番近い窓辺のテーブルの奥、通路側の席に座る。要を出入り口側に座れさてしまう事になるが、富士子は背後で人が行き来するのが苦手だった。腰掛けてみると、椅子の背もたれや座面は形状記憶マットの上部に羽毛が入っていて、包まれているかのようで心地良かった。富士子の身体から疲れが滲み出でる。背もたれに身を預け、静かに息を吐いた富士子は“あっ“と思い出す。泣いた私はきっとパンダ目になっている。些細な事だが、マスカラを施した者には重大事案で、CELINEのコンディバックからポーチを取り出した富士子はスクりと立ち上がり、カウンター内にいるマスターとおぼしき男と会話している要に歩み寄り、話が途切れるのを待って「あの、尾長さん、お話し中にすみません。お化粧室は、どこかご存知ですか?」と目を伏せて聞く。
左手を上げて「あのドアです」と言った要が、ターコイズブルーの扉を指差す。腕を辿った富士子は革ジャンの袖口から、はみ出したキズパワーパッドに気付き「怪我をされたんですか⁈」と思わず聞いてしまった。
苦笑いした要はキズパワーパットをチラリと見やり「ああ、陸自といえば穴掘りです。シャベルが、石に当たって折れまして」と笑みを深め、犬歯を見せる打撃力満載の笑顔で「嘘みたいな話でしょー」と言った。
魅力的な笑顔をくらった富士子は、蕩ける和かさで同意する。だが、すぐさま、怪我したと聞いた直後に笑顔は相応しくないと内心を叱りつけ、富士子は顔を引き締め「ありがとうございます」と言って化粧室へと向かう。その富士子に、富士子の心の宮殿に住む幼女ブルーが『ありがとうございますって何がー、こういう時は“お大事に“でしょう。バカなの、ふじちゃん』とずり落ちた半月型のメガネを左手の人差し指で直しながら、ブルーは手厳しくも怖い声でそう言い、富士子を三白眼で睨らんだ。「慣れていなくて、こういうの」富士子は小声で言い訳しながらターコイズブルーの扉を押した。
化粧室から戻ると、富士子が座っていたテーブル側に水色のコーヒーソーサーと野菜サンドが置いてあった。席につき「ありがとうございます」と言った富士子に、要は「食べましょう」と声を掛け、手を合わせるや「頂きます」と言って、待ちきれなかったように野菜サンドを右手で取りあげた。一口食べ「美味い」と声をあげる。頬張って左頬を膨らませて5回噛み、右頬に移動させて5回噛んで飲み込んだ。「このパン、やっぱ最高だな」と賛美した要はサンドイッチを大きく噛み切り、次はその咀嚼を逆にして飲み込む。
富士子を垣間見た要は内心で思う。富士子は夕食を摂っていない。いや、朝から何も食べてはいないはずだ。富士子は食事に全く興味がない。なぜ、食事を蔑ろにする。子供の頃、腹一杯食べた覚えのない僕には全く理解出来ない。それに戦場での食事は兵士の士気を低下させる威力を持つ。侮ってはならない。富士子の青白い顔色、スタミナが無いであろう身体つき、頼むから、ちゃんと食事をしてくれ、と。
要は富士子の監視警護をしている間、工作して食べさせるようにしてやろうかと、本気で考えている。要にとってそんなことは、グロッグの引き金を引くよりも簡単なことだった。今、要が富士子の目の前でガッいているのも、富士子の食欲を誘う為だ。
右手で次のサンドイッチを取り上げようとして止め、要は「食べないんですか?」と富士子に聞く。「尾長さんは一つのサンドイッチを4口で食べ終わり、1口目は左で5回、右で5回噛んで飲み込み、次の一口は左右を逆にしてを繰り返し、計40回で1つのサンドイッチを食べ終わります」富士子は要の顔をボーっと見つめつつ口にした。
驚いた要は犬歯を見せてオオカミのように笑った。その笑顔を見た富士子の背中がゾクリとする。
「数えてたんですか?あなたは綺麗な、そして、とてもおかしなお姉さんだ」要は笑いを噛み殺して言う。全くもって面白い女だ。顔を赤らめた富士子は 「ごめんなさい。私、カウントとするのが癖で、すみません。あっ、あの、さっきは、その、転びそうになった時、ありがとうございました」まごつきながらもそう言い遂げて深く頭を下げた。
尾長さんが「前にも言いましたが、綺麗なお姉さんを助けるのが僕の使命です」と言った。この人はキラキラとする言葉を語感に求心力のある声と、真っ直ぐな瞳で堂々と言ってのける。きっと、私は同じ言葉を他の男性が言ったら、聞こえないふりをしてスルーするだろう。ああ、宗弥もそういうとこあるな、、口元に右手をあてた富士子がクスリと笑う。
その笑顔を見た要は「どうしました?」と聞く。「いえ、そう言ってらっしゃったと、思い出して」富士子はそう答えた内心で、宗弥と違ってこの人が言うと、心にツゥーと薄墨のような線が垂直に描かれて、言葉がふわりと心底に着地すると、惚れ惚れと引きつける魅力があると、気持ちよく素直に受け入れられると考え、我知らずドキリとしてブルーを見ると、ひっそりと色香を含んだ風情でブルーはソファーに座っていた。宗弥と尾長さんの違いはなんだろう。
店内にはLinkin Parkが歌う“In My Remains“が流れていた。店内の雰囲気とかけ離れた歌詞は兵士が1人、2人と倒れ死んでいった。精神的に追い詰められる。その過去を消し去りたいという壊滅的な内容で、無念を思わせる歌だったが、今の富士子には、音楽と歌詞のアンバランスな調和が心地良く、頭で詩を追いながら、右手でカップを取り上げて一口飲んだ。味わって“ノンカフェだ”と驚き、「偶然?」とつぶやくと、要の視線を感じて、顔を上げた富士子は「あの、どうして、わかったのでしょうか ?」と聞いた。
僕は無表情になる。知っているんです、僕たちは・・あなたの好みも・・何もかも。表面上はスラリと「亡くなった母が、いつもそれを飲んでいたんです。だからそれを選んだのだと思います。他意はありません」と言った。今作戦用にも、要は完璧な生い立ちと経歴の背景を作り込んで記憶していた。記憶した通りの物語が間を空けず、すんなりとワケなく、口から出てきただけだった。なぜ、湧いたのか、ワケのわからぬ後ろめたさに、要は窓の外を見て富士子の視線から顔を背けた。
寂しげな要の横顔を間近で見た私は「ごめんなさい 」と小さく謝る。謝らせた事に罪悪感を覚えたが、ゆっくりを心掛けて富士子に視線を戻した要は「こちらこそ、申し訳ありません。余計なことを言ってしまいました」と言って、富士子の顔を見つめて考える。どうして罪悪感を感じた?・・なぜ、後ろめたい?・・いつものことじゃないか・・どうしてだ?・・・答えが見つからない。僕はこの女性の前で正直でありたいのか‥‥。心の乱れを打ち消したく、己に任務を思い出させる為だけに「泣いていましたが、何があったんですか?」と富士子に涙の理由を尋ねる。
赤面した富士子は下を向き、正直に答えて、事故の話など聞いて、不快にならないだろうかと迷った。だが、目の前に座っている男性の瞳には、癒しを思わせる漆黒がある。聞いてほしい。
そうは思っても「お聞き苦しいかもしれません」と前置きした。尾長さんは瞳を鈍らせず「構いません。あなたこそ、いま話して大丈夫ですか?」と私を気遣った。頷いて、私は話し出す。
「父の運転する車が、今夜、交通事故に遭いました。右折しようと走り出したところに、ダンプカーが減速しないままに、直進して来たそうです。ですが、追突する寸前にダンプカーが横転して、正面衝突は避けられましたが、父は急ブレーキを踏んでしまい、車の後輪がスリップして、ダンプカーの側面に衝突したそうです。父はシートベルトの圧力で右鎖骨を骨折しました。さきほどまで、救急搬送先のERで、ボルトで固定する手術を受けていたんです」溢れそうになる感情を抑えて、富士子は聞いている要が、負担を感じないよう淡々を心がけて話した。
話が進むにつれて尾長さんの瞳は揺らぎだし、ふつふつとする怒りを帯び出し、メラメラと燃え上がって一気に沸点に達して、青炎に近くなったところでトスッとその炎は消えた。そしてあの漆黒がゆっくりと戻ってきた。富士子にはそれが見えた。あの目の移ろいはなんだったのだろう・・・。知りたいと思いながらも、ここで話を途切らせたら、きっと私は後悔する。そう思い、富士子は話し続ける。
「ですが、偶然にもダンプカーと父の車の間にバイクが挟まって、父は助かりました。もし、その偶然がなかったら即死していただろうと、父の秘書が警察の担当者の方から聞いたそうです。聴取されたバイクの運転手さんは、ダンプカーの後ろを走行していて事故に驚き、転んだと話したそうです。その方は、応急処置もしてくださいました。搬送先まで同行してくださったとも聞いています。私はその方に、感謝しかありません。父の恩人です」話し終わると、富士子は涙ぐんでしまった。
勝手に出てきた涙を見られたくはない。右手で乱暴に払い落として顔を上げ、富士子は要に大きく笑いかける。
ふと、身体を屈めた尾長さんは右腕を伸ばして、手のひらをそっと私の頭にのせた。優しくクシャクシャと頭を撫でながら「大変でしたね」と言った。労りを感じて顔を上げる。
富士子の右目から一粒の涙が溢れ落ちた。見つめ合う二人が時を止める。
なんの前触れもなく要は「綺麗なお姉さんの涙は、痛い」と言った。その言葉を聞いて富士子は我に返る。頭に乗っている要の右手を、富士子が右手で取ったら、恋人同士の貝殻繋ぎになった。その光景にドキリと脈打った富士子は弾くように要の手を離した。
要の心情を富士子は知る由もなく。
要は弾かれた右手をゆっくりと、自分の膝にもってゆき握り締める。勘違いさせてしまったと視線を落とす。何もなかったかのようにコーヒーを飲む。言葉とは、なんと、皮肉なのだろう。コーヒーを飲み干してiPhone Watchを見ながら「タクシーを呼びます」と言い、返事を待たず、椅子から立ち上がってカウンターに向かう。
手を乱暴に振り払ってしまった。そうされる尾長さんの気持ちを考えもしなかった。自分の衝動的な行動を呪う。ブルーは腕組みをして、右の足先で大理石の床を打ちつけながら、細めた目で『ふじちゃん!ほんとのバカなの!』と言った。「そうだよ」と答えて、ノロノロと帰り支度を整えて席を立った。
その間に会計が済んでいた。もう自分が嫌になる。「割り勘にして下さい」自己嫌悪からゴワゴワとした声になって、尾長さんに「誘ったのは、僕ですから」と言われてしまう。その声色に何かが変わったとわかり、ブルーに言われるまでもない。私は馬鹿だと思う。
ごめんなさいを「ご馳走さまでした」に置き換えて、丁寧に頭を下げる事で自分勝手な、意味の違う謝罪方法を取り、静々と見上げた目で誤解ですと、わかって欲しいと願う事で、私は自分を納得させようとしていた。私は本当の馬鹿だった!!
顔を上げた富士子に「3分でタクシー来るそうです」と言った。泣き腫らした目は未だ動揺している。見ていられなかった。それでも意を決して「あの、無理かもしれませんが、なんでもいいです。何か食べてください。そして、安心して睡眠を取って下さい」励ますように晴れやかにそう言ったが、伝わらなかったようだ。放心したような富士子は、うつむいてばかりいる。もう遅い。早く家に返さなければ。さり気なくドアを開け、富士子が外に出るとファイターに振り向いて右手で手信号を送った。
富士子の背を見送っていたファイターが、僕に視線を移してうなずく。