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国守の愛 第1章      作者: 國生さゆり  
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富士子編  17 樽太郎の運転する車内



 シーン17 樽太郎の運転する車内


 未来を感じさせる車の電子駆動音と“忠実な羊飼い“ を伸びやかな高音で、歌い上げている女性オペラ歌手の声が、静寂がたたずむ車内を満たしていた。運転席の樽太郎と助手席の浮子の会話も、音楽と同じように静かに交わされていた。



 白いカーディガンの襟元えりもとを、動きの鈍い両手の親指と人差し指を軽く浮かせて、晴れぬ心がそうさせたのか胸元でもどかしにかき合わせた浮子は「樽太郎さまが今おっしゃった赤いジュラルミンケースでございますが、今夜、本当に旦那さまはお持ちだったのですか?わたくしは、そのケースを見たことがございません」浮子にしては珍しくボソボソとする口調でそう言い、ふと気づいたかのように街路樹が黒々と影を落とす車道から、浮子は樽太郎の横顔へと視線を移す。浮子には樽太郎の表情にいくつもの青いとげが刺さっているのごとく見えた。それほど青ざめ、痛ましく、悲惨ひさんで暗かった。



 チラリと浮子の顔を見た樽太郎は「そうですか・・・。私も拝見したことがなかったものですから、浮子さんなら・・ご存知かと思いまして・・・お聞きしました」と言った声は掠れていて歯切れも悪く、浮子は樽太郎が運転中に助手席を見るということは余程よほど、その赤いジュラルミンケースを気にかけているのだろうと思う。



 知人は皆、樽太郎は車の運転が苦手なのだろうと思っている。理由は運転席に座ると樽太郎の柔和な顔つきにりきみが入るからだ。重ねて視線はつねに真っ直ぐをたもち、座席を必要以上に前に出して、強く握ったハンドルにかぶさるような姿勢で運転する。



 運転を終えて手を離すと、ハンドルに汗の手形が残っているほどで、樽太郎もそれを承知していて、運転が終わると車内に置いてあるメガネ拭きで、さささっとハンドルを拭くのが習慣になってもいた。



 されど樽太郎の運転技術は未熟ではなく、怖いわけでもない。見た目が不慣れを思わせるだけで、ただ樽太郎は直線と直線を結ぶ曲線を、どう運転したらより効率的なのかを考え、むやみにブレーキを踏まず、アクセルをコントロールするのに集中しているだけだった。



 そんな樽太郎は普段の立ち振る舞いからは想像し難いアグレッシブな面を、運転すると吐出させもする。見通しの良い道に出るとクゥンとハンドルを切ってスゥンと前の車を抜き去り、クゥンと車の前に出る。仕事と同じでこうと決めたら、迅速に決断を下して即、行動に移すを具現化するかのように。



 そんな樽太郎に気付いているのは宗弥だけで、宗弥は演習明けの休日、樽太郎の車を借りて勝手に足周りをチューンナップした。宗弥が「こうした方が親父の動かしたいように、もっとシャープに、挑戦的に運転できるよ」と言って返却すると、樽太郎は仕上がり切った車を見て「エコカーに、チューンナップはあべこべだろ!」と怒りを見せたが、助手席に宗弥を乗せて試運転してみると気に入り、そのまま二人で箱根までドライブに出掛け、峠を越える度に「いいね!親父」、「俺の言った通りだろ」、「流石です」、「今のはアクセルをもっと気遣って」と宗弥は太陽のような底抜けに明るい声で樽太郎に言葉をかけ、樽太郎はそんな宗弥が頼もしく、そう言えば子供の頃から洞察力が鋭く、温厚篤実おんこうとくじつだったと思い出す。



 国防大への進学を誰にも相談せずに決め、自分に使う大学費用が妹に回るように気遣い、「希望通りヨーロッパに留学させてやってほしい」とも言った。てっきり富士子さんと同じ大学に進むと思っていた樽太郎は「経済的な心配をしてるのか?」と聞いた。「そうじゃない、そろそろ俺は富士子から卒業しないと、イケてない男になるからさ」と大真面目に答えた宗弥の心境を、当時の樽太郎は察せられず、思春期だからかと思った。今考えればそれまでの宗弥の毎日は、富士子さんを中心に回っていたようなもので、切ない恋に焦れていたとわかる。距離を持たなければ走り出してしまう自分に、宗弥の優しさはタガをめたのだ。規律が歩いているかのような大学に進学し、自由のない集団生活を選び、1年に3ヶ月ほどしか日本にいない仕事を選択した。青春の頃、叶わぬ恋路は誰しもが経験する。己の子だ。自力で道を開くと、今も樽太郎は信じている。




 大切なものを落としたような表情の樽太郎は浮子に「今夜、会長がお一人で出かけるのは知っておりました。事故の一報が入った時、まだ会社におりました私に電話が回されまして、、信じられませんでした。すぐに警備管理室に向かい、会長がお出になっているか確認したんです・・・。赤いジュラルミンケースをお持ちになって、社用車の運転席に乗る姿が・・・・地下駐車場の監視カメラに写っておりました。私は見覚えの無い赤いジュラルミンケースが妙に気になりまして、警察の担当者に電話してケースの所在を尋ねました。ですが・・・赤いジュラルミンケースに関する報告は受けていないとおっしゃいまして・・それで浮子さんならと・・お尋ねしたんです」相変わらず、歯切れの悪い言い方をする。



 浮子が「そうでしたか。旦那様がお一人でお出掛けになるなんて、珍しいですね」と言うと、「ここ一年ほどは・・週に1回ほどそういうことがございました。国から要請ようせいがあったスコットランド自治区の土地買収の件を、お一人で・・根回しされているのかと・・・、もしくは・・良いご縁の方でもと思っておりまして・・・私は会長からお話があるまでは、詮索せんさくせぬようにと控えておりました」樽太郎の忸怩じくじたる思いがにじむ声だった。



 海底のような静寂さで樽太郎の話を聞いていた浮子も浮子で「実はわたくしも、お帰りが明け方になることが、ここ一年度々あるなとは思っておりました。わたくしも詮索しないようにしておりました」ひっそりとした声で打ち明ける。



 それきり二人は黙り込み、樽太郎も浮子も国男のことをたがいに口にしていれば、今夜の結果は違ったものになっていたのかもしれないと、考えずにはいられない。



 車内に別バージョンの“忠実な羊飼い“が流れ始め、二人は自己のいにひたり、盾石家に到着するまで口を開く事はなかった。





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