富士子編 1 計算された出会い
この作品はあらゆる政治団体とは無関係です。なお、フィクションでもあります。たくさんのご意見を頂きまして、現在、加筆しております。貴重なご意見ありがとうございます。
シーン1 計算された出会い
私は、いつも1人だ。
何かを考える時も、決断する時も、大勢に囲まれて仕事をしている時ですら、私は孤独を選ぶ。
若干、寂しい。だが、気楽だ。
確かに寂しい。しかしながら自由だ。
ダカラ、コドクヲ、エラブ
一人がいい、誰にもかすめ取れないから。
人は勝手だ。私も十分、身勝手だ。
お相子なだけだ。
人は人に必ず何かを求める。しかしながら求めるだけで自分からは与えようとはしない。自分都合に記憶の刷り込みを変えたりもすれば、勝手に解釈して思い込んだりもする。そんな気ままさに疲れた。もう関わりたくはない。そんな不確定にすがれるほど、私は情緒的でもないし、楽観主義者でもなく、度量もなければ器量も持ち合わせてはいない。だから、ひとりがいい。
私には人を愛せないのだろう。
乾き、愛は求めるが、満たされないのだ。
私の心の器には、きっと、いくつものヒビが入っている。
だから、人を愛せないし、愛されもしないし、愛がわからない。
いま私は、私を産んだ時に亡くなった母の、、、今世を忌み嫌う一つの理由でもあるが、母の墓前に向かっている。もちろん一人でだ。今も父に愛されている母の法要は毎年行われているが、私は12歳になった誕生日の日から参列するのをやめた。
18年前のその朝、喪服を着た父が私の自室に迎えに来た。普段より一層深く、暗い翳りを纏う父に、「お腹が痛いのです。あの石段を上がるのは無理だわ、お父様」と苦悶の表情を作り、苦しげに訴えて嘘をついて拒んだ。
父は悲しみの目で私を見つめ「ゆっくり、休んでいなさい」と、ただそれだけ言ってドアを閉め、家政婦の浮子を伴って出掛けていった。
次の年から母の命日の3日後に、私は一人墓参りするようになった。今日がその3日後、参拝する日と決めている日だ。私はまた一つ歳を重ね、とうの昔に母よりも年上なっている。
この女はその昔、398段ある石段を騎馬にて、一気に駆け上がる事が出来たならば、出世すると言われていた急勾配極まりない石段を、陽光を受けて絹糸光沢に輝く、エメラルドグリーンのハイヒールで上っていた。
女の額に汗が浮く。だが、かまっている余裕などこの女にはなかった。それでも、女の足取りはもの静かな歩調としか見えない。この女は意地っ張りなのだ。人に自分の心情など教える気もなければ、頼る気もない。弱みを知られれば利用されると知っている。
私の心など誰が気にする。遠巻きに観察して噂のタネにするだけだ。だから私は何事にも無関心を貫き、寡黙を通す。
ふと、立ち止まった女が空を見上げる。
紺碧の空にに飛行機雲が一筋のった。その空は女の足取りと同じように迷いなどなく、澄み切って涼やかだった。微笑んだ女は石段を上り始めたが、凸とうつむいた女の眉間に鋭くも深い皺が寄る。だが、女は何事も無かったかのように顔を上げ、口元に微笑を浮かべて石段を昇ってゆく。
思えば、この女は誕生の時から不憫だった。
この女の父は祖父から会社を受け継いだ直後、女の誕生と引き換えかのように新婚の妻を亡くし、その死を悔い、嘆いて天を恨んだ。女を罰するかのようにその養育の一切を家政婦兼・乳母の浮子に一任し、信頼と放任を盾にして人任せで育て、それまで以上に鬼気迫る仕事ぶりで邁進するようになった。
父のそのスタンスは今も変わらない。
そんな仕事一辺倒の甲斐あってか、才覚なのか、元々商才に恵まれていたか、愛する人の死の見返りか、男は小さな貿易商だった会社を世界でも有数の多角的企業に育て上げ、未だ衰えを見せぬ意欲と野心を持って日々、盾石グループの名を世界に知らしめている。
幼女になった女は、そんな父の姿を見て、自分は笑ってはいけないのだと思うようになった。女の幼心は父の失意を純粋に汲んで、自分の戒めとしたのだ。
幼女は自分の生を疎ましく思う。
なぜ私が、生きていると嘆き、悲しんだ。
母の不在に責任を感じ。
父の態度に、閉塞感の意味を知り。
浮子が示す愛情を、資格がないと拒絶した。
愛らしさを失った幼女は、頑なな子供へと変貌する。真っさらだった幼女の心を、男心が流す絶望の赤い血が侵食したのだ。鮮血は今や朱殷色へと変色し、トラウマとなって残っている。
そんな幼女に大人たちは戸惑ったが、会長の娘をおざなりにするほど父親の世界は寛容ではなく、機会があれば男を取り巻く大人達は、幼女に話しかけては何かを得ようと期待した。
欲しかったのは、会長の一人娘と話しをしている自分の見栄えだ。幼女はそんな大人たちの問いにただ、少し見開き気味に見える目で、無言を通して見つめ返すだけだった。幼少が描く心の葛藤に、誰もが気を払わなかった。
「かわいいね」と言われても、「去年もお会いしました」と期待されても、「お父様には、いつも良くしていただいています」とお礼を言われても、どう返事を返すのが正解なのかが、幼女にはわからない。自分が考えつく答えに自信が持てずにいた。
エゴを満足させるが為に幼女を利用しようと近づく、曇った眼の大人たちには幼女の思いが見えるはずもなく。
そんな少女に、1人の少年が声を掛ける。元は伯爵家の地所だったホテルで開催された創立記念パーティーに、父のお供で出席した少女は会場を抜け出して、伯爵がこよなく愛した池泉庭園の水面を見つめていた。
黄金、紅白、大正三色、浅黄、白写り、べっ甲、様々な錦鯉が、悠然と泳ぐ池の淵に、少女はいつの間にかに近づきすぎていた。
「危ないよ。富士子さん」と声を掛けられて、富士子は驚きを隠して振り返る。年端の変わらぬ少年が立っていた。その姿を見て大人びた口調だった事に、富士子はまたも驚いた。大人に見咎められたと思っていたからだ。
何も言わず少年を見つめていると、「何してるの?」と言いながら富士子に近づいてくる。富士子の足元を覗き込んで「ああ、こうするともっと近くに来てくれるよ」と手を叩く。パクパクと口を開けた鯉が、うねるように魚体を擦りつけ合いながら、互いにのしかかって寄ってくる。
鯉は瞼のない目で一心に少年を見ていた。その光景に恐れを感じた富士子は後退る。
その様を見た少年は「怖くないよ。餌が欲しいんだよ。これ」と言いながら、ツイードの半ズボンのポケットからビニール袋を取り出して、富士子に差し出す。富士子は小さく首を振る。
「鯉の餌だよ」と言いながら少年は封を開け、富士子の手には多すぎる量を握らせ「見てて」と言うや、袋に右手を入れて池に餌を撒く。
鯉の生存競争は激しさを増し、その勢いが富士子の恐怖心を煽る。握りしめた手から餌がこぼれ落ちた。
それに気づいた少年は「大丈夫だよ。僕がそばにいるよ」と言いながら、富士子の顔を覗き込む。「わかったわ」と言ったものの、富士子の意に反して涙が溢れた。
その涙を見た少年は見開いた目を瞬かせて俯いた。即座に“いけない“と感じた富士子は、乱暴な仕草の右手で涙を払いのける。
「ごめんよ。怖かったんだね。僕ね、いつも富士子さんを見てたんだ。僕のパパは富士子さんのパパと一緒に仕事してるんだよ。僕の名前は素水宗弥」少年は労りの優しさで自己紹介し、コクリとうなずいた富士子は「ちょっと、本当にちょっとだけよ。怖かったの。鯉がね、あんなに大きな口をしてるって知らなかったから。泣いたこと、誰にも言わないって、約束して」鈴が鳴るような声で正直に話した。
「絶対、だれにも言わない。約束する。行こう、富士子さん。きっとおじさんが心配してる」宗弥は富士子の右手を取る。手を繋いで歩き出した宗弥は富士子の横顔を見つめ「怖い時は僕に教えて、僕が富士子さんを守るから」と言った。
こうして出会った宗弥は富士子の父・盾石国男の第一秘書、素水樽太郎の息子だった。富士子の交友関係は狭く、幼稚園から高校まで同じ学校に通った宗弥、高校から編入してきた親友の疎下サヤ、富士子を育てた浮子、この3人だけがあるがままの富士子を知っている。
そして富士子には、もう1人秘密の友がいた。富士子の心の深層にある“記憶の宮殿“に住んでいる5歳の女の子だ。名前は“ブルー“だと女の子が富士子に教えた。
いつの頃からかブルーは富士子に話しかけて来るようになり、富士子も心を開いてブルーと接するようになって、学校での出来事、父の機嫌、寂しさ、わからない事、途方に暮れた時、そんな外の世界で起きることで、さざなみが立ってしまう気持ちを富士子はブルーと分かち合って生きてきた。
石段を上がってゆく富士子のライムイエロー色のフレアワンピースの裾が、軽やかに揺れている。けれども比例するかのように、富士子の背中と肩の強張りが増してゆく。
石段の両脇に等間隔に植えてある針葉樹の葉が、日差しを受けて銀色の針のように光り、拍子を得た光線が富士子の煤竹色の瞳を眩ました。あざやかなリズムで石段を上がっていた右足のヒールが、石段の縁に引っ掛かった。足首が揺らぎ「あっ」と、小さく上げた富士子は石段を踏み外した。
この勢いに身を任せれば、この人生も少しは楽なものになるだろうか・・・富士子は「逝っちゃおうか?」と心の友ブルーに尋ねてみる。すぐさま「逝っちゃえ!」と同意され、富士子は潔く身を任せてみることにした。
首がのけ反り始めて見上げた空は青さを増していた。なんて、美しい空なのだろう。委ねる信頼、落ちていく快楽、手放した時の堕落、その全てが完璧とも言える紺碧の空にあった。
口角を緩めて富士子が笑う。「いいかもしれない」と呟いて、笑いながら落ちてゆく。
だが、自由落下する背中が突然、柔らかくもハリのある壁にぶつかり、両肩をゴツリとした手でガッチリと支えられた。富士子の耳元で「大丈夫ですか?」と男の声が響く。富士子はギクリとする。
富士子の横顔を覗き込んだ男は「足を痛めているのではないですか?」となおも、聞く。
振り返って、男の顔を見る。
男の視線と、私の眼差しが交差した。
この男は今、成し遂げようとしていた私の信頼と快楽、堕落の落下を見ていたのだろうか……。
真相が知りたく、見つめた目は漆黒を称え、黒目がちな男の瞳にはひっそりと寄り添ってくる闇があった。知っているこの目。はんなりと匂い立つ目つきは静かな湖面を思わせた。どうして、こんなにも穏やかなのだろう。その薄ガラスにも似た漆黒の瞳には、今、私が映っている。
言葉を発しなければと気は急くが、富士子は男の墨汁のような艶やかな目に魅入られ、引きずり込まれて男に繋がれた。ブルリと震えた富士子の本能が二の腕を泡立せる。朱に染まった心は恋に落ちる。
だが、本人は気づかない。
なぜなら、富士子は愛の本質を知らない。
男の目から視線を離せずにいる自分に、富士子は狼狽した。下品だとも、脱線していると思う。そんな富士子は鉄壁の笑顔を作り、いつものように本心をブルーに預けて身体をクルリと反転させ、男を見据えた。
男の両手が肩から遠のいてゆく。重みを失った肩が寂しくもある。富士子の目が、あるべき場所に戻ってゆく男の右手を追う。第2関節が逞しくも、すらりとした指がこの男を物語っていた。
石段の段差と私の身長、ハイヒールの高さを考えれば、男の身長は優に180センチを超えているだろう。
左手にカサブランカの花束を持つ男はキザだが、この男ならば許されるだろう。黒のVネックを合わせた海老茶色のスーツの肩幅は広く、吸いつくようになじんだ上着が男の筋肉を強調していた。好みだ。
服装は男の魅力を引き出すだけの小道具でしかなく、全身から溢れ出ている野生味は孤狼を思わせ、厚く響く低音域の声は、ベルベットの舌で耳を舐め上げられるような心地良さと大胆さを持っている。ナチュラルセンターパートの黒羽色の髪は、洗い立ての無造作を想像させ、強い意思を感じさせる額からの鼻筋は高く、真っ直ぐに整い、鼻翼は小ぶりで、口は今のように笑みを讃えてていなければ、ふっくらとした唇は真一文字で気難しさを醸し出すだろう。
富士子は男の佇まいを耽美だと無条件に思う。黒革のコンバースも好ましい。
男は私の観察を固まっていると勘違いしたらしく、私の目を覗き込む。柔らかい視線に息が詰まる。この男はわたしの調子を狂わす 。私はゆっくりと心の居住まいを正す。
慎重に、慎ましやかに、漆黒の瞳を見つめ返した。
男は何の変化も表さず、整った顔に静かな笑みを浮かべたまま、真正面から私を見つめ返してくる。頬が勝手に赤くなる。私の小さな屈辱が大きな恥じらいとなった。見られたくはない。知られたくもない。私は静かに顔を伏せる。初対面の男の視線に根を上げたのか、避けたのか、 逃れたのか、なぜに 私の頬は痛いほどに熱い。
次の瞬間、男は「持っていてもらえますか」と言って、私にカサブランカの花束を差し出し、なぜか私は花束を素直に受け取ってしまい、口元の笑みを大きくした男はいとも簡単に、私を抱き上げて軽快に石段を上がり始めた。
心地いい。頬にあたる風が優しい。
違うでしょ!!「下ろしてください。自分の足で歩けます」氷点下の声で、毅然と男を射っていた。
ピタリと立ち止まった男は真上から悠然と私を眺め、なんと勇敢な表情なのだろう、ハンサムだと思ってハッとする。見当違いなことばかりを思いつく私の脳は、感情の坩堝でグシャグシャだ。それでもピシリと拒否しなければと口を開きかける。すると男は「あなたの足は悲鳴を上げています。きっと数カ所かマメができている。今、大事にしないと、その美しいハイヒールをしばらく履けなくなります。僕では不服でしょうが、手当てをさせてください」と犬歯が見える笑顔でそう言った。
なぜ、気付いた!私は口を閉じるしかなくなる。宗弥を除けば、今まで気づいた人もいなければ、気にかける人もいなかった。どうして、この男が…知っている。
沈黙した富士子の無言を、男は承諾と受け取って淀みのない足取りで石段を駆け上がる。
こんにちは。




