Ⅰ.Ⅷ.開戦
レイ・ヘイリは、意識を失う直前に耳にした、男の声を思い出していた。
またうまく聞き取れなかった。彼はなんと言っていたのだろう。
もしかして、私を助けてくれようとしたのだろうか。どうして、名前も知らない他人を、ましてや道端でぶつかっておいて、そのまま走り去ってしまうような小娘を、助けようとなど。
”普通の人が”戦って敵う相手ではない。
それは、手合わせをしたレイが一番よく分かっていた。
エミネと名乗るあの暗殺者と対峙した彼は、無事に逃げ切れたのだろうか。
お腹の底から、温かい感覚が広がる。
目を覚ますと、白い天井が見えた。
レイ・ヘイリは、絹でできた薄い布団を被って、寝かされていた。
「レイ——?」
横を見ると、何やら驚愕した顔の総督が椅子に座っていた。
「目を、覚ましたのか?」
「総督——」
レイは、そのあとなんと言ったら良いのか思いつかなかった。迂闊にも単独行動をしてしまった自分の不注意、武官であるにもかかわらず襲撃者を退けることができなかった力不足。
寝覚めの頭にそういった思いだけがぐるぐるめぐっていた。
「レイ。——すまなかった」
どうして総督が謝るのか。レイには理解ができなかった。叱責されると思った。今回の出来事はレイの不注意と”弱さ”が引き起こしたのだ。平時でも許されないどころか、ましてや、国家の危機に主力を無力化されるなど。
——国家の危機
脈絡が無いのを自覚しつつも、レイは総督に問う。
「ルミアは?」
「いいんだ。——降伏することにしたよ」
「そんな、私のせいで——」
「君の責任じゃない。交渉の結果だ。——むしろ、戦うより随分いい条件だ。 開城し、ニューシェフィールドはルミア軍団国傘下になり、一部ルミア軍団が駐屯する。——そこには略奪も、破壊もない。」
「巫女様は、どうなるのですか?」
「確かに、巫女様はこの街を去ることになる。しかし、神殿の場所を移すだけだ。巫女様の生活は保護される、と申し受けている」
さらに口を開こうとしたレイを制して、総督は続ける。
「今からの会議で、ルミアの要求を呑むことが決まる。君は、そこで傷が癒えるまで休んでいてくれ。——もう、戦わなくていいんだ」
そう言い残すと総督は立ち上がり、部屋を出る。
——戦わなくてもいい。
その言葉にレイは自分が安心してしまっているのを感じた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
会議場の重い扉を開け、総督が入場する。
部屋の壁には海や野山を描いた油絵の風景画が等間隔に飾られ、天井には西方大陸より貿易で得たガラス細工が飾り付けられている。シャンデリアの明かりは揃って煌々と灯っていた。
部屋の中にいる十人が一斉に立ち上がる。
総督に対する礼を示しているのだ。
総督はかつかつと革靴の音を響かせて部屋の最奥、座る者の居ない一番豪華な椅子の隣、自身の席に腰を掛けた。総督が腰を掛けると同時に、他の十人も腰を掛ける。
「急で済まない。皆に集まってもらったのはほかでもない。ルミア軍団国の件だ。——今や街の周りを埋め尽くしているルミア軍団のテントを、直接その目で見た者も居ることだろう」
そう言うと総督はインナーウォール地区議員へ眼を向けた。
向けられた視線に催促されるように頷きつつ、彼は思い出していた。
——地平線が動いたようであった。
大軍団の接近を第一に発見したものは、よくそういった比喩を使う。
地平線の向こうより現れる、天に突き立てた槍先が一直線に揃うほどの練度で行進するルミア軍団を目の当たりにした彼は、これに勝る比喩は無いと実感した。
レイ・ヘイリがエミネ・シェヒラビュユクに襲われた日から数えて十日後に姿を現したルミア軍団は、城壁の上からその軍団を一目見ようとひしめくやじ馬が見守る中、あっという間に布陣を終えた。
布陣を終えるか終えないかというタイミングで、使者が訪れる。再度の降伏勧告である。第一報との違いは、細かな降伏条件と待遇を示してきていることだった。
「——私は、降伏勧告を受けようと考えている」
そう切り出した総督は、≪閃光≫の力が封じられた今、無暗に抵抗して被害を増やすより、ルミアの下での将来の繁栄を選ぼうではないか、そういった意図の演説を行った。
宰相をはじめ、歯を食いしばってしぶしぶという様子で頷く各議員の傍らで、一人だけが、あからさまな怒りを隠しもしなかった。
「ルミア軍団が駐在する! そうしたら伝統ある各地区の都市衛兵はどうなるのですか。解体にでもなった暁には、そのまま、約一万人の失業者の出来上がりだ。治安は? 外国の軍団に自国の治安維持を任せるというのですか」
「外国ではない。我々は、ルミア軍団国の一部となるのだ」
「殿よ、独立国家としての誇りをも失いましたか。 ——民はどうなるのです。略奪を行わないとの契約は承知しております。ただ、それはあくまで指揮官同士の契約。末端の一兵卒までもが、守るとお思いですか?」
「……ルミア軍団の軍規は厳密だ。加えて、≪閃光≫無き今、抗戦——つまりは、攻城戦にでも突入すれば、それこそ被害は計り知れない」
「≪閃光≫の継承。ご存知ですな?」
「——将軍よ、アダム・ヘイリよ、お前のその口で、レイを殺めると言うのか?」
改めて名を呼ばれた将軍は、少しの沈黙ののち、改めて覚悟を決めたように言葉を発する。
「……護国こそが、我々一族の使命です」
別の議員が口をはさむ。ハーバー地区の議員だ。
「巫女が、協力するでしょうか。——彼女は、敵と内通していたのですぞ?」
「内通——? それが仕組まれたものでもですか? ——殿!!!」
——引っ立てよ!
そう将軍が叫ぶと、開いた扉の先から、二人の衛兵に取り押さえられた”東方系”の男と、それを率いる大鳥の少女、クラン・オルハンが現れた。
「彼、全部吐きましたよ~、いやーお金と能力は持っていて損が無いですね~」
場に似つかわしくない無邪気な声で、少女が言う。
「ヒラノ! 貴様!」
慌てた様子のハーバー地区議員の首は、その次の瞬間には宙を舞っていた。
将軍は刀の血しぶきを払うと、総督に向き直る。
「貴方の主導で御座いますな——殿」
辺りの議員は驚きのあまり何も口にできない。
≪洗礼の巫女≫が側近であるミナト・エモンに命じて≪閃光≫を無力化した。これを手土産にルミア軍団国へ身売りを図るためである。——自身が聞いていた情報と目の前の出来事があまりにも食い違っていたためである。
「否定、して頂けないのですか」
「——民を、救うためだった。命を落とすものが、一人でも少ないように」
「民、で御座いますか。それでは、民を代表して、私から述べさせて頂く——裏切り者と共に侵略者に身売りをするくらいなら、戦って死んだ方がましだ!!!」
一閃。ハーバー地区大臣の血も滴りきらない刀が、総督の喉を攫う。
ハーバー地区議員の机の上にいた将軍は、一瞬の間に総督の机の上に飛び移っていた。
刀の血を振り落とすこともせず、返り血も浴びたままの姿で将軍は高らかに宣言した。
「我々ニューシェフィールドは正式にルミア軍団国の要請を退ける! 開戦だ!! 戦時中、この街の統帥権は私が預かる! ——異論はないな?」
誰も言葉を口にすることはできなかった。