Ⅰ.Ⅲ.双槌の暗殺者
少女は海を眺めていた。
道中、人とぶつかった際についた尻餅のせいで、お尻が少し痛い。
あの少年は大丈夫だっただろうか。
自分と同い年くらいの少年のようだが、顔はあまりよく見えなかった。
こっちの不注意でぶつかったのに、ちゃんと謝れたのかもよくわからないまま夢中で走ってきてしまった。
そういえば、ぶつかった後に何か言っていたな。
声は覚えていても、その内容はよく聞き取れなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
——ルミア軍団国の侵略者を、その≪閃光≫を以て撃滅せよ。
インナーウォール地区にある「士師の館」で、総督よりの命令が少女に伝えられたのはつい三十分ほど前だ。
ほかに方法はないの? と伝令の若い議員にまくし立ててももはや意味がないのを、少女は知っていた。
「少し、席を外します。」
思わずそういうと、彼女は部屋を飛び出した。
飛び出した勢いでそのまま走る。
これから自分がしなくてはならないことを考えると、涙が止まらなかった。自分は未熟だ。
レイには未だ、覚悟ができていなかった。
十六になり、都市衛兵として勤めて一年、せいぜいが泥棒や暴漢を麻痺させて動けなくするくらいにしか、亡くなった母から受け継いだ能力≪閃光≫を使ったことがなかった彼女は、「人を殺す」という、あまりにも重い一線を越える覚悟ができなかった。
それに、母のように、自分の代でも戦争など起こらない可能性の方がよっぽど高いように思えたのだ。
インナーウォール地区というのは、都市ニューシェフィールド——海にせり出した出島のような形をしている——を囲む城壁のうち、最も堅固な、陸側を守る聖ジョージ城壁に沿った一帯を指す。
古の龍退治の聖人から名前が取られたこの城壁は、出島のくびれに合わせて建てられた城壁であることから、全長は南北に二キロメートルを少し上回る程度しかない。
その短さも相まって、城壁には中腹の一か所にしか門がない。
ニューシェフィールド街に出入りする者は、商人でも使節でも、すべてはその門を通らなければならなかった。
コロニア門と、門から出た者の最大の目的地である都市名を冠して呼ばれていた。——皮肉にも、ルミア軍団国の首都の名前だ。
その門の真上には見る者に威圧感を感じさせずにはいられない塔が聳えている。
先々代の≪閃光≫はその塔の最上階、まるで王族の宮殿に備えられたバルコニーのような「砲台」に立ち、その場から一歩も動くことなく≪閃光≫の能力によって迫る敵の大群を壊滅させた。
先々代十二歳の出来事である。
それ以来、この塔は閃光の塔と呼ばれるようになり、ニューシェフィールドの都市が再び攻められるようなことはなかった。
——ルミア軍団国が動き出すまでは。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
レイ以外人のいない海岸を、ゆるやかな波が洗う。湾を挟んだ向こう岸には巨大なキャラック帆船やガレオン船がいくつも見える。
後ろを振り向いても、背の低い草花が茂る丘のみで、それに隠れて城壁や閃光の塔は見えなかった。
心が苦しくてどうしようもない時、少女が訪れるのは決まってこの場所だった。
(私は、おばあ様のようにはなれない……)
「おセンチな表情じゃねえか! そのまま海に身でも投げんのか? それなら手間が省けるってもんだ。」
「!?」
レイは横に飛び退く。
——誰かいる!?
全く気配が感じられなかった。
見ると、さっきまでレイが立って居た場所は地面ごとえぐり取られ、湿った土壌を夕陽に晒していた。
「何者!?」
「失礼、名乗る前に”挨拶”しちまったな。もっとも、”挨拶”が成功していたら名乗る必要もなかったんだが。」
一人の少女が地面に降り立つ。
先ほどの場所に攻撃を加え、そのまま上に飛び上がっていたらしい。
その少女は、身に纏う衣装からも大人びた雰囲気ではあったが、あどけなさが残る顔を見ると、レイとはさほど歳が変わらないようだった。
「なっ——誰? どういうつもりなの——?」
「私はエミネ・シェヒラビュユク。副業、暗殺者だ。今回の任務は、≪閃光≫レイ・ヘイリの無力化。自分でべらべら喋るのもヘンだけどな!」
彼女はそう言うと、間髪を入れず追撃を入れる。
エミネと名乗る少女の両手には、それぞれに大槌が握られていた。
身の丈もあろうかという大槌にはまるで重さがないかのように、エミネは軽々しく振り回す。
反して、その一撃一撃は重く、岩に当たると砕け散り、地面にぶつかると土を抉った。
レイはその連撃を身のこなしだけで躱していた。
≪閃光≫の応用によって光のマナを身に纏うことで、常人にはできない動きを可能にしているのだ。
次々と繰り出される攻撃を間一髪、時には掠りながらも躱していく。
止まない連撃に、レイは声を出す余裕もない。
——ふと、攻撃がぴたりと止んだ。
「なんで、お前は攻撃しない?」
攻撃をやめたエミネが問い詰める。
「ご自慢の≪閃光≫は? どうしたんだ?」
「——はぁ、はぁ、はぁ。それは……」
乱れた息を整えながらも、レイは言いよどむ。
自分でも意味が分からなかったからだ。
——自分の命を狙う暗殺者を、傷つけたくないと考えていることが。
エミネの顔を見ていると、今までに対峙して来た、街の細々した犯罪者とは違うものが見て取れた。
その真意を知りたかったのかもしれない。
「とんだ甘ちゃんだ。……それはそれでいいぜ。どうだ、契約を結ばないか? 知ってるだろ? 間もなくルミア軍団国の本隊が到着する。たちまち街は包囲されるだろう。だが、そこでお前は能力≪閃光≫を使わない。——そう約束したら、今日はこれで退く。嘘じゃないぜ。能力者同士の契約だ。」
二人が見つめ合い、少しの間が空く。
「それは——できない。」
「だろうよ。——私も甘ちゃんだったな。こんなくだらない話を持ち掛けるなんて。」
そういうとエミネはまた槌を構えた。
レイも身構える。
(でも、私一人でどうにかなる相手じゃない……)
どうにかこの場を離れなければ。
だが、どうすればいい?
レイは考える時間が欲しかった。
「能力者といったわね。あなたも巫女様の洗礼を受けたの?」
「洗礼——ね。あいにくだが、お前らの巫女様には会ったことがねえよ。”私は” 能力名も持ってねえしな。」
「それじゃ、どうして——!?」
世界には四人の巫女がいると言われているが、≪洗礼≫、つまりは能力者に能力名を与える力は≪洗礼の巫女≫リア・シェフィールドだけがもつ能力だ。したがって、マナを扱える者はどの国の者でも、成人すると能力名を授かりにリアのもとへ参るのが常であった。
こういった事情からも、ニューシェフィールドは特別な都市としての地位を享受していたのだ。
「さあな。」
とエミネはつれなく答える。
レイは体調の異常に気が付いた。
先ほどまでの連撃を躱すのに光のマナを使いすぎたようだ。
力が戻るまで、あわよくば逃げるチャンスを見出すまで、少しでも時間を稼ぎたかった。
レイは話を続ける。
「あなたの能力は、その武器なの? それは——」
そんな健気なレイ思いを踏みにじるように、エミネは言葉を遮った。
「聞いてもべらべら喋んねーぜ。——気が変わった。冥途の土産を持たせることもねえ。」
そう言うと、エミネはその手の双槌の形態を変化させた。
随分と小型になったその武器の形に、レイは見覚えがあった。
西方大陸の人々が演武などで使う、トンファーと呼ばれる武器のようだった。
「——!?」
レイが武器の形を認識した次の瞬間、みぞおちに強烈な痛みが走る。呼吸一つのあいだにゼロ距離まで間合いを詰められ、一撃を入れられていた。
身に纏った光のマナが弾けるのを感じる。
——それからは一方的であった。
エミネは、抵抗する術をなくしたレイに、一撃一撃を執拗に打ち込む。
「ぅあっ、かはっ——!」
声にならない呻きを漏らすしかないレイに、エミネはそれでも容赦がない。
大振りが来る! と分かっていても、レイには防ぐ術もなかった。
「——っ!!!」
レイのへそ下あたりを直撃したその一撃は、彼女の身体のみではなく、その身に宿すマナをも粉砕したかのようだった。
今までの連撃とは比べ物にならないほど強烈な衝撃に、レイは吹き飛ぶ。
「——終わりだな。」
地面に倒れて苦しさに身悶えするしかないレイに、ゆっくりとエミネが近づく。
レイには逃げる気力も、声を上げる力すらも残されていなかった。
薄れていく意識の中、身体が冷えていくのを感じる。
(何、この感覚…… 私、ここで死ぬの——?)
ひんやりした空気の中、レイは、幻聴だろうか、ついさっきそこの道で聞いた男の声を、また聴いた気がした。
「そこまでだ!」
——ミナト・エモンは、巫女よって命名されたその力、能力名≪火炕≫を全開にして叫ぶ。