人間批判的な思考の遺書
人間とは賢い生物である。
確かに賢い生物ではある。しかし、それが必ずしも素晴らしいことだらけとは限らないと私は思う。
まず最初に、私は決して原始共産主義的思想があるわけではないのでポルポトの様に賢さの全てが罪であり悪という考えはないことを理解してもらいたい。
文明の発展とは人間の賢さの賜物である。服や食物、便利な物、だが全てが人間に有益で良いものであったかというなら否である。争い、それは人間にとって不可欠な要素。文明の発展には争いが付きまとい人殺しの道具は文明とともに進化する。素手から銃、このように人類の賢さが生んだ文明や発展は一概に素晴らしいものではない。つまり人間の賢さは殺人や詐欺みたいな現代で言う犯罪行為なんかを生み出しているから糞ではないかというわけである。
そして、賢さの悪いところは他にもある。それは同じ種である他人への関わり、つまり人間関係。我々はすべてを含め「人間関係だから」と正当化している。良心はもちろんのことだが悪い部分をも正当化している。嫌いな人間や気に入らない人間を敵視し軽蔑し攻撃する。世の中で言う「いじめ」なんかがそれに当たるものだろう。全員が良心を持ち優しければと思うがそうもいかない。人間が良くも悪くも十人十色だからだろうか。言い出したらキリがない。
つまり仕方がないのである。逆に言えばこの状態で人間という集団を円滑に回すためには必要なものなのだろう。
まとめると賢さは害な部分もあると私は言いたい。
そして賢さを駆使する思考というものが、人間自体が私は嫌いだ。
嫌いである思考というものが賢さや人間嫌いの結論を私の頭の中に生み出したのは事実だ。
ここまでくると考え出せばキリもなく際限もない。それに答えがでない。
私は普段からこんなひねくれたことを考えながら過ごしている。
中学校で不登校となりながらも無駄なプライドと意地で無理やり高校に行ったのが悪かった。不登校で学力の低い自分が満足な学校に進学できるはずもない。人間の質は最悪、学力は人間性と比例するのか学力もひどいものだった。そんなところではこんな私ですら成績優秀な生徒になれてしまう。これならいけそうだと思った私は慢心したのだろう。人間の醜い思考がここでは一段とひどいことに気付かなかった。自分の精神が弱いことも原因ではあるが長続きはしなかった。半年で学校を退学し通信制高校に転入。そこからは週一日の学校生活となり怠惰な日常を送ることになる。そうもなれば答えのないことすら考える。
別に人間の賢さを恨んだり考えたりしているだけではない。私はなぜ中学高校で失敗したのかだったりいろいろ考えてたりする。
それだけなら思考力が高く哲学的な人間で済むのだが私の場合はそうではない。
ネガティブ思考、生まれた時から後ろ向きな考えと言ってもいいほどのネガティブ。
顔も心も悪い、何もできない、何を褒められてもお世辞や嘘と思えてしまう。かなり致命的である。
こんなことだから人間さえ嫌いになるのだろう。
日常の全てに思考というものは必要でありそれがなければ何もできない。
しかし、それは私にとって苦しいものである。何でも考え込んでしまうせいなのであろうか。そのため何かを成し遂げようと思っても何もできない。こんな悪循環がずっと続いていく。
その悪循環の結果はすべてが嫌になる。何もかもに嫌悪感を抱き生きるというものはつらいものなのである。しかしこれが必然であるが私には耐えられないのである。
嫌なら逃げるという手段がある。しかし嫌いなものが全てとなれば残された逃げ道は死ぬことだけ。しかし簡単には決心がつかないものである。未練が多すぎるのだろうか、そんな自分が嫌いだ。
もしくは趣味や友達に値する人間がいるからだろうか。
趣味といっても怠惰な日々を送るためにやっているゲーム、文章力を鍛えるためという名目で始めた小説。趣味とはいえ自分が抱く考えや感情すら表現できない奴が小説なんて書けるのかともいえる。あくまで自分の考えであり他人に強いるものではないが自分の理想が高すぎるせいかそう考えてしまう。私が思う事を書くならばキリがない。
周りから言われる通り考えすぎることをやめればダラダラと自分の思考を書くことも辞められるのかもしれない。しかし私はもはや考え込まなければ生きていけないのである。それは失敗が怖い、成功にこだわりすぎる。いろいろあるが言うなれば思考中毒とでも言えばいいだろうか。薬物と同じで適切な摂取では有害とはならないが過剰に摂取すれば体に毒である。そして思考中毒とは麻薬のようなもので、一度使えばやめられなくなるものなのだろう。私はその中毒者、更生治療は不可能。
こうしてこの文章を書いている間にも文章の構成を試行錯誤している中でもこんなわかりにくい文章を書いている自分が嫌になっている。
さて、ここからは前の行よりだいぶ時間が経った後から書いている。
なぜ投げ出したのかといえば嫌になったから。なぜ書き出したのかと言われれば決心がついたからである。その決心は決して書こうというものでもない。それは死ぬ決心、
「私は自殺します」
ということになる。つまり書くという事はおまけであり遺書のようなものである。
書き綴ればいくらでもダラダラとできるだろうけど合計一万文字を目標として書こうと思う。しっかり完成すれば遺書でもあり私の最初で最後の作品となる。こんな感じのものは面白いと思うが数少ない読者である君はどう思うだろうか。
さて、そろそろ本題に入ろうと思う。
なぜ死ぬのか、それはとても簡単な答え。
生きること、考えることが嫌になった。ただそれだけの理由。
自殺というものがいけないものだと言うのは世間の評価が「いい子」の自分も普通に知っている。しかし、考えてほしい。なぜ自分の生死を他人によって左右されなければならないのか。生きることを妨げることが悪であるなら死ぬことを妨げることも悪であるべきではないだろうか?
「周りへの迷惑や家族のことを思うとそうは言えないだろう?」と反論する人間は言うかもしれない。確かにそうかもしれないが老衰や病死しても同じことだと思う。
迷惑をかけることはしたくないと思うがその心はどうせ良心という利害を考えて行う作戦行動。死ぬ寸前にそんないい子ぶる作戦行動は必要ない。
ここで良心というものに触れたから良心について書き綴ろう。
良心というのは私が思うにさっきも書いた通り作戦行動に過ぎないと思う。
いい子ぶるためや自分の優位を得るためなんかで行う行為であるとあくまで私はそう思う。色んな思惑あっての良心、それを人間は理解していない。もしくは無意識に理解して良心によって起こした行動の表面上だけしか見ていないのだろう。
つまり100%の良心なんてないし100%善人な人間なんていないのである。
普通に当たり前のことかもしれないが人間はなかなか自覚しない。
しかし、ボランティアなんかで自己の利益を考えず動いている人も中にはいるだろうという突っ込みをされては反論はできない。それは自己満足の良し悪しが私にはわからないからだ。ひねくれた人間だと思ってもらって構わない。
それに私は良心を悪い物と言っているわけでもない。中身が100%良いものではないと言いたいだけなのだから。
人間の多様性や十人十色を認めてくれるならこんな考えを持つ人間もいるんだなという程度に思ってくれれば嬉しく思う。
私だって自分で言うのもどうかと思うがこの17年の短い人生の中でかなり良心を振りまいて来たと思う。あくまで自己の思い込みではなく実績等を評価した答えだ。
優しく、人のためになるようにというモットーで生きてきたはずだからというのもあるが。
このように書くと自信過剰に見えて嫌になる。
しかし、良心とは人間が集団で生活する中で必要不可欠な要素であることも事実である。互いに良心があれば互いの気分がいい。それを小学校や親に教わるはずなのだが成長するうえで忘れていくのだろうか。そうなってくると良心を持つことが馬鹿馬鹿しくなってくるものだ。
さて、ここからもまた別の日、前の行を書いた明日に書いている。
夜中の思い付きで書くと流石に眠くなる。そして朝起きて続きを書くのだが、私は書く前に一度すべての文章を読み返している。そうすると反吐が出てくる。理由は言うまでもなく自分の文章が満足いかず糞という評価に値するものだからだ。
読み返せば文章が明らかにおかしく自分が何を書き何を伝えたいのかが理解できない。これを書くときに毎回繰り返しているとやる気というものがなくなっていく。おそらく今まで一つも作品を完成させられない原因であると思われる。
そしてこの文章をここまで読む猛者はおそらくいないと思うがもし読んでいる人間がいるならその人間はかなりの不快感を感じていると思う。稚拙で理解不能な文章に良心や人間、思考の否定。どれも気分のいいものではないだろう。
しかし、もはや良心のかけらもない私は自己満足というものを盾に最後まで書かせてもらう。
だが、私も嫌悪に溢れた文章を書くのも飽きてきたので話題を変えよう。
このようにすぐに飽きて…とここでまた嫌いだ云々と書き出すとキリがない。
さて、死ぬことについて書こうと思う。
最初にこの世というのは、あの世があればそう呼ぶのが妥当ではあるが存在があやふやなもの。そう書くのがあまり良くはないと思うが今回はそう書かせてもらう。
死ぬというのはこの世からの乖離であるのだが存在されるとする魂とはいったいどこに行くのだろうかと世の中の人間の中には考える人間も少なくはないと思うが結論私にもわからない。そのためある意味死ぬのが楽しみである。どの人間も到達しても死後がどんなものか生きている私たちには教えてくれなかった。その真相が明らかになるのだから。あの世が存在しているのか、地獄や天国が存在するのか、転生は存在するのか。私の理解を超える謎でありこの世で一番の難題だろう。しかし、無の可能性もある。あの世や天国地獄が宗教的何かによって作り出されたお伽話ならば死の先に待つのは無なのかもしれないと思う。
ではあの世なんかに行く魂は存在するのだろうか。という話になる。21グラムの重さがあるとされる魂。死後人間が21グラム軽くなるなら存在してもなんらおかしくないとあやふやなことを信じてみるがそれがこの世界、宇宙において別の次元、もといあの世の様なものに行くのかと考えれば面白そうなものだ。しかし、ただこの世をフラフラと可視できない人魂の様な姿で彷徨うだけかもしれない。
死とは謎が多く知的好奇心がそそられる。無だとしても無であったという結論がでるのでハズレはない。
しかし、死というのは怖いものである。自分にとって死ぬというのは動いていた肉の塊が動かなくなり冷たくなり腐りただのゴミになるだけだと考えている。そう考えていても未知であり全てを失う死というものにはそれなりに恐怖を感じる。
それでも死というのは一概に悪いものでもない。死というものは唐突に訪れる。しかし、決まった時間に死が訪れる、つまり自殺や何らかの自殺行為をすると決まる、もしく死への覚悟が決まったことが条件なのかそんな人間の感情は豊かになる。場合によるが死に方によってはとてつもなく心が豊かになる素晴らしいものなのだ。
なぜわかるのかと突っ込みが入るかもしれないがそれは先述した通りこれは遺書の様なものでありこれを書いている本人、私は自殺という道を選んだからである。それ以前に私はこの豊かな心を一度経験しているからだ。
この豊かな心。青い空に流れる雲、肌に触れる服の感触に吹き抜ける風の感覚。どうでもいいようなものでも全てが愛おしく素晴らしいものと感じるのである。それは今までの短いながらも送って来た人生の中で最もこの世界を体感し生というものを実感した時であったと思う。死んで全てを失うのだからこれくらいの特典があってもいいのだろう。しかし、突然の死ではこれは恐らく体験できないものなのだろう。死へのカウントダウンがゆっくりであるからこそ味わえるものであり、もしくは死ぬことを思いなおさせる為にあるのかもしれない。しかし、この世界が鮮やかで素晴らしく感じるあの感覚は素晴らしいものだった。味わう為にはかなり高い代金が必要にはなるが一度は味わってほしい逸品である。
もしこの感覚を体験しても無事に生きていたなら、人生にとって価値のある体験で大きな糧となるだろう。といっても実際、すべての人間がそう思うのかは謎ではある。
ここまで書くと死や自殺を良いものとして捉えてると一部から怒られそうだが私は胸を張って良いものである答えるだろう。
死とはいつか必ず訪れるものであり、受精卵となり母親の腹の中で成長し腹からでて産声を上げる瞬間から我々は死へと向かっているのだから必然でありいつか訪れるものなのだから悪いものではない。自分ではない他人が死んだとて何も害はないだろう。家族や友人ならば話は別なのかもしれないがそれでも死ぬことを止めたり悲しんだりすることは当人への押し付けでしかない。当人ですら死というものは止めることもコントロールできるものではないのだから。
自殺はどうなのかと聞かれれば私自身にも良いものではないのではと思う一面もないと言えば嘘になる。しかし、死ぬことも選択肢なのであると思う。私たちは生きたいという思いで日々を過ごしている。死ぬという行為も自由でなければならないはずだ。自殺を悪とするのは生きたいと思う人間たちの押し付けであると考える。しかし、まだ輝かしい未来がありながら自殺を選ぶ愚かな人間を元の道に戻すのも押し付けがましい彼らの仕事かもしれない。自殺という選択肢を選ぶことは自由であるが簡単に死ぬことを選ばないという事が大事であると思う。だが、最終決定は本人であり過剰に干渉するべきではないと思う。
この国で安楽死や自殺が悪とされる部分は過剰な干渉ともとれるのではないかと思う。ただ、自殺大国であるこの国で安楽死や自殺を表立って認めてしまったらどうなるのかは明らかだろう。
この国どころか世界中で自殺する人間が爆発的に増えるだろう。
それは、この人間の世界に大きな欠陥があるという事であり人間の世界を回している人間自体の欠陥であると思う。その欠陥が賢さであると私は思う。
最初の方で書いた通り賢さは人間同士の生活の中で絶望、不満不平、排他排斥などを生む。そして集団という規模で生きる人間は誰か一人や一部を仲良く集団で叩かなければ生きていけないのである。そうでもしないと自分がその対象になるからである。しかし、それを受ける人間へのダメージというのは相当なものである。つまり人間は生きていく為に人間を足場にして使い捨てていかないと生きていけないのである。足場にされた人間は人生がうまくいかずいじめを経験、いじめが原因で自殺、不憫な思いをする、社会でもうまくやっていけない、絶望して自殺する、生きることが嫌になる。原因が人間関係以外にもあるが様々な不具合を起こしていくことになる。
人間はこれらの不具合を無くすことを目標や常識とするが結局足場となる踏み台となる人間が必要なため本格的な実行には移すことなく上辺だけの言葉と行動だけしかできないのだ。
結論から言えば人間は共食いする愚かな生物である。
ここで人間の愚かさについて書いていこうと思う。
まず一番に人間は争いごとを好む。たとえそれが人間同士が殺し合うものであったとしても人間は争いが大好きである。「戦争は忌むべきものです!みんなで手を取り平和な世界を作りましょう!」実現すれば素晴らしいものだがそんなことを駄弁っている間にも地球のどこかで殺し合っているのである。人間が戦争をやめたのは私の知る限りでは第二次世界大戦後の一週間程度。なんとも少なすぎるとは思わないだろうか。第一次世界大戦であれほどの人間が死んで「戦争とは恐ろしい、こんなこと繰り返さないようにしよう!」とほざいた割には敗戦国への不当な扱い、上辺だけの軍縮、結局すぐに第二次世界大戦が始まっている。結局誰かが戦争を起こすように仕向けたり野心丸出しの人間をけしかけて殺し合っている。結局人間が全て手を取り合って平和を実現することが不可能なまでに血に飢えた戦争狂なのである。平和主義者ですら自分自身の闘争心の牙を完全に抜くことはできないのだから。
そして戦争を起こすのに不可欠なものは欲である。人間の愚かなところその二といったところか。人間の利潤追求は異常なほどである。通常の人間ではなかなか見ないが最終的には人さえ殺すのだから恐ろしいものだ。欲というのは人間の進化、文明の発展の上で闘争心と共に不可欠な要素であるが人間は文明の発展という良い面と同じくらい欲を悪用している。私を含め一般の人間から国のトップに至るまで欲の差があれどすべて欲にくらんだ獣であると言える。愚かさのすべては欲によって生まれると言ってもいいほどでないだろうかと考えてしまう。
我々は自分たちの繁栄のために殺し合い、奪い合い、地球を汚し、人間様のやりたいように長い間生きてきた。地球上で一番嫌われている生物なのではないだろうか。しかし、我ら人間様こそこの地球の主であり絶対的君主であり我々人間以下の生物は人間の言葉を喋れないからそんな意見は聞こえないという独裁政治を行っているのである。民主主義万歳の思想が人間の大半を占めるはずだからこんな独裁政権の人間に人間自身が真っ青のはずだが、さも当たり前の様に生きている。多少、頭のおかしい人間たちは動物達は大事だとか地球を守ろうとかかなり行き過ぎたことを言いだす。なぜ我々が救世主面しているのだろうか。
我々が滅ぶことこそ地球や生物にとっての救いであり我々の償いであると思うのだがなぜそれを叫ばない?
弱くも食物連鎖の頂点に立っているからだろうか。誰しも自ら滅ぶことはしたくないだろうし一番でありたいのが必然であるのだろう。
まだまだ人間の愚かなところはたくさんある。
例えば信仰。
私は無神論者である。しかし論じたことは恐らく一度もない。
神という存在が本当に存在するなら一度拝見してみたいくらいだ。神はとてつもなく人間の観点から見れば悪である、大罪人であるそんな神を拝見したいのだ。
神の名で人間を作り試練といい人間をいじめ倒す。そして宗教というもので戦争をさせ、信仰によって一種の洗脳を施す。結局神様とやらのさじ加減で我々の人生は左右されている。我々は神様達のおもちゃでありゲームの中で踊る愚かな存在である。それをどこからか見て楽しんでいらっしゃる神様とやらはとてつもない糞野郎であると私は断言する。
そんな神様も今や金集めと自爆テロと戦争の道具ではございませんか。本当に存在するなら存在自体が罪であると思う。逆に神という存在を信じている人間も愚かなのかもしれない。すがる存在が必要とはいえそんな物を作り上げ信仰を強制したりするクズであると言える。まとめるなら神や宗教を信仰する人間は私にとって言葉を抑えオブラートに包んで言うならろくでもないものであると思う。
別に宗教弾圧なんかをするわけではない。あくまで個人の意見であり、この国には信仰の自由があり何を信仰しても自由なのだから。例えカルトでも人殺しでもどれを信仰しても自由。それに弾圧や意見を持って討論なんて面倒でだるく非生産的で無意味なのでこんな危険思想を持ってても行動や言動に現れないので信管を抜いた爆弾の様にある程度安全で無害なのである。
これも別に犯罪や法に背くものではないので人間の多様性や十人十色の様にこんな考えもあるのかと思ってくれるだけで嬉しい。
他にも愚かなところが…と言いたいところだが流石に長くなるので省くことにする。ここまで人間の悪口しか書いていないのだが別に人間が完全な悪であるわけではない。人間は時に素晴らしいものを生み出す。発明品でもそうだが私にとって一番身近であるのは小説なんかの話だろうか。人々に面白さや感動をもたらす話を人間自身で生み出すことができるのである。作り話と片付けるのは簡単だが作り話の方が現実より遥かに美しく素晴らしいのである。そこに惚れこむと人間は現実逃避という。しかし、現実逃避のどこがいけないのだろうか。辛い物から一度目を背け素晴らしいものを見ないとこんな世の中ではやっていけないのではないだろうか。批判する人間は恐らくそんな世の中ですり減ってしまったのだろう。夢を見る人間や現実逃避する人間を見ると嫌悪感が湧いてくるのだろう。わかりやすい例はアニメだろうか。アニメを見ているオタクは犯罪者予備軍なんて言葉は今でも世間に浸透しているのではないだろうか。確かに過去にやらかした人間は存在する。よく雑誌なんかにもどれだけ弁明してもオタクは犯罪者予備軍であると書かれる。
実際オタクは犯罪者予備軍である。しかしそれはオタクだからではなく人間だからである。人間全ては犯罪を犯す可能性に満ちた犯罪者予備軍なのである。オタクの犯罪率なんかを挙げてオタクの無害なんかを解くつもりはない。オタクは特別ではなく普通の人間であるからだ。空想や作り話、何かに熱中したり見惚れることが悪いことであるように受け止められるほど我々は現実を直視しよそ見せずに生きなければならないのだろうか。
結論から言えばそうである。なぜならば人間という生物であるからだ。簡潔に書くなら人間とは愚かであるゆえに何か差別できるものが欲しいのだ。自身を正当化するために何か批判し差別できる人間や物がないと生きていけない生物。この場合現実を直視しできない奴らは異端であり差別してもいいという様になったのだろう。ついでに私も差別されるオタクの一員である。しかしあくまで公平な立場で書いたつもりである。
結局、人間の良いところを書くつもりが悪いところを書いてしまった。
幼稚で稚拙な思考しかできない私の頭ではこのような文章しか書けないらしい。
自分自身で読み返しても恐らく何を書いているのか完全に理解できない。ここまでくる物好きな一人、二人の読者も何を伝えたいのかわからないだろう。
小学生にでもわかるように言えば「人間は糞である」と言いたい。
中学生以上に言うならば
私は考えすぎる思考中毒者だ。考えた結果人間という存在に絶望し自殺することにした。なぜなら人間とは愚かな生き物であり、欲深く、争いを好み、自己中心的で陰湿で狡猾な存在である。それは賢さ故であり人間は文明の発展と同時に賢さを悪用して成長している。そしてこんな世の中で絶望したのなら死ぬことも選択肢だろうと、生きる自由があるなら死ぬ自由もある。決して自殺や安楽死は悪いことではない。人間の愚かなところをもっと掘り返していくとよくわからん信仰と差別が大好きで糞。本当に人間って最悪だな!
このまとめで長たらしい文章を理解することができたと思う。そうであってほしい。最初からこれだけでいいんじゃないだろうかという質問が来るかもしれないがこれだけの文章では私の考えは説明しきれないのだ。もし何も理解できずさらさらと読んでここまで来たのなら一度読み終わった後、もう一度ここまで読んでほしい。その時はあの長たらしい文章を読み解いて理解してほしい。文法、用法、ひどい文章で一種の暗号解読の様なものともとれる文章だが、暗号があるわけでもない。まとめよりも長い文章で要約できる程度に理解してほしいのだ。「ふーんこんな考えなんだ」という程度で構わない。もちろん「こいつの考えはイかれている!」と思ってもらっても構わない。
そしてこれだけは理解して欲しいのは
私は決してこの考えを他人に強制し押し付けるわけではないという事だ。こんなことを書いていても私も人間である。頭の中にこんな考えがあるだけで行動や言動には一瞬も移してはいないことをわかってほしい。
さて、前の行で文字だけ数えると9690文字、私にとってはここまで書いたのは初めてである。
そろそろ話しの締めに入ろうと思う。
私の本心は大嫌いな人類一人残らず滅ぼしたいという幼稚で大それたものだ。
私自身の力では到底不可能だが核を使ったり、戦争を起こしたりという滅ぼし方を考えたりするのは楽しかった。結局、私は一人で死ぬ。別に将来に希望があるわけではないのだから。人類を滅ぼすことも安定した老後を迎えることも。今死のうが後で死のうが大して変わらないことなのである。私にとっての希望は死ぬことだった。何か名誉や意味のある死を求めていた時もあったが今では無意味な死でもいいじゃないかと思う。それは満足しているのかやりたいこともやれることもないからだろうか。ここまでくるとわからない。しかし、満足している。このように自分の考えたことを文章にできて表現しているから。それが読みにくい文章だったとしても今まで完全に表現できなかったこの思考を書くことができたのだから。すがすがしく死ねることだろう。
気付けば日は暮れていた。
深夜の暗くなった部屋にはパソコンの明かりだけ。わずかなパソコンの光に照らされたロープ、もとい私の死に場所は開けっ放しの窓から吹く少し冷たい秋の夜風に揺れている。
暗闇に響くキーボードを打つ音に紛れ虫たちが鳴く声。いつもうっとおしい声が今日は心地よく聞こえる。夕食すら食べていない腹は鳴りほのかに空腹で痛む。そんなことすら死が近づくと愛おしく、そして切ない。
こんな環境で自分は死ぬのかと思う私の心は嬉しさと少しばかりの不安が混じり合っていた。考えると少し胸がモヤモヤとした感覚になる。やはり死という未知は恐怖と不安を煽る。
もう数分もすればこの文章を書き終え、人生で文章を考えることをやめる。
思考をやめる、瞬きをやめる、呼吸をやめる。自分のありとあらゆることが終わる。
しかし、直前までこの感覚、感情を書き綴りたいと思った。すでに目標とした一万文字を超えているが書きたいと思った。
文章を入力していた小さなパソコンを持ちロープへと向かう。
下に置かれた椅子に足を置き輪になったロープに頭を通す。
首元に当たるロープはこそばゆい。今この文章を書いてる中で私はロープに頭を通し、椅子を蹴り飛ばせば首を吊れる状態。死に際を書いている。
やはり最後でも美しい文章は書けそうにない。
ここから一体どれだけの時間考えたのかはわからなかったが私は椅子の上に立ち首を吊れる状態で深夜の静寂の中立ち尽くしていた。
30秒なのか1分なのかそれとももっと長い時間なのか。私は何を書くか悩んでいた。もうすぐ死ぬというのにそんなことを悩んでいた。
恐らくもう死んでもいいのではないだろうかと思った。書き残しがないかと考えるが出てこないならもうないのだろう。
しかし書き残しというか無念であるのは首を吊る瞬間を書けないこと。苦しんでいる最中に小説投稿サイトに投稿することは難しい。残念な表現でもここだけは書き遺したいと思った。
さて、これで最後になるだろう。
最後に残すべき言葉。
こんな時なんて書けばいいのだろうか。
あぁ、思いついた言葉を書いておこう。
さよなら、くそったれで素晴らしき世界。
あとがき的なにか。
あとがきが存在するという事は筆者は生きているということですね?
それはどうでしょうか、最後の文を書く前にあとがきを書いていたかもしれませんよ?
まぁ、生きているんですがね。
恐らくこの作品は最初は限定公開的何か(小説家になろうにそんな機能ありませんでした)になっていて読む人は身内だけだと思うんですねぇ。こいつ、いつもどうりだな。という感想でしょうか。誤字あるぞ、とか何書いてるかわからんなんていう感想かもしれませんねぇ。残念ながら私の文章力ではこれが限界です。
さて、これを筆者の私を知らない人が読んでいるという事は限定公開的何かではなく、一般公開にしたのでしょう。あとがきを書いてる現段階ではわかりません。しかし、こんな作品を一般公開して大丈夫?なんて思ってたりします。自殺的な内容に人間批判に稚拙で訳の分からない文章、問題が多すぎる作品ですからね…
ともかく、限定公開で読んだ人も一般公開でたまたま読んだ人もこのようなゲテモノを読んでいただきありがとうございました!
真面目にあとがきをします
今回、私の処女作であるこの話はストーリー性もあるわけでもなく論文的なものでもなくという感じで殴り書きして申し訳程度の首吊り話を入れこんだものでございます。
そして一番言いたいのは段落や改行がおかしく読みにくいと思います。スイヤセェン。
しっかりと修正作業などは行っていく所存です。m(__)m
言い訳するなら深夜二時に思いつきで書き始めて次の日に完成させた作品なのでお許しを。そしてこの作品を読むにあたってどこかで「お前の言っていることはおかしい!」というように反論なんかが出てくるかもしれません。恐らくごもっともなご意見です。私は議論が苦手なので反論を出されたらまともに答えることはできないでしょう。もちろん、自分の意見が間違っていたり頭がおかしいのはしっかりと理解しているつもりなのでご容赦ください。しかし、一つや二つ何か考えるきっかけになってくれたらと思います。
本作は筆者の経験を一部元としていますがあくまでこの作品のみの話であります(精一杯の炎上対策)
もちろん、筆者本人は自殺をしたり思想を公の場にて言動や行動には一切移しません。(健常者アピール)
くどいですが、過激な表現などはあくまで文章上の表現であって特定の個人や団体を貶めるものではありません。(見苦しい程の炎上対策)
恐らくというか絶対的にこんな作品見る人はほとんどいないのにここまでするのは心配性なせいでしょうか。
誤字脱字の指摘、アドバイスなど気軽にどうぞ。
終