ポン菓子屋のじいさん
1
振り子時計の鳴る音が三つ。外はまだ闇の中だ。私は椅子から腰を持ち上げて時計の針を五分すすめた。夕刻にこの町の鐘がなった頃、この時計は五分遅れていた。ねじを巻かなければと思いつつ、読んでいた本を読みきると今になっていたのだ。腹が減ったと台所に行こうとすると、先程本を置いた机の上に用意されていた。白いごはんに焼いた鮭と味噌汁と茶がある。鮭をほぐして米にのせ頬張ると冷えてはいてもやはり旨い。茶の入った湯飲みは一度飲み干してからいれ直した。自分の分ともうひとつ。春とはいえ夜は冷える。手のかさつきは雪の降っていた頃とまだたいして変わらない。そうしてふと、時間だけすすめてねじを巻き忘れたことに気づいた。老いたとまではいかなくても年を重ねたためのことなのか元からよくあったことなのかあまり覚えていない。溜めていた息を吐き出すと少し白かった。
「おい、冷めた飯は旨かったか」
先程もうひとつの茶を出した相手が言った。聞かなくてもさっきからそこでこちらを見ていたではないかと思ったが、気がついてから一度も声をかけなかった私の代わりにあいさつしてくれているのだろうということにしてみる。しかし息子はなぜいつも私が本を読んでいるとそこに居続けるのだろう。いや、途中は読んでいるものに夢中になっていて覚えていないのだが本を取りに行くと必ずこの部屋まで着いてきて、読み終えると机に突っ伏しながらこちらを眺めている。
「私を見ていて面白いのか」
「面白いよ」
息子は即座に答えた。それから体を起こすといつものように座ったまま手の先から足の先までうんと伸ばして茶を飲み、おやすみと部屋から出ていった。妻からはあなたと暮らしていてもつまらないからと言われて今は住む場所が別になっている。何年一緒に暮らしても表情の動きのひとつもなく、言葉の抑揚もない私のためにしたいことなどもうないと言われた。そんな私のことを面白いと言うのは息子くらいだ。
読み終えた本を棚に戻しに部屋を出て息子の部屋を通ると中の灯りがついていた。休みの前の日はいつでも寝られるからといつ寝て起きているのかわからないくらいの生活をしている。それがいつから始まったのかは覚えていない。妻がまだ家にいた頃にはすでにそうだった。あの時息子はなぜ妻についていかなかったのだろう。そんなことを考えながら本棚を置いている部屋の戸を開けた。ここは小さな図書館のような本棚の置き方をしていて、その場で座り込んで読むような作りにはしていない。読み終えた本の題名と著者の名前を日にちをつけてノートに記す。立ったまま書くのに良い高さにした机の上に少し前から息子のものらしきノートが一緒に置かれるようになっていた。子供の頃から気に入って使っていた万年筆が一緒にある。この家に二人だけになってから初めての誕生日に彼に渡したものだ。あのこはさほど好んでいないものに対しては雑な扱いをするためすぐに傷だらけになってしまうのだが、この万年筆には傷ひとつない。やわらかい布にくるんで紐で結んでいる。両側に少しすすけた桃色のような小さな玉のついた愛らしい紐。こういった乙女のようなところはずっと見続けてこなければ想像もつかないのだろうなとそっと指で触れ、部屋を出た。
2
聞き覚えのある細かい爆発音が聞こえて何だったかなと外を見ると、機械を積んだトラックに息子と懐かしいじいさんがいた。ああ、ポン菓子屋かと私は部屋を出て二人のいる所まで行った。息子が米を持って出た入れ物を両手で握って目を輝かせている。家から出てきた私に気がついたじいさんが笑顔のままこちらに手を上げた。
「圭坊〈けいぼう〉、元気にしてたか」
かつて大人たちから圭坊と呼ばれていたが今はそう呼ぶ人はとても少なくなった。亡くなったり土地を離れたり理由はいろいろだ。何年か体調を悪くしていて休業していたが再開したらしい。この先は死ぬまで休まんぞと掠れた声で大きく笑うじいさんを見ると元気が出た。
「お、相変わらず俺のこと好きだな」
とじいさんは親指と人指し指を開いて人指し指の横を顎にあてた。私は驚いて言葉を詰まらせていると、おこしが出来て息子と私に袋に入れて渡した。私が何が起こっているのかわからないまま狼狽していると、じいさんが
「この坊がお前がこれを好きだからって二人分の米を持ってきたんだよ」
息子を見るとすでに食べ始めていて、好みだったのか目だけではなく全身が喜びで輝いていた。
「これが父さんの大好きなポン菓子」
それを聞いてじいさんが笑った。
「坊は圭坊のことをよく見てるんだな。あれだろ。こいつのことだからたまに話しかけてきたと思ったらたいていおこしの話をしてたんだろ」
息子はポン菓子を頬張りながらうなずいた。
「圭坊が好きなポン菓子は俺が作るものでないといかんからな。長生きしないとなあ」
口を両手で包んでぷっと吹き出すような照れ笑いをする。何年も会うことがなかったのになぜ今もつい昨日のことのように私のことを話せるのだろうと不思議に思っていると息子がじいさんの代わりに
「父さんわかりやすいからね」
と嬉しそうにした。
この二人はさっきから何を言っているのだろう。じいさんだけならまだしも息子まで。ほとんど無表情のようなもので声にも抑揚がないつまらない人間と言われ続けた私に、そんな風に思い意気投合している馴染みのじいさんと私の息子。
「何かの洒落か?」
どう聞いたら良いものかわからなくて妙な言い方になる。それに二人は顔を見合わせて愉快そうに笑った。
「普段の自分を自ら見ることは出来ないからなあ」
じいさんが言うと息子はそうそうと相づちを打つ。家の中からさらに加勢するように時計が鳴った。じいさんは時計の音を聞いて、もうそんな時間かと車に乗った。またなと手を上げて去って行ったじいさんの行った道を見ながら私はやっとポン菓子に手をつけた。やはり旨かった。
3
子供の頃に同級生から何も表情のないところが呪いの人形のようで恐いと言われた。帰りの道でどうしたら良いのかもどうにかなるのかもわからないまま地面を見つめて歩いていた。空を見なくても砂利道に転げる光の粒で空の晴れ具合はわかった。磨かなくても光が跳ねるような美しい石があの頃にはよくあった。それを探しながら歩くと悲しい気持ちが紛れるような気がしていた。向かいからゆっくり近づく車の音がして少し顔を向けると小型のトラックが見えたので端によった。そのトラックは通りすぎた後に止まった。
「おい、坊やどうした」
振り向くと運転手が窓から手と頭を出して私を見ていた。やけに心配そうな顔をしていた。
「喧嘩でもしたのか」
そう言って車からおりてきたじいさんは首から掛けているのとは別のタオルを出してきて私の顔を拭った。見えていた石だけが光っていたわけではなく、溢れる涙も石を光らせていたのだ。
じいさんはしばらく困ったようにしながら話しかけてきたが私は何も言わずにうつむくばかりだった。すると
「そうだ、うちのポン菓子を食べないか。さっき休むのに作っていたんだ」
と車の中から袋に入れた白いものを出してきた。
「米で作ったお菓子なんだ」
うつむいたままの私の目に入るところに出されたそれは、香ばしいにおいとひとつひとつにやわらかい光があった。今思うと泣き腫らして鼻水で鼻がきかなくなっていただろうに、何らかの気持ちがにおいを届けてくれたのだろう。袋に手を入れて頬ばった私はこんなに幸せをくれる食べ物があったのかと顔が緩んだのを感じた。
「可愛い笑い方をするなあ」
そう言われて僕は顔を上げてそのまま固まっていた。そんな私の様子が不思議だったのか「どうした」と聞かれたので私はこれまでずっと表情がない者と言われ続けてきたことを話した。じいさんはそれを聞いて
「それで泣いてたのか。大丈夫だ。坊やはちょっと一緒にいただけの俺にもわかるくらい、ちゃんと気持ちが顔に現れているよ」
と微笑んでくれた。
それから私はじいさんの車がいつ通ってもいいようにいつも米を袋に入れて持ち歩くようになった。じいさんと喋りながらポン菓子が出来上がるのを待っている時間が好きだった。じいさんはいつの間にか私のことを「圭坊」と呼ぶようになっていた。私が頬ばっている間嬉しそうに笑ってくれるじいさんが好きだった。
何かの折りに通りかかった店でポン菓子が紙袋に入って売っているのを見かけた。何日かじいさんの車に会わなかったのでこれを食べようと買ってみる。仏頂面のばあさんが値段だけ言ってそれをこちらに渡した。何だかその時に違う感覚を覚えたのだが紙袋を開けて食べてはっきり思った。これは私が食べたかったものではないと。私はじいさんが作ってくれるポン菓子を食べるのが好きだったのだ。そう気づいて涙が出た。
それから数日後にじいさんの車が通った。どうやら体調を崩して寝込んでいたらしい。私は先日のことを話して泣きながらじいさんの腕をつかんでいた。じいさんはしゃがんで私の顔を見た。そして嬉しそうに笑う。泣いたままなのにじいさんのその表情を見ると自分の感情が動いていくのを感じた。じいさんは私がつかんでいるのとは違う方の手で私の頭を撫でて
「やっぱり圭坊のはにかんだ笑顔は可愛いなあ」
とさっきよりもずっと頬をゆるませている。
「圭坊はきっと大人になっても可愛いんだろうなあ。長生きしないと」
その時じいさんは、私がじいさんにとって生きていく希望だと思ったように感じた。
4
いつものように本を取りに行った時、ふと机の上に置いてある息子のノートが気になった。同じように読んだ本の題名をつけているのだろうとは思っていたが、どの本を好んで読んでいるのか知りたくなった。悪いかなと思いつつもノートを開いてみる。パラパラとめくっていく内に妙なことに気づいて私は自分の書いているノートと見比べた。すると息子は私が前の週に読んだ本を次の週に読んでいたことがわかった。傍で私の読む様子を見ていたから読みたくなったのだろうかとさらに開くと途中から息子のノートの一度に書かれる文字が増えていた。そこには私が何かを喜んだり怒りを感じていたりしたところの予想が書き込まれていた。私の読んでいる姿を本当にずっと見ていたのだ。そして読んでいたものと私から見てとれる感情を照らし合わせてあいつはじいさんに私のことを「わかりやすい」と言っていたのだ。
その時、戸が開いて息子が入ってきた。そして私の姿を見て
「なかなか出てこないと思ったら僕のノートを見てたのか」
と笑った。私は動揺して動けずにいたのだが
「大丈夫だよ。見られてまずいものをわざわざ父さんの部屋に置いたりしないから」
と言われて緊張は解けた。そういえばここはもともと私の部屋で、本が増えすぎたために私自身が普段過ごす部屋を移動させたのだった。息子はしばらく笑った後、こんなにわかりやすいのにどうして母さんには父さんの気持ちも愛情も伝わらないんだろうと寂しそうに呟いた。私は夫婦として長く続けるには相性が悪かったのだろうと言うしかなかった。
「だったらどうして離婚しないの。このままじゃ父さんも母さんも前に進めないじゃないか」
息子がそう言った時、開いたままの部屋の戸を叩く音がした。そちらを見ると妻が立っていた。連絡なしに来ることなんて近頃ではなかったので急な不安に襲われる。しばらく見つめ合っていると妻の顔が腫れたように赤いことに気づいた。私の体はその瞬間に床に崩れ落ちた。その状況がわからない息子は私と妻を何度も見る。
「もう父は来られないわ」
ある程度覚悟はしていたことだった。何年も仕事が出来ない程に弱っていた体で突然現れたこと。作業着の中から見えた骨と皮だけのような腕。私が出会った頃にはじいさんはすでに病魔と戦っていた。自分の娘はしっかりとした性格だったから何の心配もなかったが、私に出会ってまだ生きなければならないとがんばってきてくれたのだ。手のかかる可愛い我が子。そうに感じたらしい。そして実際に私はじいさんの子になった。じいさんの娘と結婚したことで。
「…じいさん」
溢れる涙で何も見えなくなる。息子が妻に事情を聞いている声だけが聞こえていた。
「あの人は僕のおじいちゃんだったの?」
息子にはずっと父親は人と会える状態ではないからと妻自身が言い続けて会わせなかった。私にとっては義父というより大好きなポン菓子屋のじいさんだったから話していたのはそのことばかりだった。妻は私の前に膝をついて、同じく泣く私の頭を撫でた。
「最期に何としても圭坊に会いに行くって最後の力を振り絞ったのよ。喜んでいたわ。孫があなたのことをちゃんとわかってくれる子で良かったって」
床についていた手を上げて袖で涙を拭き、私は妻を見た。ほんのり笑うような仕草を見せてから私と後ろにいる息子に
「別れないのは私にまだ愛情はあるからよ」
と言った。
「ずっとしっかりしていないといけないと思い詰めていた私を泣かせてくれたこの人と別れられるわけがない」
自分の父親がいつ死んでもおかしくない病気だと知っていた妻は、しっかりしないと生きていけない。父親に後悔させてはいけないと必死に毎日を過ごしていた。一緒にじいさんのポン菓子を食べたりするうちに妻の強さが本当は弱い故なのだと気づいたのだ。
「あなたと一緒に暮らしていたら病気と闘い続けている父さんを弱らせてしまうと思ったのよ。私が強いままでいないと後悔させてしまう」
そう言って立ち上がろうとした妻の腕をつかんで私は抱きしめた。
妻は声にならない涙の悲鳴をあげた。