第八話 ガラスの靴との未来を願う
「“王子”に、遠慮してたんですか?」
屋上に上がってすぐ、夏の爽やかな風を感じながら、私はそう問いかけた。
大路くんに向けて放った先輩の言葉が、少し引っかかったから。
「うーん……遠慮というか。僕は所詮脇役……いや、小道具だったからさ。主役とは違うと思ってた。一線を引いてたとも言うかな」
先輩は風で乱れた髪を直しながら、苦笑する。
それはさっきも見た、どこか弱々しい自嘲気味の微笑みだった。
「あなたがまぶしかった。“シンデレラ”だったあなたは、今もとても輝いていて、これが主役ってことなんだろうって思ってた。でも……違ったんだ」
伸びてきた手を、避けようとはなぜか思わなかった。
先輩の大きな手は、私の小さな手をすくい取る。
いつだったか手の甲にキスを落とされたときよりも、ずっとドキドキした。
「主役だからじゃなくて、真帆ちゃん自身がまぶしかった。俺にとって、真帆ちゃんが特別だったから」
「それは、私がシンデレラだから――」
なんじゃないんですか? と、続けることはできなかった。
ぎゅっと握られた手が、答えだった。
「違うんだ、違うんだよ真帆ちゃん。俺の話を聞いて」
先輩は痛いくらいの力で私の手を握っている。
加減ができないほど必死なのだと、それだけで伝わってくる。
「分を、わきまえないとって、思ってたんだ」
涙が口からこぼれ落ちたかのような、そんな声だった。
心を覗き込まれたかと思った。
それは、さっき私が考えていたことと同じだった。
「前世の記憶を思い出して、二年の間、シンデレラを待ち望んでた。幸せにしたいとかそんなのは後づけで、ただの小道具だった俺が、人として生まれ変わった理由が欲しかった。それを、“シンデレラ”に求めてた」
その気持ちは、わかるような気がする。
なぜこんな前世の記憶があるのか、どんな理由が、意味があるのか。
私との出会いを意味だと言ってくれた先輩に、救われたような気持ちになったことを覚えている。
きっと私も、生まれ変わった理由を求めていたんだろう。
「あなたと目が合った瞬間、本当に衝撃だった。あなたのために俺はここにいるんだって、歓喜が湧き上がった。あなたのためなら俺はなんでもできる。本気でそう思ったよ」
あの、入学式の日。
私を見上げた瞳がだんだんと輝きを増していったのを、覚えている。
闇の中に差し込む希望の光を目の当たりにしたかのように。
それだけ先輩は、心の底から、“シンデレラ”を求め続けていた。
「先輩は、前世に囚われすぎです……」
「そうかもしれない。でも、聞いて。ガラスの靴に、心はなかったんだ」
それは初めて聞く話だ。
前に聞いたときはあいまいにごまかされていたのだと、今になって知る。
「シンデレラを待ち望んだのも、あなたに見惚れたのも、あなたを幸せにしたいと思ったのも、全部、俺の……俺だけの気持ちだよ。そこには欠片も嘘なんてない」
「そんなの、詭弁です! 先輩の前世がガラスの靴じゃなかったら、私なんてきっと見向きもされなかったのに……」
「だって、俺の前世はガラスの靴で、あなたの前世はシンデレラ。それは動かしようのない事実じゃないか」
それはそう、だけれど。
納得できない複雑なこの思いを、もしかしたら乙女心とでも呼ぶのだろうか。
「お願い、俺を拒絶しないで。俺はあなたなしでは歩けない……」
先輩はそう言いながら、私に両手を伸ばして。
抱きしめてこようとする先輩に、私は。
「いっ……!!」
向こう脛を思いっきり蹴って、その手から逃れた。
「踏んでとは言ったけど、蹴ってとは言ってない……」
「どっちも同じようなものでしょ! 先輩のあほんだら!」
うずくまる先輩は本当に痛そうだけれど、フツフツと込み上げる怒りのままに私は怒鳴った。
あなたなしでは歩けない、なんて。
今さら、何を言っているんだ。
「足と手があるって言ったのは先輩ですよ。私に依存なんてしないでください。迷惑です」
「まほちゃん……」
「そんな情けない顔しないでください。いじめてるみたいじゃないですか」
涙目で見上げてくる先輩は、やっぱり子犬のように庇護欲をそそる。
でも、私は彼の飼い主ではない。
私がいなければ生きていけないような人になってほしいわけじゃない。
今の先輩は、ひとりの人間なんだから。
「私は、先輩に固執されたいわけでも依存されたいわけでもないです。先輩と、恋をしたいんです」
私に履かれるんじゃなく、先輩の足で私と歩んでほしい。
私に縋るんじゃなく、先輩の手で私とつながってほしい。
前世なんて関係なく、先輩の心で、私を選んでほしい。
「俺で、いいの……?」
ゆっくりと立ち上がった先輩は、かすかに震える声で、そう確認してきた。
先輩への恋心を認めるのは、たくさんの勇気が必要だった。
前世ならいざしらず、今の私は本当に普通の女の子だ。
先輩にふさわしいのかと考えたところで、満足の行く答えなんて出ない。
それでも。
私の心が彼を求めていて、彼の心が私を求めてくれるなら。
こくん、と私はうなずいた。
先輩の顔が、くしゃりと泣き出す一歩手前のように歪んだ。
「俺は……ただ、あなたの王子様になりたかっただけかもしれない」
「こんなヘタレ王子なんていりません」
「真帆ちゃんひどい……」
上げて落としたようになってしまったらしく、先輩は打ちひしがれる。
素直になろう、と思っていたはずなのに、なかなかうまくはいかないものだ。
「いいですよ、もう、ガラスの靴で。ガラスの靴だった先輩が……好きなので」
「真帆ちゃん……!」
感極まったように抱きついてくる先輩から、今度は逃げなかった。
先輩はまだガラスの靴気分から抜けていないかもしれないけれど、今の先輩も私を好きでいてくれているなら、とりあえずはそれでいい。
少しずつ、少しずつ。
シンデレラじゃない私を知って、好きになってくれれば。
これが、先に惚れたほうが負け、ということなのかな、なんて。
先輩のぬくもりに包まれながら、ちょっと笑ってしまったりした。