第六話 シンデレラの幸福を願い
合唱部の活動は、コンクール前以外はいつも最終下校時間前に終わる。
いつもは部活が終わるとすぐ、先輩から逃げるように帰るのだけれど、その日はなぜか後ろ髪を引かれてしまった。
ポン、ポン、ポンと鍵盤を叩く。グランドピアノは素直に音を返してくれる。
まだ弾きたいと、心の底から湧き出てきた欲求を抑えきれず、私は部長に頼んで少し居残りさせてもらうことにした。
鍵の管理だけしっかりしてくれればあとは好きにしていいと言ってくれた部長に感謝しながら、ピアノと戯れる。
指が動くままに何曲か引いていると、ピアノの音に紛れて人の足音が聞こえてきた。
ガラリ、と音楽室の扉を開いたのは。
「……先輩」
烏野先輩は、いつも通りの笑みを浮かべてそこにいた。
今日は部活が早く終わったんだろうか。時計を見ても、まだ最終下校時間にはなっていなかった。
「ピアノの音が聞こえてさ。真帆ちゃんの音だなって思って」
「わかるんですか?」
たしかに演奏者の癖というものは出るけれど、先輩は癖がわかるほど私の演奏を聞いていないはずだ。
首をかしげる私に、先輩はイタズラがバレた子どものような顔をする。
「うーん、半分は嘘。吹奏楽部は今日お休みだし、先生じゃないとしたら合唱部の伴奏者くらいかなって予想は簡単についた。でも、真帆ちゃんみたいって思ったのは本当」
「……それは、私はどういう反応をすればいいんですか」
「自惚れてくれたらいいのに。音色でわかるくらい好かれてるんだって」
「……」
きれいに微笑みながら口説き文句のようなことを言う先輩に、何も言葉が思い浮かばなくて、私は無言で鍵盤を叩いた。
たどたどしい音と音が、やがてつながって、ひとつのメロディーになる。
ピアノを弾くときだけは、無心になれる。ただ、その場に響く音だけに集中していられる。
前世との折り合いのつけ方も、先輩との微妙な関係も。
最近の自分の気持ちの変化への、戸惑いも。
今だけは、考えないことを自分に許してあげられる。
演奏を終えると、パチパチパチと力強い拍手がその場に響き渡った。
息をつきつつ顔をあげると、先輩が満面の笑みで迎えてくれた。
「わ~、すごかった! 難しいことはわからないけど、聴き入っちゃったよ。その曲、中学の英語で聞いた気がする」
「有名な曲ですから」
昔を懐かしく思いながらも、今を一生懸命生きている曲だ。
寂しげな曲調なのに、どこかやわらかく、前を向いているようにも聞こえる。
中学生のときに覚えた曲だけれど、最近よく弾きたくなるのは、前世のことが少なからず関係しているだろう。
「ピアノを弾いてる真帆ちゃん、すごい楽しそうだった。ピアノが好きなんだね」
「私の唯一の取り柄なんで」
五歳のときからピアノを習い始めて、高校受験のときにやめてしまったけれどピアノ自体は変わらず好きだった。
伴奏者募集という張り紙に目を引かれて、迷わず合唱部を訪ねるほどに。
残念ながら私には、天性の才能も、血のにじむ努力を続けられるだけの根性もなかったけれど。
それでもピアノは私から切っても切り離せないもので、きっと一生好きでいると思う。
「唯一じゃないよ。大丈夫、真帆ちゃんはとってもすてきな女の子だよ」
にっこり、と先輩は明るい笑顔で言ってのける。
挨拶のように繰り返される褒め言葉を、はいはいと聞き流せなくなったのはいつからだろう。
クレッシェンドする胸の鼓動から、私は懸命に意識をそらす。
「……先輩に言われても説得力ないです」
「失礼な。あなたの長所を見つけるのが俺以上にうまい奴なんていないよ」
「それ、欲目って言うんですよ」
「信用ないなぁ……」
先輩はふてくされたように唇を尖らせる。
初対面で第一声が「踏んでください」だった先輩を、どう信用すればいいというんだろう。
……信用、できたら。
何かが、変わるのかもしれないけれど。
「先輩は、どうしてそんなに私に踏ん……履いてほしいんですか」
鍵盤に視線を落としたまま、私は問いかける。
今まで何度も思い浮かびながら、答えを知るのが怖くて聞けずにいた。
でも、もう今のままの関係を続けてはいられないことも、薄々気づいている。
いい機会だから、ちゃんと聞きたいと思った。
「それはもちろん、俺の前世がガラスの靴だからだけど」
決まりきったことを言うように、その声には迷いがなかった。
きっと、今さら何をというような、きょとんとした顔をしているんだろう。
ただ、その答えでは私は納得できない。
「私は新田真帆です。家族にいじめられてなんていないし、舞踏会に出ることもないし、王子様に見初められたいとも思ってません。今の私に、ガラスの靴は必要ありません」
私はひとつひとつ、前世と今の違いをすくい上げては先輩の目の前に並べていく。
先輩は、本当にわかってますか?
そう、尋ねるように。
「魔女が……いないから、かな」
しばらく考えてから、先輩はポツリとそう口にした。
「ねえ真帆ちゃん。王子様ってなんだろうね」
その言葉は、きっと答えを必要としてのものではなかった。
先輩は何か大切な話をしようとしているのかもしれない。
怖気づきそうになる心を落ち着かせるために、私は音を抑えながらゆっくりと演奏を始める。
昨日をもう一度。そう言いながら今日を生きる曲を。
「俺はなぜか、こんなキラキラした容姿をしてるからか、王子様だとかよく言われるんだけど。俺の前世はガラスの靴で、シンデレラの足元を飾るただの衣装のひとつだった」
先輩の声はピアノの音に溶け込むことなく、私の鼓膜を揺らす。
「そんな俺でも、王子様って呼んでくれる人がいるんだよ。恋する女の子にとって、相手はみんな王子なんだ」
ふふっと、吐息のような笑い声を私の耳は拾う。
ざわりと心が逆立ったのは、いったいなぜなのか。
考えないようにしているけれど、きっともう私はその答えを知ってしまっている。
「だから俺は、あなたがあなたの王子様を見つけるのを楽しみにしてる」
その声は、ピアノの音よりもやわらかく、きれいに響いた。
とても……残酷に。
「“ガラスの靴”は、“シンデレラ”に履かれてこそ真価を発揮する。シンデレラを幸福に導く役目を担ってる。それって、とても素敵なことだと思うんだ」
心からそう思っているように、声は弾んでいた。
ふるふると、指先が震えるのを感じる。
何度も弾いている曲なのに、音を間違えるという初歩的なミスをしてしまうほどに、衝撃を受けている自分がいた。
「あなたは誰とダンスを踊るのかな。誰があなたを迎えに来るんだろう」
先輩の語りは止まらない。
ずっと聞いていたいと思う声を、今は一音も耳に入れたくないと思った。
「俺はその手助けをするのが、楽しみで仕方ないんだ」
もう、私はこれ以上演奏を続けてはいられなかった。
ピアノをいじめたくはないから、腹いせに大きな音を立てることもできず、もやもやが心の内側で渦を巻く。
私はピアノ椅子から腰を上げ、先輩のほうは見ないで脇に置いておいたカバンを持ち上げた。
グランドピアノの上に置いておいた鍵をむんずと掴んで、怒りだか悲しみだかわからない思いを吐き出すように息をつく。
「先輩は……ひどい人です」
本当に、いつからだろう。
アホみたいなことを言いながら追いかけてくる先輩に、だんだんとほだされていって。
どんな理由からだとしても、私を特別扱いしてくれるのがうれしくて。
その目が、“シンデレラ”じゃなく、私を映してくれたらいいのに、なんて過ぎた願いを持つようになったのは。
気づかないふりをしていたかった。
でも、もう無理だって気づいてしまった。
「私には、ひと目で落ちる恋なんて、いらない」
王子なんていらない。運命的な恋なんていらない。
私は……私が、望んでいるのは――。
キッと先輩を睨みつけると、彼は不思議そうに目を瞬かせた。
何が、俺にとってのシンデレラが真帆ちゃんだった、だ。
何が、意味なんてそれで充分、だ。
結局……結局、先輩が大事なのは、最初から最後まで、“シンデレラ”だったんじゃないか。
「そんなの、クソ食らえです」
込み上げてきた涙は、意地でも流さなかった。
先輩の背中を押して音楽室を出て、鍵をしめたらそのまま職員室に向かう。
後ろで先輩が何か言っていたけれど、聞く耳なんて持たなかった。
今は先輩の声を聞くだけで、腸が煮えくり返りそうになる。
昨日をもう一度。本来ひと握りの希望を持って歌われるその曲を、嫌いになってしまいそうだった。
先輩は、昨日を生きている。
私は……私の昨日を、ぶち壊したくなった。