第四話 ガラスの靴に戸惑う
戦争になるのは何も昼休みだけじゃない。
「まーほちゃん、一緒に帰ろ」
「……先輩、早すぎませんか?」
「だって、一週間に一回のチャンスなんだから、何がなんでも一緒に帰りたくって」
かわいらしく首をかしげて、やわらかな笑みを浮かべる先輩に、私は今日も敗北のため息をつく。
私の合唱部と先輩のテニス部の休みが被るのは週に一回、水曜日だけ。
合唱部は基本的にテニス部より早く練習を終えるから、水曜日さえ逃げ切れれば放課後は平穏そのものなんだけれど……。
なぜか、私が帰り支度を終える前に、こうやって先輩がやってくることが多い。三年の教室とはそれなりに距離があるはずなのに、本当になぜだろうか。
「お断りしたらどうしますか?」
「え、土下座する?」
「……帰ります」
せめてもの抵抗をしてみても、たった一言で封じられてしまった。
土下座事件のときに私がいつになく動揺したことで、どうやら先輩は味をしめてしまったようだ。
先輩の思いどおりに進むのは癪だけれど、やるといったら本当にやりそうな気がするから、おとなしく言うことを聞くしかない。
それでも繋いでこようとする手だけはなんとか避けて、私たちは帰路につく。
私が徒歩通学、先輩がバス通学なので、私の家の近くのバス停までがいつものコースだ。
「それにしても、ひとつ不思議なんですけど。なんで私たちの記憶って、日本でよく聞くバージョンのおとぎ話なんでしょう」
学校から出てしばらく、私はあまり大声では話せない話題を口にした。周りに同じ学校の生徒がいないことは確認済みだ。
シンデレラといえば誰もが知っているおとぎ話だけれど、実はシンデレラの類似作品はこの世に山のように存在している。というのは、記憶を思い出してから調べて知った事実だ。
有名どころだとグリム童話とペロー童話。日本でよく見る絵本なんかは、ペロー童話を元にしていることが多い。
アンデルセンの創作童話と違って、ペローやグリム兄弟は民間伝承を元にして童話集としている。ペローは物語らしい脚色が多めで、グリム兄弟は脚色が少ないからこそ残酷な描写が多い。
けれど私には、二日続けて舞踏会に行った記憶はないし、義姉が靴を履くために足を切った記憶もない。
そもそも、グリム童話ではシンデレラが履いていたのはガラスの靴ではないようだったし、大前提が違ってしまう。
「んー、それに関しては津羽が何か言ってた気がする」
「津羽先輩が?」
津羽先輩は生徒会の副会長で、『幸福な王子』のツバメの前世を持つ三年の先輩だ。
烏野先輩とは同じクラスで、前世持ち同士というつながりもあってそれなりに仲がいいらしい。
私に屋上という逃げ場所をくれたのも、先輩を叱ってくれたのも、津羽先輩。
何かと気にかけてくれる彼に、私はいつも頭の下がる思いをしている。
「俺も血みどろの足に履かれた記憶なんてなかったから、津羽に聞いてみたんだよね。そしたら、津羽は一年のときから生徒会入ってたから、もう何度もそういう質問は受けてたらしくって」
やっぱり、私にその記憶がなかったように、先輩の記憶もマイルドなほうのおとぎ話だったようだ。
少しほっとすると同時に、津羽先輩の苦労を思うと申し訳なくなる。
生徒会の仕事だけでも大変だろうに、前世持ちをまとめて面倒見ないといけないなんて、どれだけ大変なことだろう。
そんな中で烏野先輩のせいで迷惑をかけてしまっているんだから、今度菓子折りでも送るべきだろうか。
「俺たちの前世っていうのは、この世界の人々の思念や願いなんかで作られていた世界なんじゃないかって話だ。あくまで推測でしかないけど、生徒会役員になった前世持ちはその仮定を語り継いでるらしい」
「なるほど……」
どこかのSF小説で見たことがあるような設定だ。
ファンタジーな世界の記憶を持っているものの、十五年間を現実主義者として暮らしてきた私にはあまりピンと来ない。
「そもそもみんなが同じ学校に集まってくるのだっておかしな話だしね。もしかしたら学校自体が、何か不思議な“場”になってるのかもしれない、とも言ってたかな」
「おとぎ話の住人が自然と引き寄せられる“場”ですか……」
「そうそう。まあ俺は人じゃないけど」
冗談みたいにそうつけ足した先輩に、思わず視線を向けた。
先輩はいつも通り、上機嫌に笑っている。
「……先輩の記憶ってどうなってるんですか?」
おそるおそる、私は気になっていたことを尋ねてみた。
私にはシンデレラとしての記憶があるけれど、先輩の前世はガラスの靴……つまり、無機物だ。
ガラスの靴にも意思があったなら、少し怖いし、それ以上に後ろめたい。
何しろそれをずっと足蹴にしていたんだから。
先輩は、うーんと首をひねって、それからへらりと笑った。
「なんて言えばいいのかな。ああ俺の前世はガラスの靴だったんだ、ってこの学園に来てふと気づいたんだよ。きっかけになったのは一年先輩のかぼちゃの馬車だったかな」
「かぼちゃの馬車もいたんですね……」
「先輩は先輩で、二年先輩のネズミの御者を見て思い出したらしいよ。まるで伝言ゲームみたいだね」
ふふふ、と先輩は何がおもしろいのか笑顔を崩さない。
無機物だった記憶なんて、普通に考えたら複雑だろうと思うのに、彼の語り口には少しも影がない。
「舞踏会も王子に拾われたのもシンデレラとの再会も思い出したけど、前世の俺が何を考えていたのか、そもそも何かを考えていたのかも、俺にはわからない。ただ、今の俺は思ったんだ。シンデレラに会いたいって」
先輩の、黒よりも色素の薄い瞳が、私を映す。
銀の髪といい、灰色がかった瞳といい、本当に彼はそのままでおとぎの世界の住人のようだ。
ハーフという話は聞いていたけれど、みんなが王子様だと騒ぐのも無理はないと思える容姿をしている。私だって彼とこんな関わり方をしなければ、無邪気に憧れを抱いていたかもしれない。
「二年間、ずっと待ってた。この学校なら会えるって信じてたんだけど、さすがに何もなく二年が過ぎると不安になったよ。もうシンデレラはとっくに卒業してるんじゃないかとか、もしくはまだ小学生とかなんじゃないかって」
先輩の笑みが、少しだけ寂しげなものに変わった。
そんなわずかな違いに気づいてしまったことに、私は内心戸惑いを隠せなかった。
「入学式の日、俺は期待と不安を同時に抱えてた。今年、シンデレラが現れなかったらどうしようって。卒業してもあきらめるつもりはなかったけど、どうしても在学中よりは自由が利かないから」
手が、伸びてきた。
今度は避けなかった。避け、られなかった。
「じっとしていられなくて、でも積極的に探すのも怖かった。早めに学校に行って、ただ門の前で待ってたのに、途中から緊張で頭がぐらぐらして立ってられなくなった。そんなとき、心配そうに声をかけてくれた優しい人が……あなただった」
大きな手に、私の手はすっぽりと覆い隠されてしまった。
それは小さな足を包むガラスの靴のように。
ぎゅう、と心臓を掴まれたような心地がした。
「俺は、この記憶のおかげであなたに会えたから、意味なんてそれで充分だよ」
きれいに、きれいに微笑む先輩。
灰色がかった瞳は、まるでガラスでできているようにきらめいて見えた。
私との出会いを、意味だと、そう言ってくれるのなら。
私のこの記憶にも、意味があったと思ってもいいんだろうか。
なんて、殊勝な気持ちは、一瞬で消え失せて。
「だから踏んでください」とのたまった先輩に、手を振り払って一人で帰った私は、何も悪くないと思います。




