第32話 七大罪 憤怒
視界が紅い。
怒りで視界が紅くなるなんて、比喩的表現の最たるものだと思っていた。
「俺」は何でこんなに怒り狂ってるんだろうな。
怒りという感情は、そう疎遠なものではないと思っていた。
仕事で怒り、プライベートで怒り、怒る機会はあふれかえっていたからだ。
それでも現代日本で生きていた俺にとって、基本「怒りの感情」は隠すものであった。
内心どう思っていても、仕事では愛想笑いをし、プライベートでも内心舌打ちをしながら、自分勝手に感じる他人に怒りを表すことなんかない。
怒りを遠慮なく表に出せるのは、せいぜい某掲示板での煽りあいくらいか。
いい年した大人が、顔とID真っ赤にして書き込みあうという、傍目から見たら滑稽な、救いのないもの。
いやあれは、お互い楽しんでると言った方が正しいか。
今思えばそれらは「怒り」のつもりであっても、不平不満に毛が生えた程度でしかなかったんだろう。
相手だけでなく、自分にもある程度の非がある事を、心の底では認めている。
思えば本気で怒れるっていうのは凄い事だ。
それが思い込みでも勘違いでも、心の底から自分が正しくて、相手が悪いと確信出来ていなければ、本当の意味で怒る事なんか出来はしない。
仕事で真剣に怒っている若手を見て、「こいつ仕事に真摯なんだなあ」と感心していた記憶がある。
俺も若い頃はそうやって怒ってたなあ、とか思いながら。
でも違ったな。
「怒り」ってそんなもんじゃない。
大声で喚き散らすことでも、真剣に相手を非難し、あるべき理想を語る事でもない。
少なくとも俺にとって、それは「怒り」じゃない。
理屈抜きで、それを感じた相手を叩き伏せる事。
「対象の完全な否定」
俺にとっては、それを引き起こす感情こそが「怒り」だと理解した。
一人以外はレベル差が30以上あるから俺の攻撃は通らない?
一撃喰らったら死ぬくらいのレベル差?
だからどうした。
それで怒り方変えるなら、それはもう怒りじゃない。
そうだよ、所詮ゲームのキャラクターだ。
十年以上愛情注いで育ててる、なんて言ってみたところで、普通の人からしたら気持ち悪いと思う方が正常だろう。
見た目や、レベルとそれがもたらすステータス、戦闘スタイルにしたってゲームシステムの枠からはみ出すこともない。
「F.D.O」が、「スキルカスタマイズ」「スキルコネクト」というシステムでどれだけ「俺の考えた最強技」「俺の考えた最強職」を実現したように見えても、結局はゲームシステム内の組み合わせに過ぎない。
絶世の美男美女も、逆にどんな醜い容姿にしたところで、正確なパラメーターを他人が真似れば再現可能なものだ。
でもそういうこっちゃないだろう。
そうやって作り上げたもう一人の自分、もしくは理想の存在とともに、F.D.Oの世界を、十年間という時間、供にやってきたのがプレイヤーキャラクターというものだ。
仕事で大失敗してしまった時。
プライベートで辛いことがあった時。
何にもやることねえや、と乾いた笑いをもらした休日。
なんだかんだ言いながら、パソコンの電源入れて「F.D.O」にログインした日々。
そうやって少しずつ出来上がった分身こそが、「俺のプレイヤーキャラクター」なんだ。
それを「プレイヤー」無きまま、傀儡のように扱いやがった。
所詮他人のプレイヤーキャラクターじゃないか、関係ないだろうって思わないわけでもない。
夜とクレアが何より大事って言ってたんじゃないのか、ここは逃げろよと。
でも理屈を「怒り」が塗り潰す。
現実となった世界で生きている人の方が、プレイヤーの居なくなってしまったキャラクターより大事だなんて、クソ喰らえだ。
それを言うならお前ら全員ただのNPCでしかない。
俺が気にくわないから、必ず潰す。
それでいい。
少なくとも攻撃が通る凜さんだけでも必ず倒す。
レベル41の俺なら、レベル70の凜さんに攻撃は通る。
凜さん倒してレベルアップしてから残りの二人だ。
ゲームである「F.D.O」時代に、対人戦による経験値の取得はなかったが、現実となった今ならあるかもしれない。
それに賭けるしかない。
「怒り」が極まれば、もっと頭の中真っ白になるかと思ったけど逆だな。
「対象の完全な否定」に必要なことが、加速されたような思考の中で冷静に抽出されていく。
必要な思考以外の雑念は、もっと「怒り」で塗り潰せ。
そうしなければ、レベル29差狩りなんて成功するはずがない。
「瞬脚」の高速移動でまず真ん中の位置にいる凜さんに向かう。
ここから先は常時高速スキル発動状態を維持して、思考もブーストしておく必要がある。
レベル差29のスキル発動速度なんか、通常モードで見切れるはずもない。
あと絶対に止まらないことを心がける。
幸い、暗殺者である「エルノア」と忍である「イングウェイ」とは結構距離が離れている。
合流されるまでに、侍である凜さんをなんとかするしかない。
与えられる時間は、極僅かだと見た方がいい。
凜さんを目視できた時点で「瞬脚」を連続発動して側面から背後に回り込む。
抜刀してない高レベルの「侍」ジョブを相手にして、正面から突っ込むのは自殺行為だ。
レベルが互角以上のクレアであればまだしも、ダメージディーラーである「術式格闘士」の俺では、たとえレベルが互角でも居合系のスキルをまともに喰らえば、下手すりゃ一撃で致命傷になりかねない。
まだ構えもとっていない凜さんの背後から、現状の最強技である「累瞬撃・雷」を最大ロックで発動する。
通常の連撃では、強力なスキルで割り込まれればそれが致命傷となる。
「スキルコネクト」で成立した上位スキルである「累瞬撃・雷」の特性、「連撃中は割り込まれない」ことを利用して、少しずつでもダメーシを与える。
身体は凜さんのものだとしても、操っているのは凜さん本人そのものではない。
自動的に動いているのか、シンや夜、クレアのような「こっちの人格」が動かしているのかは定かではないが、プレイヤーとして、あの冗談のような反応速度と、読みはないはずだ。
「シン」の方が「俺」より体を操作するのに長けているという事実はあるが、起動したときの様子からすればその人格が完全に機能しているとも思えない。
最大打撃数89にまでなった「累瞬撃・雷」をどこで切って、回避するかまでは読み切れまい。
とはいえ後ろを向かない凜さんの身体が不気味だ。
完全に読まれてて、振り向きざまの居合系叩き込まれればそこで終わる。
ままよ!
どうあれ先手先手を仕掛けていかなければ勝てるものではない。
攻撃が通るとはいえ、こんな戦いをよく好んでやってたもんだ、凜さんも。
懐に飛び込み、最初の一撃が凜さんの華奢に見える腰に炸裂する。
立ち上がったままの「神の目」が見せる凜さんのHPバーは何かの冗談のようにほとんど減らない。
レベル29の差は、ここまででかいのか。
いや通るだけまだ希望はある。
もしも今、俺のレベルが40だったなら成す術が無かった。
一撃目が決まれば、打ち切るまで割り込まれることはない。
どこで「瞬脚」によるキャンセルを差し込み、どの方向へ回避するかが重要だ。
読まれればでかい一撃入れられて終わるし、上手く距離をとっても二回目はそう簡単に懐へもぐりこむことは難しい。
相手の硬直大きい技誘って、そこで飛び込むしかない。
こういう戦いだと本来、距離を維持しつつ、遠距離攻撃で少しずつ削るのが定石だ。
近接打撃職には望むべくもないからしょうがない。
まあ最後まで打ち込んで、自分が硬直くらうのだけは問題外だ。
スキル発動で大幅に加速された思考をもってしても、「累瞬撃・雷」の発動はあっという間に終わる。
どこで、「切る」か。
そこに思考を集中した瞬間、おかしなことに気付く。
初撃を喰らうのはやむなしとしても、対人戦にある程度慣れた者であれば、割り込みを狙って連撃に向き合うし、少なくとも瞬時に防御姿勢には入る。
ほとんどダメージが通らないとはいえ、ある程度は削られるわけだし、棒立ちで喰らい続ける意味などどこにもない。
これがレベル30差があるのであれば、わざと喰らってノーダメージ、を相手に突きつけるということも考えられなくもないが。
しかも初撃で「雷属性」の攻撃であることは解るはずだ。
確率は低いとはいえ攻撃が通っている以上、状態異常が入る可能性も零ではない。
防御態勢に入らない理由は何一つないはずだ。
そしてなんか変な声出してる。
「ヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁ」
連撃入るたびに確かに変な声でてる。
なにこれ、どういうことだ。
連撃77時点で、「瞬脚」によるキャンセルをかける。
本来であれば相手の視界を斜めに抜けて、死角へ入って即「瞬脚」連動が定石だが、何か様子がおかしいので、まだ振り向かないままの凜さんの背後に大きく距離を取る。
『あぁあああぁあぁああああああ、痛い痛い痛い痛い、攻撃が通らないはずではなかったのかあああああああぁあぁぁあぁぁ』
痛いのか。
当たり前だ。
HPに対する削りは極僅かであっても、攻撃が通っている以上、痛覚へは正確に打撃に応じた情報が伝えられる。
ゲームでなら、ダメージとはHPが削られる量がすべてで、それ以上でもそれ以下でもないが、現実での戦闘となればそうはいかない。
死に至るまでのダメージはまだまだ許容範囲でも、攻撃による痛みが心を殺すこともありえる。
だからこそ「拷問」というものは成立するわけだし。
殴られれば痛いのは当たり前だ。
ああ、そういうことか。
「痛み」に全く慣れていないんだ、今凜さんと合一してるやつ。
シンの記憶がなければ「俺」も同じだろうからよくわかる。
殺すとか殺されるなんて実は現実感なくて、理解できる恐怖は痛みをもたらす暴力なんだ。
痛みに慣れていない人間は、痛みにすぐ屈する。
レベル差30以上あればそもそも攻撃が通らないから、痛みもへったくれも関係ないけど、少しでも攻撃が通れば痛みはダイレクトに通る。
慣れていないものにとって、雷撃を叩き込まれながらぶん殴られる痛みなど、耐えうるものではないのだろう。
それが致命になるかどうかは関係無いのだ。
それにこの情けない声。
凜さんを操っているのはあの馬鹿司令官で間違いない。
「false log in system 」っていう字面からして、本来のプレイヤーではない誰かを、凜さんのプレイヤーキャラクターに宿らせて使う、っていうのは思い至って然るべきだった。
その「誰か」が、あの馬鹿司令官だったわけだ。
俺が「三位一体」を通して夜やクレアを操作する感じか。
胸糞の悪さが倍増する。
傀儡の様に扱うだけでも許しがたいのに、まさか「三位一体」の様にプレイヤーキャラクターに合一する形で好きに扱うとは。
『な、なぜだあああああ。攻撃が一切通らないはずの儂の凜になせ攻撃が通る。あぁああぁぁぁ痛い痛い痛い』
レベル30差のシステムを知らなければ、凜さんのキャラクターに同化した際は、一切の攻撃が通らないものだと過信しても仕方がない。
レベル70ともなれば、プレイヤーなきこの世界で、30差以内にレベルを上げてくる存在など居はしないのだから。
だいたい誰が「儂の凜」だ。
そのプレイヤーキャラクターはほかの誰でもない凜さんのものだ。
『……即その身体から出ていかなければ、次は死ぬまで叩き込むぞ』
『ヒ、ヒィィィィィッ』
怒りを押さえて脅しの言葉を投げつける。
ビビッて叫びはするものの、さすがにそこまで馬鹿ではないようだ。
今、凜さんの身体の制御を放棄して、自分の身体に戻ったところで俺に嬲り殺されるだけだ。
痛かろうがなんであろうが、凜さんの身体に合一していることが一番安全だということくらいは理解できているようだ。
『ま、待ってくれ、降参、降参する。身の安全を保障してくれたら、この凜をやってもいい。どうだ? お、お前に、いやあなたには敵わない弱い「宿者」の抜け殻かもしれんが、見た目は見ての通り上物だし、そう簡単に手に入るものではないぞ。ど、どうだ』
俺のステータスを見る手段がないため、実は自分の方が圧倒的に強いということを理解できていない。
たとえ術式系スキルが使えなくても、一撃でも入れれば自分が勝利する事もわからず、痛みに屈して自己保身に走っている。
他と比較して一番安全な状況で、命乞いの交渉を勝手にはじめやがった。
それよりも聞き捨てならないことを今口走ったな、こいつ。
「「宿者」の抜け殻」だ?
「簡単に手に入る」だ?
自分の感情がひどく深い所に沈んでいくような錯覚を覚える。
『プレイヤ……「宿者」の身体は、物のように取引されているのか』
湧き出してくる怒りと胸糞悪さを押さえつけて、絞り出すように質問する。
『あ? ああ、数が限られておるのでそうそう取引はないが、われわれ「救世連盟」の有力者の間では極まれにある。だいたいは家宝扱いだから、家が傾いた時にやむなく手放すような形ではあるがな……』
質問の意図を理解していない司令官が、そんなことも知らないのか? という口調で説明してくれる。
「救世連盟」が治める地域では、庶民でも知っているような「常識」なのかその話は。
深い所で何かが切れた気がした。
つい今までの怒りは、「俺」だけのものだった。
今の言葉で「僕」も切れた。
「宿者の抜け殻」
もしも夜とクレアが、女神アストレイア様の封印結界で保護されていなければ、最高級の「商品」として扱われていた、という事実を示すその言葉。
夜とクレアに対する悪意にもっとも反応する「僕」は、「俺」の怒りに完全に同調する。
憤怒。
そう表現するしかない感情が、「俺」と「僕」が宿るこの身体を焼く。
殺そう。
そう思った瞬間、再び視界を埋め尽くすように「神の目」が立ち上がる。
『「Deus ex machina」発動中に「Septem peccata mortalia」の並行発動を確認』
『至聖三者PATER「シン」。七罪人ira「シン」として並行覚醒』
『コード「Satan」。能力:FILIUS「クレア」、SPIRITUS SANCTUS「夜」を除く、現存する全プレイヤーキャラクターに対する強制ログイン権限を付与されます。』
『「Scutum Fidei」一時停止。「三位一体」一時停止』
『七罪人ira「シン」の周辺に存在する、脅威可能性プレイヤーキャラクター3体を確認。強制ログインによる「群体化」を開始します』
再び赤い字で、意味不明のメッセージがものすごい速さで流れていく。
この世界に来てから初めて、「三位一体」が停止する。
今までずっと感じていた夜とクレアの感覚が消える。
それと同時に、この場で俺たちの脅威となり得た「凜」「エルノア」「イングウェイ」が糸の切れた人形のように倒れ伏せる。
何でそんなことが俺にわかる。
なんだこれ。
夜とクレアの感覚を失った代わりに、全く覚えのない感覚が俺を襲う。
憤怒に身を焼かれながらここに立つ俺は。
同時に、三ヶ所で倒れ伏す「凜」「エルノア」「イングウェイ」でもあった。
「三位一体」の時に感じる、夜とクレアの存在が確かに在りながら、そこに俺の感覚も同居しているという感じとはまるで違う。
あくまでもここに立つ俺が主でありながら、単に自分の身体があと3つあるような奇妙な感覚。
詳細な感覚はない代わりに、半自動で俺の意に応じて動く自動人形に、感覚がつながっているような。
この世界に来た直後に感じた、もし夜とクレアがこんな風だったらいやだなと思っていた、ほぼそのまま。
複垢の再現というなら、これが一番正しいのかもしれない。
いやだぞ、俺は。
誰かが一生懸命育てたプレイヤーキャラクターを勝手に使う真似なんて。
そう思った瞬間、「凜」「エルノア」「イングウェイ」の「記憶」が、まるで映像のように頭の中に再現される。
シンと合一した時とは違って、あくまでも他人の記憶を映像として見るような感覚。
それは、この世界に残され、運悪く発見されたプレイヤーキャラクターがどのように扱われているのかを、いやでも理解させられる記憶だった。
人の「悪意」を思い知らされるには、充分なほどの。




