1-7少女が思い出す祭祀の奇蹟
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過ぎ越しの祭りというのは、ザネル北辰大陸各地で、おおむね夏の二十三夜、つまり太陽がちょうど黄道中心位置にあって、しかも「真夜中」つまり「一番昼から遠い時点」で執り行われるのが通例である。この時点で、太陽は回帰線の中心位置にあり、四季がさほど明確でない北辰大陸にあっては、これを一年のケジメとして、それぞれの種族が自らの属する精霊に、その繁栄と「種の継続」を祈願するならわしになっている。
マツリそのものは失われた千年紀、つまりニマーマ紀に起源をもち、現在のそれとはかなり異なる意義を持っていたらしいが、いかんせん大断絶後、その記憶も伝統もまた失われて久しい。
また、執り行われる時点すなわち「真夜中」にしたところで、それがニザーミアの定めた暦法に従うならば、という注釈付きだ。
北辰大陸の暦はすべて、いにしえの「ナナシ同盟」の盟約に則り、ニザーミア学院府を基準として設定されるが、ニザーミアそれ自体が大陸の東、イェーガシェラ半島の突端に位置しているため、そこより西に位置する諸都市では、二十三夜は「まだ夜半を回っていない」刻限ということになる。
たとえば赤十字回廊に並ぶ諸同盟市において二十三夜は「宵の口」、大陸西端に近い双子都市ローラムに至っては「日の入り」に近い日時になってしまう。
そんな地理的事情を考慮してのことか、各地域各種族によって、マツリ自体が次第に、それぞれ、異なった意義や伝統をもつこととなったのである。
既に薄暮は、完全な漆黒の闇へと変わって久しい。時折、中空を横切る月を除けば、ひたすら空は、星々が支配する異界へと変貌を遂げている。
数日前まで、迫りくる闇の中でなお、わさわさと未練がましく草を食んでいたボルグ羊たちも、さすがに夜半を過ぎると静まったらしい。闇夜の中、目をこらせば草原のそこかしこで群れを作り、丸くなって眠りこけている。
ボルグ羊は我々とは生活リズムが違う、とラクーンは教えてくれた。昼の間はほとんど眠ることもなく、ひたすら草を食んで乳を出し、夜は薄暮の落ちる頃から暁の刻限まで、およそ十日間も丸くなって眠り続けるのだ、と。
考えてみれば、少なくとも大伽藍山脈西側、東のビズワ河に至るまでの草原地帯にいる限り、彼らを夜中に襲うような凶暴な肉食獣は存在しない。大草原の真ん中で長々と安眠していても平気という「おそろしく無防備な」生活習慣を、羊たちもいつの間にか身につけたのだろう。
7つほど建てられていたスコール族の移動テントの中央、集会所にも使われるとおぼしき大テントで、先程から祭りが始まっていた。
男女の笑いさざめく音が、灯火と共に闇の中で響き渡り、そこだけが静寂に包まれた漆黒の世界の中で、別次元のようだ。
遊牧生活を営み、ザネル北辰大陸各地を転々と移動するスコール族にとって「過ぎ越し」は閏八月の二十三夜とは限らない。、単に「八月の夜、月が四度目に回って来た時点、つまり現在地が真夜中に至ったその瞬間」に、今年も厄災を受けずに生き残ったことを祝い、精霊に感謝と加護を祈る儀式、という意味になる。
ちなみに彼らを加護する精霊は「風」らしいのだが、どうもスコール族自体があまり信心深い民族とは言えないようで、彼らにとって「マツリ」といえば、昼間には控えていた享楽、平たく言えば単に「酒を飲み、浮かれ騒ぐ」ことが一番おおっぴらに許される、一種の無礼講という意味合いしかないようだ。
エイレンはひとりテントから離れて、草原のはずれ、闇の世界とかろうじて灯火の届く「光の世界」の境界線に座り込み、星を眺めている。先ほど地平から姿を現した月は、すでに中空を越え、西の空へと差し掛かっている。
声をかけようか、と思いつつも、戸惑ったまま彼女を遠巻きにしていたディギッツに、彼女の方が不意に口を開いた。
「ディギッツ、あんた、自分がニザーミアへ入府した日のこと、おぼえてる?」
突然の質問に驚きながら、彼は頭の片隅にしまい込んだ記憶を必死で探り直した。無駄な努力ではあったけれど。
「いいや、あんまり…。すごく緊張していたような気がするけど…その頃、自分が何をしていたのか、さっぱり覚えてない」
「ふうん……」
長い沈黙があった。
何かを言わなけりゃ。ディギッツは、なぜか胸の動機が激しくなるのを覚えていた。
「その代わり、エイレンのことは、よく覚えてるよ。同期入府で、高貴なお姫様が入ってきたんだからね。みんな、注目していたし…すごく…」
「そうね、そういうことも、あったよね」
エイレン自身もその「栄えある」日を、まるで昨日のことのように、鮮明に記憶している。彼女にとって、それは家門の誇りとして、当然のように受けるべき栄誉だったし、またエイレン7歳の誕生日を待って挙行された、ニザーミア学府院への「入府の儀礼」は、ザネルで一、二を争う大都会であるイルーランの都においても、待ちかねた祝祭だったからである。
モーティムス家は、水の都イルーランに住まう「認定精霊師」七門家の筆頭を飾る名門であり、代々が女系による「水精師」を輩出する血筋でもあった。
別名「大河の都」とも呼称されたイルーランは、はるか北方、大伽藍山脈と赤十字回廊より源を発する大河ビスワ川とソーワ川の合流点に位置する。
河川交通網による物資集積所として、少なくともザネル北辰大陸の歴史上、現在に記録のあるガスナ紀初頭より、要衝であり続けた。
同時に、この大河の都はまた、常に治水と氾濫を鎮めることこそが統治の礎となるべく運命づけられていた。だからこそ、優れた水の精霊使いを輩出するモーティムス家が、常に首長キャグセット家を差し置いて、上位にあり続けることを許していたのである。
実際、3年に一度、月の「衝」とともに襲来するビスワ川の遡上大氾濫は、代々モーティムス家の水精師たちの手によってのみ、鎮めることが可能であったし、また氾濫と往々にしてセットで襲う干魃にも、大気の水を還流させる大シソルボ祭礼が欠かせなかった。そしてこれらの祭りを主宰しうる「祭司長」は、イルーランの都においてはモーティムスの血筋からしか生まれぬ、という宿命を背負っていたのである。
エイレンが六歳のとき、彼女は初めてシソルボ祭礼の陪臣…この場合は「見届け役」とか「随伴者」という程度の役割だが…の末席に加えられ、祭司長である叔母オルニダに従い、儀式への参加が許された。
シソルボの祭礼は、いわば降雨の儀礼…平たく言えば「雨乞いの儀式」である。
通例では、主宰者たる水精師の祭司長一名に加え、副主宰である風の精霊使い、つまり風精師数名が補佐し、さらに十名程度の陪臣が加わって、ほぼ丸半日という、恐ろしく長時間に亘る祈祷祭礼が繰り返されるのである。
ザネル北辰大陸において真夏の大気は、北方山塊から赤十字回廊を経由して都イルーランに吹き下ろされる。
途中、「北方の覇王」とかつて呼ばれたガドリング盆地南方ガランで大量の雨を落とし、これがビスワ河の洪水と同時に、イルーラン平原の干魃をもたらす厄介な乾燥台風…すなわちシェロックとなって、断続的にこの地へ襲来するのだ。
だからこそ、イルーランにおいて「水と風」を差配する精霊師は、まさに都市の生命線を握る存在として強大な権力と共に、民衆の熱い支持を受けることとなる。また彼女たち(ことに認定水精師は、そのほとんどが女性の一子相伝で代替わりする)は、その期待に応えるべく、ザネルの大地に遍在する精霊たちと信を通じねばならないのだ。
だが、エイレンが初めて陪臣として参加したその年のシソルボ祭礼に限って、どういうわけか「精霊」はいっこうに、祭司長であるオルニダに降臨しようとしなかった。
ザネルの半月…つまり「十五日」の初刻が過ぎ、祈祷場たる精霊殿から数千人にも上る観客たちが退去しても、オルニダには「精霊」の所在が掴めなかった。
──このままスペルを何度唱和しても、「水」も「風」も、この地に止まらない──
荒ぶる大気は空しく、はるか高空を彷徨い、地に潤いを与えるはずの水は、ただ造化の理に逆らい、はるか北方の山塊からこの地に怒濤の如く災いをもたらす。
二日が過ぎ、三日が空しく終わる頃になっても、干天の慈雨どころか、紺碧の空に白い雲一つももたらさない。
祭司長オルニタが詠唱するスペルは空しく精霊殿に響き渡るだけ。彼女が振る錫杖は、空しく空を切るばかりである。
毎刻、精霊殿に通い詰めているイルーランの民衆にもついに動揺が走り始めた。
本当に、このまま精霊は降臨しないのではないか?
だが、三日目の終わり頃、オルニタとともにシソルボのスペルを唱和していた陪臣の中から、不思議な変化が起こっていた。
それが、エイレンのスペルであった。
明らかに、エイレンのスペルに「精霊の力」が加わり始めていた。
それは、オルニタをはじめ、精霊殿に居合わせていたものすべてが目撃する、劇的な変化と言っても過言ではない。
エイレンの声は、すでに彼女自身のものではなくなっていた。
透明にして、朗々と詠するスペルは天を貫き、同時に一陣の風と雲塊が、精霊殿を目がけて降下し始めた。
大気は精霊使いの祈りに唱和するかのように揺らぎ、水は蒸散しつつ、精霊使いの元へと召還されていく。
錫杖すら持たず、もちろん召還舞の所作すら学んだことのない六歳の少女が、腕を拡げ、脚を折り、腰を捻らせて胎内に「精霊」を迎えている。
──誰も、何も、教えなかったのに、この幼い娘は、精霊に祝福されている!──
天から、ついに応えが轟いた。
激しい光芒とともに雷鳴が天を突き、次の瞬間、昼の空は暗黒に包まれる。
ぽつん、ぽつん……。
地上に落ちる雨粒はやがて、土砂降りの豪雨へと姿を変え、精霊殿にいた群衆の歓喜の声もまた、絶頂に達しつつあった。
叔母たるオルニタは、一子相伝の刻を悟った。
自分の使命のときは過ぎた、いまこの瞬間に終わりを告げたのだ、と。
オルニタには悔恨の念も、そして今し方、一瞬湧き上がった嫉妬の炎も、不思議なことにもう何一つ感じなかった。
己自ラ先人ニ為シタルガ如ク、復タ為サルルヲ称シテ、コレヲ宿命ト呼ブガ所以ゾ……。
かくして姪である六歳の少女は、この瞬間から自らの名前を変えた。
エイレン・オルニタ・モーティムス。
大精霊使いであった叔母の名前を中央に冠したこの少女は、まさしく「鳴り物入りの」精霊師見習いとして翌年、わずか七歳の若さでニザーミア学府院へと招聘されることとなった。正式に監察官の御璽を賜るまでは数年。彼女にすれば「名ばかりの修行期間」をニザーミアで我慢さえすれば、その後には、洋々たる人生が待ち受けていた。
……
少なくとも、待ち受けていたはずだった。
彼女が、ニザーミア学府院を追放されるまでは。




